第20話悪意啄む緋色の水玉
鶏が鳴き、朝日が差し込む。
遮る物が何もないあばら家を、朝の涼やかな風が素通し、薄布に包まるトロイを襲った。
ぶるりと身震いしたトロイは、
そうしてしばらく無駄な抵抗は続き、時計の長針が半周した頃、布団の上、トロイの跳ね上げた襤褸布が埃を舞わせた。
「俺は確か…」
はっきりとしないトロイの記憶は、昨夜スイに拘束され、何かされたところで途切れている。
ニヤケ面の少女、男の声をしたムカつく化物と、鎧姿の大男を探してトロイが部屋を見回せば、誰もいない。そのまま、ふと、手の感触に気付き下を見た。
白銀の鎖に混じり、白い糸があった。
「糸に、鎖…?」
寝ぼけ眼でそれを辿っていく。
なんとなく枕の方を向きたくなくて、それがトロイの動きを鈍らせた。
「くふ、こちらを向け」
「お早う。トロイ」
見慣れぬ少女だった。
すらりと長い手足に、朝日を受けて輝く白妙の長い長い髪を振り、薄い眉の下、緋色の瞳がトロイを捉えて離さない。
五つ紋をあしらった黒留袖と、病的なまでに白い肌のコントラストにトロイの目が惹かれる。
「え、あ、おはよう…ございます?」
「呆として、どうした。
昨日の今日でわたくしを忘れたか?」
しどろもどろに返され、少女はつまらなそうに鼻を鳴らす。
寒さで赤く染めた頬をわざとらしく膨らませ、じゃらりと鎖を伸ばしてトロイを離した。
「もしかして、スイさんですか?」
「そうだ。覚えているではないか。
くふ、お前は鶏よりも賢いな」
「あの後どうなったんですか?」
「わたくしが、お前の悪しき全てを食らった。あやつにかけられた暗示諸共な。
それがわたくしの糧となり、あの阿呆に負わされた病を治したのだ」
言われて、トロイは自分の中のドロドロとしたどうしようもない感情の塊が消えたことを自覚した。そしてその結果、あの錆びた日本人形は姿を変え、目の前の白い少女という、元の姿を取り戻したらしい。
数多の理解の及ばぬ現象に見舞われたトロイは、それはそういうものなのだと乱暴な結論を下し、思考のテーブルから払いのけた。
トロイは、あの妙な肯定感をもう感じない。同時に、目の前の少女、つい昨晩まで錆びた日本人形のような出で立ちだった化物に対する恐怖もなく、また、エルシーに対しても、してやられたという小さな怒りはあれど、恐ろしいという感情はなかった。
「それはおめでとうございます。
ところで、ラポとエルシーさんは何処に行ったか知っていますか?」
「うん?ああ、あの二人は腹が減ったと屋台を漁りに行ったぞ」
「そういうことなら、起こして下さいよ」
「くふ、お前はわたくしを枕に気持ちよさそうに眠っていたからのぅ。
わたくしとて、起こし難い」
「やっぱり、そんな粗相を…。
すみません」
「何を謝ることがある。わたくしとお前の仲ではないか」
そう、怖気立つ笑みで、スイはトロイを押し倒した。
トロイには、信用がなく油断があった。そのはずだった。
和やかな雰囲気は霧散し、爽やかな朝にあって、どこかドロドロとしたものへと変容した。
スイはトロイが口を開くよりも早く、鎖が手足を縛り、首を縛り、自由と声を奪った。
言葉の代わりに大きく見開いた目が、トロイの恐怖を語っていた。
「お前は美味かった。
直前に食ったあの鎧よりも、わたくしの生涯全ての、何よりも美味かった。
エルシーの言った通り、お前に胃袋をつかまれたのだ。虜だよ。お前は最高だ。
わたくしと暮らさぬか?不自由をさせよう。鎖でもって縛り付け、飢餓で狂えば水を与えよう。
お前の淀んだ貌が見たい。
数年であれだ。何十年と経てばどうだ。手ずからに育てるお前は格別だろう。
お前は素敵だ。心奪われたよ。
わたくしに全てを捧げぬか?お前を縛りたい。わたくしでもってお前を汚したい。
そうしてまた、わたくしに食らわせておくれ。あの極上の悪意を」
頬は興奮で紅潮し、緋色の瞳は触れ合うほどの間近でトロイの目を映している。
鎖はさらに蠢き、トロイの体を這い回り、拘束を強めていく。
「ああ、まるで年端のいかぬ女童のようではないか。
許せ。お前がわたくしを狂わせる。
お前が欲しくて欲しくて堪らぬのよ」
締りを強くした鎖が、トロイの意識を刈り取る直前に、砂利を踏む音がした。朝食を買いに行った二人が戻ってきたのだ。
それを聞いたスイは、反射的に鎖を引っ込めて飛びあがり、そのまま天井に張り付いた。
その様を呆然と見ていたトロイは、両手いっぱいに食料をぶら下げたラポとエルシーに声をかけられるまで、帰宅した二人に気が付かなかった。
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