リタイア

@takuya0213

兄が死にました。


1本の電話が私の世界を変えたのは兄の20回目の誕生日だった。

私は高校入試を控えていた。

とは言うものの、進路はほとんど決まっていた。

陸上の強豪校が、私を是非と言ってくれているのだ。

面接さえ受ければ晴れて合格、のはずだった。

「由紀はいいよね」

「そうそう、足が速いだけで高校決まってさ」

兄に倣って始めた陸上が私の進路まで決めてくれたのだ。

友人の、嫉妬にもついついにやけてしまう。

走ることでは、誰にも負けたくない。

前を走るランナーを抜かすそあの一瞬が私は好きだ。

......私が兄にさっき入れたメッセージにはまだ返信がない。 誕生日のお祝いのメッセージ。 きっと兄も忙しいのだろう。彼女といるのだろうか。 家に帰ってお風呂に入ろうとした時、電話が鳴り料理を作っていた母が出 た。

表情がみるみる変化して青ざめていた。

「そんな、そんなはずありません......」 ほとんど、嗚咽でなにも聞こえなかったけれど恭平という言葉から兄の身に 何かが起きたことだけはすぐにわかった。 電話を終えた母は放心して言葉が出なかった。 受話器を持ったまま、壁を見つめている。

「お母さん、誰だったの?」

「由紀ちゃん......」 倒れそうになる、母を慌てておさえる。

「恭平ちゃん、死んじゃったんだって......」 それだけ言うと堰を切ったように泣き始めた。 私は無理やり頭を働かせる。 「とにかく、まず、お父さんに電話しないと!」 母は糸が切れたようにグニャリと電話を抱え込んで崩れてしまった。 私は自分の携帯から、父に電話した。 数回コールが鳴ってから応答した。 電話口から、会社にいることがわかる。


「由紀、LINEにしろって......」 「お父さん、お兄ちゃんが死んじゃった!」 まるで底なしの井戸に小石を投げたような沈黙。 「お母さんは!?お母さんにかわってくれ!」 「ショックで、なんにもしゃべれないよ」 泣き出しそうになるのを必死で抑えてそう言った。 母はまるで宝物のように電話を抱きかかえている。

「......そうか。父さん、すぐ帰るからな。家にいるんだぞ」 無理矢理、冷静さを装っているのがすぐにわかった。 父が帰って来るまで、家にいるのはすごく怖かった。 母に一度だけ声をかけたけれど、やはり反応はなかった。 何かしていないと気が落ち着かなくて、本を読んだりテレビを見たりした。 でも何も頭に入ってこなかった。

14歳の私と兄は5歳違いだ。

兄は昔から、明るい性格だった。

男子校では、ますますその性格に磨きがかかり、いつもバカなことをやって

いた。

そんな兄が私は好きだった。

高校を出ると、兄は浪人することになり家で勉強していた。

その当時の兄は、以前よりは落ち着いて口数も少なくなった。

それでも、やっぱり私は兄が好きだった。

1年浪人して京都の大学が決まると兄は家を出て言った。

寂しかった。

私は高校に合格したら兄の下宿を訪ねるつもりだった。

どれぐらい経ったのだろう。

扉が開いた。父が帰ってきた。

「お父さん......」

父が真っ先に駆け寄ったのは、母のところだった。 あれからずっと同じ姿勢でいたのだろうか。もう寝てしまったのかもしれな い。

反応が返ってこないことを確かめると父は私に言った。 「それで、本当なのか?」 「警察から電話が来てね、お母さんはそれを聞いてああなっちゃったの」 「わかった。電話してみよう」 台所で水を一杯飲んで上着を脱いだ。そしてネクタイを緩めてから電話をか けた。


電話中、父は頷いているばかりで自分からはなにも言わなかった。

「お世話、かけます」

最後にポツリとそう言って切った。

「恭平が死んだ」

真っ青な顔でそう言った。

「お兄ちゃん、本当に死んじゃったの? 何かの間違いだよ絶対」

自分に言い聞かせるように、そう答えた。

でも父は言葉なく、私を抱きしめるだけだった。

私は泣くことができなかった。

涙を流すにはあまりに混乱していた。

一人になりたくて自分の部屋にいった。

私には信じられなかった。

兄が死ぬなんて。

私の知っている兄は、死から最も遠くにいる人だった。

いつだって元気いっぱいに走りまわっていた。

私が送ったメッセージには既読がいつまで経ってもつくことはなく、現実に

兄が死んだんだと否応無く思い知らされた。

その夜は一睡もできなかった。

翌朝、父は警察署に行った。

母は、ベッドから出てこなかった。

私は、朝食を食べると外に出ることにした。

2月の朝は信じられないほど寒かったけれど、家にいるよりはマシだった。

友達を私から呼び出した。

私は誰でもいいから、誰かと居たかった。

兄と無関係な誰かと......。

私たちはスターバックスに入った。 彼女はずっと自分が告白されたというニュースを話し続けていた。 その声はどこか遠くの世界から聞こえて来るような気がした。 私はその世界に帰れるだろうか。

「由紀は最近なんかあった?」 私は答えに窮して何も言わなかった。 傷のない何もかも元どおりの14歳の女の子には戻れないだろう。 ふと周りの人間を恨めしく思った。 不幸でも幸福でもない平凡な人々。 私も昨日まではあちら側の人間だった。


あの電話がかかって来る前までは。

しかし今、私は世界一不幸な14歳だ。

友人と別れてからもまだ家には帰る気にならなかった。

家の近くの小さな公園に行った。

土筆公園。滑り台しかない、本当に小さな公園だ。

そのたった1つの遊具でも、遊んでいる人はいなかった。

兄とはよくここで遊んだ。

そんな思い出の公園なのに今日はどこか不気味だった。

私は、そのまま歩いて家に帰った。

父が帰ってきていることを祈りながら。

幸い父は家にいた。

「どうだった!?」

父はしっ、と口に人差し指を当て私を二階に連れて行った。

「お母さんがね、ショックで......」 「うん。知ってる」 父はため息をついた。

「警察に行って話を聞いてきた。でもお前にこの話をしていいものか......」 「いいの、言って」

「恭平な、自殺だったんだ......」 振り絞るようにそう言った。 自殺?

「なんで?なんでお兄ちゃんが自殺するの......?」 兄が自殺なんてするわけがない。

「京都にもいかないと」

「え?京都に行って来たんじゃないの?」 「いや、さっき行ってきたのは神奈川県警だ。お兄ちゃん土筆公園の滑り台 で首をつったんだ」

私は寒気のようなものを感じて身を震わせる。

「パパ、これからどうするの?」

「まず葬式だ。お世話になった人に連絡しないと」

それからすぐに葬儀と告別式があった。

葬儀には親戚と兄の友人たちが何人か来た。

母はほとんど放心状態で父に支えられるようにして椅子に座っていた。

焼香の時も兄の頰をさすり続けていた。

私は兄にお別れの言葉を言えなかった。

涙さえ出てこなかった。


「由紀」

兄の中学時代からの友人、涼介に声をかけられた。

「由紀、辛いね」

母はめったに顔を見せなくなった。

食事もほとんどとらず痩せていった。

外資系サラリーマンだった父は葬式の後、すぐに仕事に戻った。

仕事に穴を開けられない、というのが建前の理由だが本当は兄の死を忘れた

いだけだった。

行くと言っていた京都にもまだいっていないようだった。

要するに誰もが兄の死を受け入れることに苦しんでいた。

私にも普段通りの日常が戻ってきた。

学校には通達がいったようで、クラスメイトはどこか腫れ物に触るように私

を扱うようになった。

警察は自殺と処理してそれっきりだった。

動機は、将来への不安。

たったそれだけで兄の死は結論づけられた。

私は何気なく、兄の携帯を触ってみた。

ロックがされていない。

きっと、警察の人が外したのだろう。

写真を見たり、メモ帳を見たりしていると兄が死んだなんて納得できなかっ

た。

兄のLINEには通知がたくさん来ていた。 葬式に来ていた連中からだ。 感謝とお別れの言葉。今更何になるのだろう? 私は何かの儀式のようにひとりひとりブロックした。 生きている時は兄のことを気遣ってやれなかったくせに。

それは私も同じだ。

兄と私のやりとりを見返しても変なところは一切ない。

他愛のない話、日常の報告、ナンセンスな冗談。

兄が苦しんでいることなんて、全く知らなかった。

一通りブロックし終えたところで、兄の死を大学の友人に知らせる必要があ

ると思った。

トーク履歴から、兄と交流がありそうな人を探し出す。

しかしその作業はまったく手間がかからなかった。

兄の友人はとても少なかったのだ。

そしてほとんどの人からブロックされていた。


最後のメッセージに既読がついていなかった。

私は仲が良さそうな一人に訃報を知らせた。

すぐに返信が来た。

お兄さんとサークルが一緒だった、戸田優作です。

亡くなったというのは、本当でしょうか。

はい、本当です。

もしよければお話を聞けませんか?

お願いします。

数回のやりとりの後、私は京都に行くことになっていた。

どうしても、兄を知っている人に話を聞いてみたかったのだ。

仕事から帰ってきた父に、明日から京都に行くと言った。

「行ってどうするんだ?」

「わからない。でも行く必要があると思う」

「だって明日は面接だろう?」

「ごめん、しばらくは無理みたい。少しお兄ちゃんのとこに行きたい」

「そうか......」 荷造りの最中に、父が封筒を渡してくれた。 中身を見ると5万円入っていた。

翌朝、私は京都に向かった。

横浜ー京都間は新幹線で2時間あれば着く距離だ。

私は戸田、と言うその男に会うために京都駅からバスに乗り兄の大学にやっ

て来た。

「吉岡さん?」

図書館の前に筋骨隆々の見るからにスポーツをしているとわかる男が立って

いた。

「はい」

「戸田です、初めまして」

学生会館に行きましょう、と言う戸田に従い歩き出す。

「京都まで来るのは大変じゃありませんでした?」

戸田は年下の私に対して敬語を使った。

「そんなに大変ではなかったです。大学までは少し戸惑いましたが」

「ここは、完全に山の上ですからね」

私たちは、学生会館に入って行った。

「今は、春休みですから部室には人がいないんです」


エレベーターで4階に上がった。

「ここが僕らが使っている部室です」

陸上同好会 31期と書かれた扉を戸田は押した。

部室には、ランニングシューズやダンベルといった器具が並び、壁には写真

がたくさん貼られていた。

椅子に腰掛けると、戸田は話し始めた。

「お兄さんのこと、なんと言っていいか......ご愁傷様でした」 「兄とは仲が良かったんですか?」

「ええ」

壁にかかっている写真の一枚を私に見せる。

50人ほどの集合写真だ。 兄と戸田は肩を組みながら最前列に写っている。 「僕たちはすぐに仲良くなったんです。この大学には陸上部もあります。僕 らはその入部試験の日に出会いました。お互い落ちてこのサークルの方に入 ったんです」 この大学の陸上部は全国的な強豪だ。私立だから全国各地から強い選手が集 まると兄から以前聞いたことがあった。 「これは、その新歓の写真です。先輩たちもいい人たちばかりでしたし、僕 らはここならやっていけそうだな、と思っていました」 戸田は、懐かしむような顔をした。 「お兄さんは、かなり酔っ払ってしまって僕は彼を家に送ったんです。それ で彼の家で色んなことを話しました」

「どんなことを話したんですか?」

「酔っていたので大した話は......。サークルで誰が一番かわいいとか、そうい ったことです。彼はサークルのある女の子に一目惚れしたんです」 写真の一人を指差しながら言う。 黒いロングヘアのいかにも男子受けしそうな女の子だった。 「僕は彼にデートに誘うように言いました。彼は最初もじもじしていまし

た。1ヶ月前まで男子校に通っていたというので無理もないですが......。でも 勇気を出して誘っていましたよ」

「うまくいったんですか?」

「はい。......最初だけ」

小峠は、視線を私から外した。 「3回くらいデートしたみたいです。3度目のデートの時、彼はその子に告 白したんです。ちょっと考えさせて欲しいと彼女は言ったみたいです」 「それで、どうなったんですか?」 「次の飲み会の時、サークルの部員は全員そのことを知っていました」


「言いふらされたんですね?」

「それも、ひどいやりかたでした。笑いながらネタにする感じで......あの時の 恭平の顔は見るに耐えなかったです」

「そんな......」 「先輩たちもそれを肴にする感じで。悪気はなくてちょっとしたイジリだっ たんでしょうね。恭平もその場では笑っていました。でもその帰り道ずっと 泣いていました」

「それから、兄はどうしたんですか?」 「サークルを辞めてしまいました」

「そうだったんですか......」 「多分、サークルの誰もわからなかったと思います。恭平が実はとても繊細 な人だということに」

「他に兄について何かわかりませんか?」 「彼は、アルバイトしていましたよ」

「アルバイト?」 「大学の募集を見て一緒にいったんです。僕はとても続かないと思って辞め たんですが恭平は長く続けていたみたいです」 「兄とは陸上を辞めてからも付き合いがあったんですね」 「いや、そういうわけじゃないです。しばらくはお互いの家を行き来してた んですが、ある時から意識的に会わないようにしていました」 「どうしてですか?」 「彼はある宗教にのめり込んでいったんです。それを僕に勧誘して来るよう になりました。他にも何人か勧誘された人がいるみたいで、恭平のことを気 味悪がっていました」

「宗教?キリスト教とかですか?」 「いや、なんかもっと胡散臭い系のやつです。名前は忘れてしまいました が」

「もうそれから、兄とは会っていないんですか?」 「彼はしばらくして大学にも来なくなったんです。10月くらいに偶然、駅 で出会った時、彼は人が変わったようでした。単位をたくさん落としてしま ったと言っていました。それが最後です」 僕に話せるのはこれくらいです、と戸田は申し訳なさそうに言った。 「いろいろ教えていただいてありがとうございました」 私は、頭を下げて戸田と別れた。

昼時だった。

食堂は空いていた。

私は、兄のことを考えた。


兄は、ある宗教にはまって友達をなくしたという。

この食堂に今の私みたいに一人で食べていたのだろう。

この広い食堂で一人ぼっちでいる兄の姿を想像した。

兄は一人が好きなタイプではない。

いつも友人に囲まれていた。

寂しかったにちがいない。

それに兄はずっと難関の国立大学を志望していた。

結局1年浪人してもダメだったけれど。

それどころか他の大学にも落ち続け、滑り止めでこの大学に入ったのだ。

戸田がさっき、先月まで高校生だったと言っていたことが気になった。

おそらく兄は自分が浪人していることを周りに打ち明けなかったんじゃない

だろうか。

気持ちはわかる。一年歳が上だということが周りにわかれば、どうしても気

まずくなるのだろう。

きっとこの大学の人を兄は心の中でバカにしていたんだろう。

そして、失恋。

どんな気持ちだったのだろう。

ひとまず兄の家に行く必要があった。

私は、グーグルマップで兄の家までのルートを出した。

最短ルートではバスを推奨していたが私は歩くことにした。

少しでも兄の歩いた道を自分で歩いてみたかったのだ。

たっぷり30分歩いて、兄の家にたどり着いた。

合鍵で中に入る。

予想外に部屋は綺麗だった。

「お邪魔します」

シン、と静まり返る兄の部屋にそう言った。

当然のことながら誰も応えてくれない。

兄の部屋の中はそれほど物は多くなかった。

本、ベット、テレビ、服、ウイスキー瓶、ペットボトル、薬の袋、テイッシ

ュ...... 警察の人の手が加わっているのだろう。どことなく物の置き場所が不自然 だ。

なかでも不自然なのは、机の上に置いてある薬だった。 オレンジや白のカプセルや錠剤。

私はゾッとした。


窓がなく、ベランダからは空が見えず圧迫感のある部屋だ。

ベッドに転がって天井を見た。

天井も低く、潰されそうな気持ちになる。

お兄ちゃん 辛かったの?

でも死んじゃダメだよ...... 苦しかったの?

なんで私に言ってくれなかったの......

私はこれからどうするべきだろうと、考えた。

いてもたってもいられず京都に来たが次に何をすべきかは全くわからなかっ

た。

寝返りをうったときテーブルの上にあるカラフルなものが視界に入った。

薬があるってことは、医者にかかっていたはずだ。

その袋には、こもれびメンタルクリニックと書かれていた。

兄の悩みを知っている医者がいるはずだ。

私は電話をかけた。

「はい、こもれびメンタルクリニックです」

よく通る女性の声がした。

「あの、私、そちらでお世話になっていた吉岡恭平の妹なんですが」

「はい、どうかされましたか」

「兄は、兄は自殺したんです」

相手が息を飲むのがわかった。少々お待ちくださいといって、クラシックが

流れた。

これは、メンデルスゾーンだっけ、チャイコフスキーだったかな......。 「もしもし、院長です」

「あ、私、吉岡恭平の妹です」 「吉岡君が自殺したというのは、本当ですか」

「はい、事実です」

痛いような沈黙。

「君、本当に妹さん?」

「はい、妹です。今京都に来ているんです」

「そう、今日詳しく話を聞けるかな?」

「大丈夫です」

「18時にクリニックを閉めるから、その後に来てください」

「わかりました」


クリニックは兄の最寄りから一駅先の駅にあった。

テナントビルの5階の扉をあけて中に入る。

ハンカチで目元をおさえた女性とすれ違った。おそらくここの患者だろう。

受付で名前を言うと、しばらくソファに座っているように促された。

「お待たせしました」

中年の男性に声をかけられて診察室に入る。

診察室は清潔な部屋でパソコン、観葉植物、何に使うのかギターが置いてあ

る。

「吉岡君が亡くなったこと、本当にお気の毒です」

私は、兄が死んだ状況を院長に説明した。

院長は、静かに頷いて聞いていた。

「兄は、何度かここに通っていたのでしょうか?」

院長はパソコンのモニターを見ながら言った。

「最初に来たのが5月18日だ。その時は眠れない、と言っていた」

「病気だったんですか?」

「うつ病と私は診断した」

「薬で治るんですか?」

「いや、根治......つまり完全に治すことはできない。症状を和らげるのが限界 なんだ」

「先生のところには、どれくらい来ていたんですか」 「うん、二週間に一度来ていたよ」 「兄の悩んでいたことって一体なんだったんでしょう」 「非常に心苦しいんだが、正直よくわからないんだ」

「わからない?」

「診察は一人10分以内だからね、症状の経過をチェックして薬の量を増減

していただけなんだ」

「10分?10分で兄の何がわかるんですか!?」

私は思わず叫んでいた。

医者は慌てて自己弁護した。

「仕方ないことなんだ、患者はたくさんいるからね」

「兄の下宿にはにはかなりの量の薬が置いてありました。本当に、本当にあ

んなに必要だったんですか」

あの薬の量は異常だった。赤い薬、青い薬、錠剤、カプセル......10種類は超 えていた。

「今となっては、吉岡君が亡くなった以上......正しかったとは言えまいね」 「本当に、兄から何も聞いていませんか?何に苦しんでいたんでしょう?」


院長は何も知らなかった。

ありがとうございました、と言って出て行こうとすると後ろから声をかけら

れた。

「君は一度、心療内科にかかりなさい。自死遺族のメンタルケアは重要だか

らね」

クリニックを出て適当な店に入り夕飯をとった。

ひどくまずかったことだけを覚えている。

家に帰り、玄関を開けようとしたとき、ふと隣人に聞いてみようと思いつい

た。

角部屋だった107号室の兄の隣人は106号室だけだ。

1年間住んでいれば、壁越しになにかわかることがあるかもしれない。

淡い期待とともに、インターホンを鳴らした。

「どなた?」

女性だった。

「ここに住んでる人ですか?」

「住んでるのはわたしじゃないけど、ちょっと待って......」 女性と入れ替わり、体格のいい男が出て来た。 歳は兄と同じくらいに見える。 「あの、私、隣に住んでいる吉岡恭平の妹です」 「お隣さん?なんかよう?」 反応から、兄との交流はなさそうだと察する。 「実は兄が、死んだんです」

「へぇ、そう」

冷たい返事だった。

「兄について何か知りませんか?なんでもいいんです!」

「なんもないよ、お隣さんとは交流がなかったし」

「思い出してください!音とかしませんでした?」

「音?あー、夜がうるさかったなぁ」

「うるさかった?」

「夜中になると怒鳴ってたよ。うーーーとかあーーーーとか。まぁ、ここ壁

が薄いしさ、俺も人のこと言えないし騒ぎになりたくなかったから苦情は入

れなかったけど」

「それって、毎日ですか?」

「そう。ほぼ毎日。最初の頃はそんなことなかったんだけど、5月か6月く

らいかな。それが始まったのは。最近なくなったなと思ってたら、死んじゃ

ってたの」


おーい、お隣さん死んじゃったってさ

え。まじ?

さっきの女が男の後ろから覗いてくる。

「兄の部屋に誰か来ていた様子はありました?会話している声とか聞こえた

んじゃないですか」

「うーん、たまに誰か来てたんじゃないかな、話し声がしてたから。それ

か、壁に向かって話してたのかなぁ」

ありそう、頭おかしかったもん

女性を睨みつけて私は最後に質問した。

「お二人はいつから同棲されているんですか?」

「コイツがくるようになったのは5月からだけど?それなんか関係ある

の?」

「いえ、ありがとうございました」

私は兄の部屋に入って扉を閉めると思いっきり壁を蹴った。

その夜だった。

私が寝ていると奇妙な声に起こされた。

壁から聞こえてくるその声のわけが私はしばらくわからなかった。

そして、その声の意味を理解するとともに兄がこの部屋で苦しめられていた

ものがわかった。

こんなものを毎晩聞かされていてはそれは発狂するだろう。

私は、寝ることができずに兄の財布を開いた。

お札と硬貨、それにお守りや映画の半券、レシート。

その中に一枚、不思議な名刺が出て来た。

はるか 恥じらい隠語王国

名刺に書いてある地図によるとその店は大阪にあった。

どんなお店なのか私には見当もつかなかった。

18:00開店。

こんなに遅くに開く店があるのだろうか。

それに、はるか、とはなんだか名刺にそぐわない名前だ。

普通はフルネームではないだろうか?

とにかく明日行けばわかることだ。

声は、一層高まっていた。

男は獣のような声で女は悲鳴に近い声だった。

私は耳を塞いで眠ろうと努力をした。


きっと、兄もこうしていたのだろう。

耐えきれずに怒鳴り声をあげる兄の姿を想像して胸が痛くなり、そして眠っ

た。

翌朝、私は戸田から聞いた兄のアルバイト先を訪れた。

土曜日だったので開いているか心配だったが子供たちの姿が見えて安心し

た。

兄が働いていたのは学童だったのだ。

入り口で、スタッフらしき人に事情をかいつまんで説明すると、しばらく待

っているようにと言われた。

私は兄の死は伝えないことにした。

「おまたせしてごめんなさい」

スリッパの音がして人の良さそうな中年の女性が現れた。

「吉岡恭平の妹です。 由紀といいます」

「わかるわ。顔がとても似てるもの」

少しだけ顔が赤くなる。

「ここには、健常の子供と障害を持った子供がいるの。お兄さんには障害を

持った子供を担当してもらっていたの」

想像していたよりも大きな施設だった。

大きな広場で、子供達が遊んでいる。

中に通されるとたくさんの絵本が並んでいて、数名の職員がパソコンに向か

っていた。

私は椅子に座り、出してもらったお茶を飲んだ。

「兄は、いつから働いていたんですか?」

「4月。大学に入ってすぐ募集の張り紙を見て来てくれたの」

「どんなことをしていたのですか?」

「主に大学生のバイトさんには子供達と遊んでもらっているわ。他には後片

付けとか、まぁそんなところね」

「真面目に働いていましたか?」

「ええ、アルバイトスタッフの中では一番真剣に働いてくれていたわ。最初

は週に3日程度。夏休みにはほとんど毎日働いてくれていたわね」

ほら、と見せられた写真には兄の腕拳に子供がふ二人ぶら下がっていた。

男の子と女の子だ。

三人とも笑顔だった。

「それがね、夏休みが終わった後も、お兄さんが毎日働かせてくださいって

言ってきたの。だからあれって思ったわ。だって大学に通っていたら毎日、

ってわけにはいかないでしょう?」


私はお茶を飲みながら頷いた。

「でも結局何度もそう言うものだから、人手も足りなかったし、なによりお

兄さんは本当に真剣に働いてくれていたからお願いすることにしたの」

「ここは土曜日もやっているから週6で来てくれていたわ。ほとんど私と同

じぐらい来ていたんじゃないかしらね」

バイトさんには日誌をつけてもらっているんだけど、そう言って見せられた

紙には兄の名前とその日にあったことが細かい字でびっしりと書かれてい

た。

子供達の些細なことまで、兄は見ていたのだ。

「この仕事って合う合わないがはっきりしているの。向いてない人は絶対続

かないわね。それは子供たちの方でもそう。懐かないスタッフには徹底的に

懐かないの。でも吉岡くんのことはみんな大好きだった。よっしー、なんて

呼ばれていてね。だから、年内で辞めたいって言われた時はもちろん引き止

めたわ」

「辞めてしまったんですか?」

「お金を稼ぐ必要がなくなったって言っていた」

「やめた理由はそれだけでしょうか」

「これかな、っていうのはあるけれど」

「なんですか?」

「あのね、母と子の懇親会っていうイベントが12月にあったの。本当は職

員だけの参加なんだけれど、私は彼にも参加してもらったわ。職員のだれよ

りも仕事に来ていたし、彼はこの仕事に向いていると思っていたから」

でも結果的にそれはまずかったわね。と言った。

「彼、思い詰めるタイプだったのね」

「どういうことですか?」

「その会はね、決して明るい内容じゃないわけ。障害を持った子を育てるの

はそれは壮絶なものよね。なによりも未来がないことが致命的なのよ。だっ

てそうでしょ?母親は子供より先に死ぬんだから。子供を残して死ぬのって

不安以外の何物でもないじゃない?」

「懇親会が終わって後片付けをしている時、私にこう言ったの。あの子たち

は生まれて幸せなんでしょうかって。私自身、障害を持った子がいるからそ

の発言は許せなかった。あなた、冗談でもそんなこと言わないでって言った

わ」

外で遊んでいる子供達を私は見た。

健常の子も、障害を持っている子も遠巻きに見ていると何も変わらないよう

に見えた。

「お兄さん、失踪したって聞いたけれど」

「そうなんです、ちょっといなくなってしまって......」


「お兄さんに会えたら、またバイトに入って欲しいって言ってもらえる?や

っぱり彼、こう言う仕事に向いていると思うのよ」

「わかりました、伝えておきます」

私は京都駅で昼食を食べると、そのまま大阪に向かった。

名刺に書いて会った女性に会うためだ。

兄との関係は何もわからないが、行けるところまで行くしかない。

少しずつ本当に少しずつ、兄の苦しみに近づいて行ける気がした。

大阪駅は人で溢れていた。

開店時間までは、まだまだ時間があったので私は映画を見ることにした。

病弱なヒロインとの恋という陳腐な物語だった。

私は、最後まで耐えきれずにそのまま外に出た。

ハッピーエンドになることがわかったからだ。

なにもすることなく暗い気持ちで、雑踏を眺めていた。

この人たちは死ぬことを考えることはないのだろうか。

死にたい、なんて思うことなく生きているのだろうか。

気づけば、「恥じらい隠語王国」の開店時間をとっくに過ぎていた。

東通り商店街の中を名刺に書いてある地図を頼りに歩いて行く。

道すがら、客引きをしているスーツの男や行き交う人々が私のことをジロジ

ロ見てきた。

私はあまりに場違いだった。

時間と料金がけばけばしい色で書かれている、エッチな女の人の写真の看板

がいたるところに挙げられていた。

「恥じらい隠語王国」は、そんな場所にあった。

お店の前でいかめしい格好の男が立っていた。

「あ、あの、ここが、恥じらい、隠語、王国ですか?」

「そうだけど、お嬢ちゃんが何の用かな?」

予め、考えてきた嘘を言う。

「私の姉がここで働いていて。はるかって言います。忘れ物を届けに来たん

です」

どうみてもバレバレの嘘だったが男は何も言わずに私をエレベータに乗せ

た。

「恥じらい隠語王国」はテナントビルの地下1階にあるのだ。

「しばらくここで待ってな」

男は私を長椅子に座らせ、暖簾がかかった部屋に消えて行った。

はるかは妹が来たと言って何を思うだろうか。

暖簾の奥から出て来た禿げた男が、私を見てギョッとして足早に去って行っ

た。


自分の心臓がばくばくと鳴っているのがわかった。

「あなた?」

とてもきれいな女の人が目の前に立っていた。

透き通るような肌に黒い髪。

「はるか、さんですか?」

「そうよ」

「あの......」

じいっと、はるかは私のことを見つめた。 「そこで待ってて。きっと訳があるんでしょ?抜けられるように言ってみ る」

再び暖簾の奥に戻った。 私にはあの奥でどんなことが行われているのか見当もつかなかった。 はるかは戻ってくると、私に聞いた。 「あなたは夕飯はもう食べたの?」

「いえ、まだです......」

「じゃあ、一緒に食べましょう」 商店街を、はるかは我が物顔で歩いていった。 時折、顔見知りなのか立っている男に声をかけていた。 私はどこに連れていかれるのか不安だった。 はるかは、いかにも高級そうな焼肉屋に入っていった。 私は入るのに躊躇したが他に選択肢はなかった。 焼肉を食べることなんて久しぶりだった。 ここ数日、食欲が全くなく、食事を取るのはいわば習慣的に仕方なく口に物 を詰め込んでいるだけだった。

店内に入って対面の座敷に通される。

そこでようやく私とはるかは口をきいた。

「私に妹がいたなんて。初耳だわ」

私がなぜあんな嘘をついてまではるかに会おうとしたのか興味津々なようだ

った。

「兄の財布からあなたの名刺が出て来たんです」

「あなたの、お兄さん。なんていうお名前?」

「吉岡恭平です」

私は由紀です、と付け加える。

「恭平くん......」

「知っているんですね?」 「もちろん知っているわ。うちの常連さん。最近は来てくれないけれど」


「兄のことで聞きたいことがあるんです」

「恭平くん失踪でもしたの?」

「......そんなところです」 「初めから話した方が良さそうね」 そのとき、私たちが頼んだ肉とドリンクが運ばれてきた。 私は、オレンジジュース。はるかは、ビール。 私たちは乾杯した。 はるかはビールを飲んで、肉を一通り食べてから話し始めた。

「恭平くんが最初にお店に来たのは、9月だったわ」

話しながらも、右手は肉を焼くことで忙しい。

どうやらはるかは相当な大食漢らしかった。

どこから話せばいいんだろう、とはるか言った。

「まず、お店のシステムから話すべきかな。あの店はね、40分間で一人の

お客さんに女の子が三人交代で付くの。恭平くんは最初に来た時とても緊張

していたわ。あの店って言ってしまえば、おっさんが多いから恭平くんみた

いな若い人は印象に残ってるの」

ビールをグッと飲む。

私もお腹が空いたので、レバーを焼いて食べる。

兄が好きだった、レバー。

兄はこれでタンパク質を取れるんだ、といつも言っていた。

「恭平くんはね、最初の二人とは何も話さなかったの。女の子たちが色々話

しかけたりボディタッチしていたけれど、何にも反応しないの。控え室でい

け好かない客だってプリプリしていたわ」

はるかは、カルビに手を伸ばす。私の取り皿にも2枚乗せてくれた。

「わたしにもね、最初は何も話してくれなかった。だから、私は自分のこと

を話すことにしたの。別に大したことは話してないんだけどね。恭平くん

は、延長することなく気まずそうに帰っちゃった。だから私もう来ないな、

と思ってたの」

はるかは、すみませーんと店員を呼んで2杯目のビールをお代わりした。

私は、カルビに手を伸ばした。白ご飯とカルビの組み合わせはとてもおいし

かった。

「でもね、彼は1週間したらまた来たの。それも今度は私を指名してくれた

の」

「指名?」

「さっき40分で3人交代って言ったでしょ?指名っていうのはね、40分

間、一人を独占できるの。指名料っていうお金を払ってね。2回目は、結構

話をしたわ。自分のこともぽつぽつ話してた。大学の1年生で、横浜から来


てるってこととかね。でも相変わらずシャイなところは変わっていなかった

なぁ」

「はるかさんは、どんな話をしてたんですか?」

「私はね、この店でお金を貯めてネイルサロンを開きたいの」

「そんな夢があったんですね」

「私の夢をね、恭平くんは真剣に聞いてくれたわ」

「兄はどれぐらいお店に通っていたんですか?」

「週に1回。ある時、彼に聞いたの。お金は大丈夫なのって。だって、大学

生の身分で週に1度も、それも指名料まで払っているんだから」

「なんて言っていました?」

「お金は大丈夫だって、そう言っていたわ」

大丈夫な訳がない。はるかに会うために兄は大学に行かずに働いていたの

だ。

「この仕事はね、お客さんと疑似恋愛をしないといけないの。でもね、それ

を勘違いして深みにはまるお客さんって結構いるのよ。私は恭平くんにそう

なってほしくはなかった」

肉はあらかた食べてしまった。はるかのすごい食欲を見せつけられて私の食

欲も戻って来たみたいだった。

「兄が最後に来たのはのはいつですか?」

「えーとね、えっと」

はるかはそこで初めて口ごもった。

何か隠しているように私には見えた。

「ああそうだ、あれはクリスマスだ」

「そのときを最後に彼は来るのをやめてしまったの。彼女ができたんじゃな

いかなって思った。彼女だったらおしゃべりするだけでは、お金かからない

しね」

私に笑みを向けてはるかはそう言った。

「私と恭平くんとの関係はこれだけ。営業の範疇をでないわ。ごめんなさ

い。あなたにもっと明るい話ができなくて」

私たちはそれから他愛のない話をしながら残りの肉を平らげた。

「さ、私は店に戻らなきゃ。休憩もらっただけだから」

会計は全てはるかが出してくれた。

「ここは危ないからもうこないほうがいいよ」

大阪駅まで送ってくれた。

去り際この女に兄は貢がされたのだと思うとなんとなく私は痛めつけてやり

たくなった。

焼肉をおごってもらって駅まで送ってもらったのにひどい仕打ちだと我なが

ら思う。


一番、相手にショックを与えられるタイミングを見計らって言った。

「兄は死にました。自殺でした」

そう言って私は改札を通った。

もう2度と会うこともないはるかの姿を後ろで感じながら。

電車に揺られながら手帳に兄の足取りを書いて整理しておいた。

陸上をやめる。

精神科に通う。

大学に行かずにバイトする。

怪しい宗教にはまる。

はるかに、お金を払って会う。

頭が痛くなりそうだった。

私の好きな兄の姿はそこにはない。

とことんまで自分を痛めつけている兄の姿が頭に浮かんだ。

地獄にいるのに兄は、私とは何気ないやりとりをしている。

そのどれを見返しても苦しみの匂いはしない。

どうして兄は誰にも助けを求めなかったのか。

そんなことを考えながら、兄の家に帰っていると見覚えのある光景が飛び込

んで来た。

兄の携帯の中に入っていた写真の光景だ。

現実逃避、という文字が煌々と光っている。

ここは、お店なのだろうか?

昼間に通った時にはこんなお店の存在には気づかなかった。

兄の家から100mと離れていない。 私は意を決して扉をあけてみることにした。 カラン、カラン、カラン

「いらっしゃい」

軽く白毛の混じった初老の男性が向かい入れてくれた。

「長い間、この仕事をしていますがこんなに若いお客様は初めてです」

「あの、私、吉岡恭平の妹です」

「ほお、恭平くんの」

私は勧められて席に着いた。

「ソフトドリンクは、ジンジャエールしかありませんが」

「お願いします」

私はかなり緊張していた。


「かしこまりました」

目の前には琥珀色のお酒のボトルが大量に並んでいた。

B-rというやつだろうか?ドラマで見たことがある。 「お待たせしました」 コースターが出されてジンジャエールが運ばれてきた。 緊張していたので一息で半分以上飲んだ。 初老の男性はワイングラスを白い布で拭っていた。 店内はジャズがかかっている。 話を切り出すタイミングがなかなか見つからない。

「なにか、辛いことがあるのですか?......ここはそんなお客様がよく足を運ん でくださいます」

「......兄のことで、聞きたいことがあります」 「私にわかることでしたら」

「兄はいつからここにきたのですか?」 「9月だったと思います、まだ蒸し暑いころでしたから。このお店の名前に 惹かれてやってきたと言っていました」 現実逃避、という名前のどこに惹かれたのだろう。 「彼はお酒は、あまり強い方ではありませんでしたが、その後何度もこの店 に来てくれました」 その席は彼がいつも座っていた場所ですよ、と言った。 「彼は、ここでお酒を飲みに来るというより、話をするために来ていたよう でした」

「兄はあなたと、話にきていたのですか?」

「それもあるでしょうが、他のお客様にもよく話かけていました。ただ......距 離の掴み方があまり得意ではないようでした」

「距離?」 「いきなり、相手にプライベートな話を持ちかけたりして少々煙たがられて いたようです」

「兄は寂しかったんでしょうか」

「というより怯えていたような気がします」

「怯え?」

「自分が壊れてしまうような感覚がすると言っていました」

私はたまらず言った。

この人には伝えるべきだと思った。

「兄は死んだんです。自殺でした」

「御愁傷様です。ここのお客様で何人か自殺された方を知っています。どう

してだか、ここにはそういう方が集まるみたいです。やはり名前を変えるべ


きかもしれません」

「兄は孤独だったんです。宗教にのめり込んで友達をなくして、女の人に貢

いでいたんです」

「彼はここにくる常連の一人と仲良くなっていましたよ」

「その人はどんな人ですか?兄のことを知っている人を探しているんで

す!」

「今日も来るかもしれません、最近は毎日のように来ているんです」

兄はこのカウンターに座り必死で何かから逃げていたのだろう。

「兄は何から逃げていたのでしょうか」

意外な答えが返って来た。

「現実......だと思います」

「現実?」

「現実を怖いと思ったことはありませんか」

よくわからない、と言った。 「私たち大人は、みんな、現実が怖いんです。年をとるごとに取り返しのつ かないことが多くなるからです。だから、私たちは酒を飲みます。現実から

逃れるために......」

しばらく私は物思いに耽っていた。 私も、兄を失ったという現実を直視することができない。 お酒も飲めない私はどうやって現実から逃げればいいのだろう。 カラン、と扉が開いた。

「いらっしゃい」 振り返ると、さらに一回り年老いた男がいた。

「マスター。この子は?......どうみても、中学生にしか見えないが」 「恭平君の妹さんです」

老人の顔色が変わった。

「恭平の!?恭平はどこにいるんだ?お願いだ彼に謝らせてくれ......」 いきなり、顔を近くに持って来て私にそう言った。

謝りたい?

この男は兄に何をしたというのだ?

マスターが静かに言った。

「恭平君は亡くなったそうです」

死刑を言い渡された被告人はこんな顔をするのだろう。

希望を失って生気のない顔になった。

「......そうだったのか」 「シゲさん、ここのところ毎日いらしていましたよね。恭平君に会うためで はなかったのですか」


「そうさ、ここなら恭平に会えると思ったからね」

私たちはしばらく、兄の思い出を話しあった。

しかし、シゲと呼ばれる男はほとんど何も話さず、ただ頷いているだけだっ

た。

この男が何か兄のことを知っていることは先ほどの反応から明白だ。

そして、何か兄に悪いことをしたということも。

帰りがけ、メモを渡された。

「あんた、明日ここに来てくれ」

メモには汚い字で住所と地図が書いてあった。

もう少しで日付が変わる。

「お話をありがとうございました」

「いえ、何もできることがなくて申し訳ないです」

「マスターこの子の分は私に払わしとくれ」

マスターは黙って頷いた。

家に帰ってから、私は迷わず兄の部屋にあったウイスキーを飲んだ。

ツン、とした刺激臭。喉が焼けるようだ。

私は勢いよく咽せた。

それでも私は飲み続けた。

現実を忘れたい。

こんな現実から逃れたい。

助けて。

飲み続けた。

隣人は今日もセックスしていた。

......夢を見た。

ずっと昔の夢だ。

私はお兄ちゃんといる。

ここはどこなんだろう。

「由紀」

ああ、お兄ちゃんそんなところにいたんだね。 ずっと探していたんだよ。 私たちは、学校から帰っていたのだ。 まだ空は明るい、多分早引けの日だろう。 私はこれから大嫌いなピアノの練習にいかなくてはならない。 「家に帰りたくないなぁ」 私はついお兄ちゃんに甘えたくなってそう言った。 「じゃあ俺と出かけよっか」 お兄ちゃんと私は家を通り過ぎて駅まで行った。


二人ともランドセルのままだ。

「お兄ちゃん、お金あるの?」

「いつも千円だけランドセルに入れているんだ」

私はそのお金でどこまでいけるのかはわからない。

でも、お兄ちゃんとならばどこまでだっていけるような気がした。

「行こう」

お兄ちゃんの大きな手に私の手は包まれる。

平日のこの時間の駅は人もまばらだ。

「お兄ちゃん、どこに行くの」

そう言いながらも、私はどこだっていいと思っている。

お兄ちゃんと一緒ならば、どこでも。

「江ノ島。一回行って見たかったんだよね」

そう言って子供2枚と兄はボタンを押す。

お兄ちゃんの持っていた1枚の千円札は、数枚の硬貨に変わった。

私はなんで、お金が増えたのだろうと疑問に思っている。

なんだかとてもわくわくする。

楽しいことが待っている、そんな気がする。

藤沢駅について江ノ電に乗り換えた。

数枚あったお金は、切符を買うとほとんどなくなってしまった。

緑色の電車の車内には、私たちしかいなかった。

車窓からは海が見える。とても懐かしい光景だ。

お兄ちゃんはなんだか夢見心地に話し始めた。

「なぁ由紀。死んだらどこに行くかわかる?」

「死んだらね、天国にいくの」

「僕は、天国なんてないと思うな。生まれる前に戻るだけだと思うんだ。生

まれる前のことってなんにも覚えてないでしょ?きっとその世界は無なんだ

よ。なんにもないの。由紀、生きてるのって楽しい?僕は楽しくないよ。早

く死にたいなぁ。だって死んだらもう苦しむこともないからね。でも由紀に

会えなくなることだけは、寂しいな」

私はお兄ちゃんがなにを言っているのかはよくわからない。

「私もお兄ちゃんと会えなくなるの寂しい」

「そうだね......あ、ついた」

江ノ島駅。

人はまばらだった。 もう海に入れないからだろうか。 トンビが、空を気持ちよさそうに舞っている。 私はまたお兄ちゃんと手を繋いで歩いた。 「水族館行きたい」


目の前に水族館があったのだ。

私はそこに行って見たかった。

しかし、そこで現実にぶつかった。

大人千五百円 子供五百円

「どうしよう」

「どうしたの?おにいちゃん」

「おかねないよ」

私は泣きそうになる。

私を見てお兄ちゃんは決心したように言った。

お金がないのにどうするんだろう。

私は不安いっぱいになりながらお兄ちゃんの手を握る。

「すいません、妹がトイレに人形をわすれてしまって」

「どうぞ」

つまらなそうに腰掛けていたおねえさんはそう言って私たちを通してくれ

た。

「ふふふ」

お兄ちゃんのこういう時の悪知恵は誰にも負けない。

私は込み上げてくる笑いがとまらなかった。

水族館、というものに私は来たことがなかった。

水槽に入っている魚たちに私は釘付けになった。

「おさかなさん、いっぱいだね」

「イルカショーだって。見てみよう」

平日のイルカショーはどこか気だるげだ。

スタッフやイルカも手抜いているように見える。

イルカショーを見終えた私たちはなんだか飽きてしまった。

私たちは水族館を出た。

夕日に照らされた海に私は、ズボンを上げて入って行った。

お兄ちゃんも一緒だ。

手を引かれ波と戯れる。

海から上がったわたしたちは砂浜を裸足でじゃれていた。

日はすでに落ちてしまったのに空はまだ明るい。

息を飲むような美しい光景だ。

「綺麗だね、夜になる前のほんの数分だけこんなに綺麗なんだ。僕はこの時

間が大好きなんだよ」

「わたしもすき」


「由紀、追いかけっこしよう」

お兄ちゃんが10秒、数えるためにしゃがんだ。

いーーーち、にーーーーい

私は思いっきり駆けて行く。

ごーーーおろーーーく

濡れた足に砂がまとわりついて走りにくい。

きゅーーーーーじゅう!

私はつかまらないように奇声をあげながら勢いよく駆ける。

でも本当はお兄ちゃんに捕まえて欲しいと思っている。

「タッチ!今度は由紀のばん」

お兄ちゃんは走りだす。

そしてどんどん小さくなっていく。

私は必死で追いつこうとするけれど全く距離は縮まらないどころかお兄ちゃ

んはどんどん小さくなっていく。

どんどん、どんどん、どんどん......。 目が覚めた。

私は今どこにいるのかわからなかった。

兄の家だ......。

わたしは目元に涙がにじんでいるがわかった。 あれは私が小学校1年生の時のことだ。 腕時計が6:07を指していた。 私は兄が死んでしまったという現実に戻ってくるまでに時間がかかった。 とても頭が痛かった。

飲み慣れないアルコールのせいだろう。 私は今日誰かと約束していたはずだ。

昨日、あのバーで......。

あれも夢だったのだろうか。 どこからどこまでが夢だったのかも思い出せない。 いっそ、兄が自殺したというのも悪い夢であって欲しかった。 でも机の上にはメモがあった。


昨日あのバーで老人に渡されたメモだ。

私は吐き気を抑えるために水を飲んだ。

老人の家に行くには早すぎる。

もう一度、夢の続きを見るために目を閉じたが、兄はもう二度と現れはしな

かった。

老人の書いた地図を頼りにアパートを訪ねた。

汚らしいアパートだ。

しかし中はもっとひどかった。

いたるところにゴミが散乱していて足の踏み場がない。

缶ビール、カップ麺、缶ビール......。 「すまなかった、お嬢ちゃんをこんなところに呼び立てて」 「おはようございます」 饐えた匂いがする部屋に通された。 兄の部屋よりもさらに一回り小さい。 老人がお茶をお盆に乗せてこたつに運んでくる。 ことりと置いて、白髪のあたまをかいた。 明かりの下で見ると、昨日見たよりも数倍老けて見えた。 「改めて、はじめまして。私は、細川茂晴といいます」 「吉岡由紀です」

「お兄さんのこと、本当に残念です」

「兄がかなり親しくさせていただいたようですが」

老人は、ヒータのスイッチをつける。私は上着を脱いだ。

「あのバー、で出会ったのです」

「私は、離婚してかなり長くなります。ここ20年は私を訪ねて来る人はい

ません。それでさびしくなってあそこにはよく行くんですわ」

老人の顔全体から寂しそうな雰囲気が漂っている。

「お兄さん、私は恭平と呼んでいたのでそう呼ばせてもらいますが......。恭平 も寂しさを抱えた人間でした」

老人は咳をした。

「大丈夫ですか?」

「いや、すみません......」

老人の咳が止まるのを待つ。 「寂しさを抱えた人間というのは、他の寂しさを抱えた人間を見つけること ができるんですわ」 「それでも若さは、私のようなものにとっては眩しいものです。最初はあま

り話さんようにしておりました......。しかし、何度か会ううちに仲よくなりま


した。次第に私の家に来るようにもなったのです」

兄がこの部屋にきていた?

「ちょうどあんたがいま座っているところで、温まっていました。私にはな

んだか、安らぎをもとめているように思えました」

「兄とはどんな話をしたんですか?」

「恭平は、私から人生について学ぼうとしていました。私は最初なぜ、私の

ようなものにそんなことを聞くのかわかりませんでした」

「例えばどんなことですか」

「どうやったら後悔のない人生を送れるかとか、若いうちにやっておくべき

ことなんかです」

再び、老人は咳をした。今度はもっと長かった。掠れた声で老人は言った。

「きっと、私のようにならないために聞いていたのでしょうな」

「あなたのように、ならないために......」 「私は最低の人間です。誰にも相手にされず死ぬのを待っている人間です。 きっと恭平はこんな人間にはならないように私に近づいたのでしょう」 違う、兄はそんな人間じゃない。 老人の誤解を解いたところで何にもならないけれど、我慢できなかった。 「きっと、兄はあなたのことをそんな風には思ってなかったと思います」 老人はぼんやりと私を見た。 「兄は、とても苦しんでいました。女の子にフラれて薬にからだを蝕まれ、 友人もいなかったんです。きっとあなただけが本当の友達だったのではない ですか?」 老人は唇をプルプルと震わせた。そして、頭を床に擦りつけた。 「本当にすまないことをした」

「なにがあったんですか?」

「彼が私の家に来るようになってからしばらくして物がなくなるようになっ

た。私は、バカにされていると思ってたし彼がお金に困っていることも知っ

ていたから恭平を問い詰めたんです」

「兄は......どうしましたか?」 「悲しそうな顔をしてそれから来なくなりました」 「本当に兄が盗っていたのですか?」 「ところが恭平が来なくなってからもそれは続いたのです。そして病院にい ったところ、私は認知症と診断された。すべて、私のせいだったんです」 何も言えなかった。 「わしは生きてるだけで、人に迷惑をかける死を待つゴミです。私が死ぬべ きだったんだ」

「それって何月のことですか?」

「1月です」


私はため息をついた。

「京都の冬ほど嫌な季節もないでしょうな。特に2月は生きているのが嫌に

なります」

早く春が来るといいですな、とポツリと言った。

私は家に帰ることにした。

兄はあの老人のことを本当に友人だと思っていたに違いない。

あの老人の言葉で兄はどんなに傷ついただろう。

はるかの店に来なくなったのは12月。

私は暗い気持ちになりながら兄の家に帰ってきた。

どこにも希望なんてなかった。

死にたいと思った。お兄ちゃんのところにいきたいと思った。

その時、私は声をかけられた。

懐かしい、とても懐かしい声だった。

兄の声だと思った。

しかし、そんなわけがなかった。

私のお兄ちゃんはあの寂しい公園で死んでしまったのだから。

涼介が立っていた。

「涼ちゃん......。どうしてここに?」 「昨日、恭平の家に線香をあげにいったら由紀が京都に来ているって親父さ んから聞いたから、いてもたってもいられずに来たんだよ」

「そう......だったの」 私は久しぶりに知り合いに会えた嬉しさから涙腺が緩んだ。 「由紀、お腹空いてないか?」

「......空いてる」

「食べに行こう。話はそれからだ」 私たちは、近くにあったファミレスに入った。 「京都に来るのは二度目なんだ。一度目は恭平の家に遊びに行ったんだよ」 「それいつの話?」

「夏休みだよ」

料理が運ばれて来る。

私たちは、しばらく無言で食べ続けた。

「大変だったよな。由紀」

中学時代に陸上部で兄が主将、涼介が副主将を務めた。

二人の仲は抜群だった。

涼介は、よく我が家にやって来てまだ小学生だった私を含めた3人で遊ん

だ。


私はよく兄と涼介にからかわれていたけれど、3人で過ごす時間がたまらな

く好きだった。

「涼ちゃんこそ、葬式以来だね」

兄の葬式で涼介は泣いていた。

私はどうしても他の誰の涙も偽物にしか見えなかったけれど、涼介の涙は本

物だと思った。

「由紀、どうして恭平の家に来たんだ?」

「私、お兄ちゃんがなんで死んじゃったのか知りたかったの。警察の人は、

将来の不安で片付けちゃったけどそんなの信じられなかった。だってあのお

兄ちゃんだよ?」

涼介は、伝票を手で弄びながら言いにくそうに言った。

「夏休みに会った時には、涼介はもう人が変わっていたよ」

「どういうこと?」

「ものすごく暗かった。きっとなにか悩みを抱えていたんだろうな」

「そうだったの......」 「俺はあいつが変わってしまったことを知りながらなにもできなかったん だ。本当は、俺が死ぬべきなんだよ、あいつより。俺は大学に入ってから陸 上なんて2度とやるものかって思ってた。ただつらいだけだもんなあんな の。それで陸上から逃げたんだ。でも恭平は違った。あいつはもがいていた んだ」

「でも、お兄ちゃんも大学に入ってすぐやめちゃったの」 「俺とあいつは全然違うんだ。俺はね、由紀、真剣に生きることそれ自体を やめちゃったのさ。リタイアしちゃったんだよ」 リタイアという言葉が私の心にズシンとのしかかった。 兄も、走ることをやめてしまったのだ。

私たちはファミレスを出た。 「お兄ちゃんはね、よくわかんない宗教にのめり込んでいたみたいなの」 「知ってるよ」

「え?」

「俺も、あいつの家に泊まったとき、勧誘された」 「涼ちゃん、お兄ちゃんのこと嫌いにならなかった?」 「嫌いに?なるわけないだろ。俺は後悔してるんだ。俺たちが話す話といえ ば好きな女のこと、漫画とかゲームの話だった。人生の話なんて何一つしな かったんだ。もし、もっとあいつの心の奥底を覗けていれば結果は違ったの かもしれない」

涼介は泣いていた。

「涼ちゃん、自分を責めないで」


「それにもうひとつな、俺は自分が憎いんだ。あいつの家に行った時、初め

てできた彼女の話を延々としていた。それだってあいつのことを追い詰めて

いたのかも。あのときあいつは俺のこと応援してくれたけど......俺が殺したよ うなもんだな」

涼ちゃんは小石を蹴った。 自殺した人間は周りの人に後悔と葛藤を残して死んでいくのだ。 「涼ちゃん、その宗教の名前覚えている?」

「覚えているよ」

「私、これからそこに行ってみる」

「わかった。俺もいくぜ」

涼介は涙を拭ってそう言った。

私たちはネットで調べて兄が通っていたと思われる宗教の京都支部に来た。

絢爛豪華なその建物は、異様なオーラを発していて京都の街とはどう見ても

調和していなかった。

受付のロボットのような女の人に私は声をかけた。

「すいません」

「はい、どうされました?」

不自然な笑みだ。

「ここに吉岡恭平が通っていたと思うのですが」

「吉岡......少々お待ちください」

コンピュータを操作する。 「そのような方は、登録されていないようですが」 「そんなはずないんです、ちゃんと調べてください」 涼介が言う。 「そういわれましても。こちらには登録されていないんです」 その時だった。 受付の横にあるソファに腰掛けていたおばさんが話かかけてきた。 「吉岡くんなら、山根さんが詳しいよ」

「山根さん?」

「ちょうど来ているから聞いてごらん。ちょっとまってな」

しばらくして彼女は同じく中年女性をつれてきた。

「ほら、この子たちだよ」

「吉岡の事が知りたいんだって?あんたたち」

「はい、私、恭平の妹です」

「ちょいと外に出ようか」

中じゃ吸えないからねと言って山根、と呼ばれたこの女性はタバコを取り出

した。


「兄とはどんなご関係ですか?」

「ご関係ってほどのもんじゃあないよ」

タバコに火をつけて山根は話し出した。

「私があの子に声をかけたのは、河原町だった。見るからに、暗くて悩んで

いる様子だったからね。しばらく話をしてすぐに入会を決めたのさ」

「それ、いつごろのことですか?」

「覚えてないよ」

山根は吐き捨てるように言った。

どことなく兄に対する悪意を感じるのはどうしてだろう。

「ちなみにこの会はどんなことをするんですか?」

「主に、週に一度のボランティア活動さ。街中での募金活動、勧誘、掃除な

どなど」

「恭平は毎週来ていたんですか?」

「あんたはだれだい。毎回来ていたよ」

涼介はそれには答えずにさらに食ってかかった。

「さっき、恭平は何かに悩んでいたって言っていましたよね。何に悩んでい

たのかわかりませんか」

「人間とうまく付き合えないってたわね。だからあたしは、もっとちゃんと

お布施するように言ってやった」

「お布施?」

「そうだよ。島田さんなんかは、それで癌が治ったんだから。......それなりの 額をお布施したみたいだけれどね」

「兄もお金を払っていたんですか」 「いや、そんなお金はもっていないって言ってた。それなら、大学の友達を 勧誘するように言ったのさ」 「それで、兄は活動に熱心に顔を出していたわけですね」 「ところが夏を過ぎたあたりからパタリと来なくなってしまった」 「なんでですか?」 「そんなもん知るかい。神を信じられなくなった。俺は人間を信じたいとか なんとか言ってたね」

「兄は......兄は死んだんです」 しかしその言葉も山根の心には何も生み出さなかったようだった。 タバコを道路に捨てながらただ一言こう言っただけだった。 「それ、ご覧。あいつは信仰が足りなかったのさ」 私は悔しくて、涙が出そうになる。 「ふざけるな。お前にそんなこと言われる筋合いはない!」 涼介が怒鳴る。

「なによ、大きい声出さないでよ」


「行こう。由紀」

帰り道、私たちは無言だった。

兄は神に縋ろうとしたが、そこからは何も見いだせなかったみたいだ。

そして、人を信じたいと言っていた。

その結果は......。 「私、今日中に横浜に帰ろうかな。もう京都にいる意味ないと思うの」 夕暮れの中でそう言った。 嫌な街だと思った、一刻も早く帰りたかった。 でも涼介はそれを拒んだ。 「俺、京都来たばっかりだし観光したいんだよね。由紀付き合ってくれな い?」

涼介は能天気なことを言う。

「もう、わかったよ」

「俺は京都駅のホテルに泊まるよ」 「なんで?お兄ちゃんの部屋に来ればいいじゃん」 涼介は軽く笑いながら、私の頭に手を置いた。

「由紀、また明日な」

一人で兄の部屋にいるとチャイムが鳴った。

涼介だと思った。

他にこの家を訪ねてくる人などいないはずだ。

「ごめんなさいね、こんな夜更けに」

はるかだった。

「ご迷惑かとも思ったけれど、あなたの連絡先を知らなかったから」

「いえ。どうしてここがわかったのかな、とは思いましたけど」

はるかは、コートを脱いだ。

体のラインが出る紫色のシックな服を着ていた。

「一度だけ来たことがあるのよ」

「そうだったんですか?」

混乱する。

兄とはるかはお店だけの関係。

言ってしまえばお金だけの繋がりではないのだろうか。

兄の部屋には椅子がなかった。

私たちはベットに横並びに腰掛けた。

はるかは、コンビニの袋から缶ビールとお茶を取り出す。

「私たち、本当は、お店の外でもあっていたの」

はるかは、1杯飲んだところで話始めた。

「彼、大学である女の子に失恋したんですってね」


私は頷いた。

「それが自殺の原因だと思っている?」

「正直、よくわからないんです」

いろんなことが、兄に起きたのだ。

「きっと、私の話すことであなたは私を恨むと思うの。でもそれでいいの。

そのために来たんだから」

「なにがあったんですか?兄とあなたとの間に」

「順を追って説明したほうがいいわね」

缶ビールを飲み干して2缶目に手を伸ばしながら言った。

「私はあそこでは23ってことになってるけれど本当は28。女性の28っ

てもうあまり可能性に満ち溢れているとは言えないわよね」

「......でもはるかさんには、夢があるじゃないですか」 「その夢も半ば、無理だと思ってる。あそこで知らない男に体を触られたり キスしてイソジンでうがいしたりしているとね、自分がどんどんすり減って 行く気分になるの。30超えてる先輩もいるけど、目も当てられないわ」 ごめんなさい、こんな話をしに来たんじゃないのに、とはるかは言った。 「恭平くんはお店に何度も来てくれたわ。そしてだんだん好きになる自分に 気づいたの。だって彼なんども通いつめて私に指一本触れなかったから。私

のことをまるで壊れやすいガラスみたいに扱ってくれたの。......何回目かに食 事に誘われたわ」

「食事したんですか?」 「ええ。それから私たち週に二度会ったの。一度はお店で。一度はお店の外 で。神戸で雑貨屋さんにいったり、大阪の海遊館にいったり、京都でお参り したりね。わたしはまるで13歳か14歳の穢れを知らない少女に戻った気 分だった。だって本当に私たちそういうデートをしてたから」 そのとき、隣の部屋からまた例の声が聞こえた。

今夜も始まったのだ。

はるかは、少し驚いたように壁の方をみて苦笑した。

「もちろんこの話はハッピーエンドじゃないし、聞きたくないこともあると

思うの」

「いいんです、全て話してください。京都に来て聞きたくないことはたくさ

ん聞きました。もうここまで来たら怖いものなんて何もありません」

「わたしたち本当に恋人みたいだった。クリスマスに京都でデートした時に

彼が言ったの、ちょっと家に寄っていかないって。お世辞にもスマートとは

言い難かった。声も震えてたし。手も汗ばんでいた。私はちょっと考えた

の。もしここで、誘いに乗ってしまったらもう戻れなくなるものね。きっと

うまくいかないことはわかってた。年のこともあるし、仕事のことも。私は

彼のことを傷つけることだけはすまいと思っていたの」


酔いのせいかはるかの顔は赤い。

「でも結局、行くことにしたの。うんちょうど今の私たちみたいに座ってた

な。彼は、どうしていいかわからない様子だった。だから私は彼の肩に頭を

乗せたの。それから......まぁそういうことになったの」 隣人たちの声を聞きながら、私は兄とはるかがそんなことをしている光景は 想像もつかないと思った。 「それが終わってから、彼に結婚してくれって言われたの」 「けっこん?」 「いきなりでびっくりしたわ。結婚を前提にとか、何の前置きもなくいきな り結婚だもん」

「なんて答えたんですか?」

「私はそれはできないっていったの。恭平くんどうしてって悲しそうに聞い

たわ」

私は真剣に彼女の言葉を待った。

「私が何も言わないでいると、彼の方から話し出したの。私の夢を応援する

とか、自分は大学に全然いっていなけれどちゃんと生活を立て直したいと思

っているとかね」

「やっぱり、年齢とお仕事のことですか?」

「それは私にとっては本質的なことではなかったの。彼は純粋過ぎたのよ、

私とは住む世界がまるっきり違うのよ」

私には、はるかの言っていることがよくわからなかった。好きな人同士がど

うして一緒になれないのだろう。

「私は何も言わずに帰るね、とだけ伝えたの。恭平くんは、次はいつ会える

って聞いたの」

はるかは、泣いていた。

「私は、お店で待ってるね、って言った。......二度と来なかったわ」 私は、はるかが、悪いのか、悪くないのかはわからなかった。 でも、はるかが自殺の引き金を引いたわけではないことはわかってほしかっ た。 「昨日はすみませんでした。当てつけみたいに、別れ際にあんなことを言っ てしまって。でもわかってください。兄の自殺の原因ははるかさんだけでは ないんです」

私は京都で見て来たことをはるかに全部伝えた。

途中、涙でうまく話せない箇所もあったけれど、はるかは頷いてくれた。

「恭平くん、苦しんでいたんだね。どうして私、救ってあげられなかったん

だろう」

「それは、考えても仕方のないことです」

私とはるかは、固く握手をして別れた。


翌朝、涼介は朝早くに来た。

「おはよう、行きたいところいろいろ調べてきたんだ」

それは何の変哲もない定番コースだった。

八坂神社、清水寺、河原町.........。 平日なのにどこも賑わっていた。 「おい、お茶が飲めるんだって!抹茶だよ」 涼介は、はしゃいで言う。 朝から涼介は異様に楽しそうだ。 和菓子を最初に食べてその後に抹茶を飲む。 帰り際、そのお茶屋の女将に声をかけられた。 「ご兄妹?いいわねご旅行かしら」 涼介は困った顔をしている。 私は笑顔で返した。

「はい、そうです」

私たちは欄干にもたれて鴨川を見ていた。

まだ昼過ぎで暖かい。

「涼ちゃん、ありがとうね」

「ん?なにが」

「私のために観光しようって言ってくれたんでしょ?私、すごく楽しいよ」

涼介が何かを言おうとした時、携帯が鳴った。

私の携帯でも涼介の携帯でもなかった。

兄の携帯だった。

恐る恐る通話ボタンを押す。

「あああ!!!よかった!生きてた!恭平くん!!!」

耳が痛くなるような大声。

「私ね!恭平くん死んじゃったんじゃないかって、ずっと心配してたんだ

よ!?」

「あの......」 「え?」

「私......」 「恭平くん......?ちがうの?」

「私、恭平の妹です」

「妹さん......」 「訳あって、兄の携帯を私が持っているんです」 耳を疑いたくなるような言葉が返ってきた。


「恭平くん、やっぱり自殺しちゃったんだ......」 なんで兄の自殺を知っているのだろう。この女はだれなんだ? 「あなたはだれなんですか?兄とどういう関係ですか?」

「私は......恭平くんとTwitterで知り合ったの」

「Twitter?」 「私が、毎日死にたいって呟いていたの。そしたら恭平くんがダイレクトメ ールをくれたの」

「兄とは、何回か会っていたんですか?」 「いいえ、一度も会わなかったわ」

会わなかった? 「私は恭平くんに電話番号を教えたの。電話はよくしていたけど、会ったこ とは一度もないわ」 「そうだったんですか。兄とはどんな話をしていたんですか?」 私は京都に来てから、この質問ばかりをしていると思った。 兄が他の誰とどんな言葉を交わしたのか、それが一番知りたかった。 「私が死にたいって言っていうと、恭平くんはいつも話を聞いてくれてた の。止めるでもなく、何か言うでもなくただ話を聞いてくれたの」 「なにがそんなに辛かったんですか?」

「学校ではいじめられていて家にも居場所がないし......だから恭平くんが私に こう言ってくれた時は嬉しかった」

「兄はなんて言ったんですか?」

「いっしょに死のうって」

「兄がそう言ったんですか?」

しばらく間があった。

「そうだよ、恭平くんは具体的な日付まで決めてたの、2月9日だって」

兄の誕生日だ。そして、兄の命日。

「練炭で自殺する予定だったの。恭平くんが車で私を迎えにきてくる予定だ

った」

それなのに、兄は本当に死んでこの電話の女はのうのうと生きている。

「でも、直前になって私の歳がわかると恭平くんは一緒には死ねないって言

ったの。どうして14歳だとダメなのか私にはわからなかった」

14歳。

「恭平くんは自分一人で死ぬって決めちゃって、何度お願いしても聞き入れ

てくれなかった。2月9日に私、何度も恭平くんに電話しようとしたの。で

もできなかった。怖くて怖くて......」 「今でも死にたいんですか?」

「私がいなくなっても、私のことを悲しむ人なんていなから......」


「それは違います。私は今、兄を亡くして心が空っぽなんです。きっとこの

気持ちは私が死ぬまで埋められることはないでしょう。そんな思いを他の誰

にもさせないでください。お願いします。前を向いて生きてください。お願

いします」

私は電話を一方的に切った。辛くてどうしようもなかった。

隣で涼介が心配そうな顔をしてみていた。

「どうした、今のは誰なんだ?」

「なんでもない」

なんでもない、なんでもないんだ。

私は、鴨川に向かって勢いよく兄の携帯を投げた。

隣で写真を撮っていた外国人が、何か言った。

「涼ちゃん、帰ろう」

日没までもう少しのところで私たちの最寄りの駅に着いた。

「じゃあここで」

涼介は、そう言って歩き出した。

「待って!」

私は彼を引き止める。

「ん、どした?」

「もう1つ行きたいところがあるの、行かなければならないところがある

の」

道中、私は我慢できなくなってコンビニに寄ってトイレで吐いた。

「大丈夫か?今日は帰ったほうがいいんじゃないか?」

「大丈夫」

私たちは土筆公園にやってきた。

相変わらず、何もない公園だ。

滑り台だけが、公園の真ん中に位置している。

あの上で、兄は......。

夕日はもう沈みかけている。 二人の幼稚園児が何も知らずに、滑り台で遊んでいる。 私たちは、ベンチでその光景を眺めていた。

「ほれ」 涼介が、いつの間に買ったのか私の好きなかっぱえびせんをくれた。 二人で食べながら、ひたすら奇声をあげる子供達を見る。 あの子達は兄妹だろうか。

兄妹であって欲しいと私は思う。 「どうして、お兄ちゃんはここで死んだんだろう」 私は京都に行く前からずっと考えていたことを口にする。


問いかけても答えは返ってこない。

涼介も何も言わずに考え込んでいる。

子供達は母に連れられて家に帰ってしまった。やっぱり兄妹だったんだ。

子供達のいなくなった滑り台に、兄がぶらさがっていた。

私のことをじっと見ている。

私は悲鳴をあげた。

涼介が手を握ってくれた。

大丈夫、幻だ。

私はその忌まわしき遊具に近づいてみる。

「きっと怖かったろうなぁ、恭平」

「なんでお兄ちゃんはここで死んじゃったんだろう。あと10分もしたらお

家に帰れるのに」

再び同じ質問をする。誰かに答えを期待しているわけではないのだ。

涼介がためらいがちに口を開いた。

「恭平はただいまって帰ってこようとしたんだと思う」

思いがけない答えに混乱する。

「え?どうして?どうしてそんなことが言えるの」

「だって首を吊るためのロープって買ってなかったんだろ?」

「うん、ベルトで首をつったんだって」

「死ぬ予定の人がロープを買わないなんておかしいじゃない」

確かに、確かにそうだ。

「じゃあ、なんで?なんでお兄ちゃんはただいまって言えなかったの」

「わからない、わからないけどきっとこれじゃないのかな」

涼介が指をさす方向は信じられないくらい綺麗な光景が広がっていた。

日没後ほんの数分だけ、この世界は夢みたいに美しくなるのだ。夜になる前

のほんの数分。

「自分が20歳になるちょうどその時に、これを見てすべてどうでもよくな

ったんだと思う。もちろん全然違うかもしれないけれどね。俺たちは想像す

るしかないよね、残された人たちはさ」

「お兄ちゃんのこと、本当に誰かが救ってあげられなかったのかな......」 「わからない、他人に干渉するとお節介っていわれちゃうからな。自分を責 めることないよ、由紀は何も悪くないんだからさ」

私は、首を振った。 「お兄ちゃんが死んじゃったことは誰の責任でもないけど、私だけにはある よ。私があまりに子供すぎたのが悪いんだ」

本格的に夜になった。


家に帰ると父に迎えられた。

「おかえり」

「ただいま、お父さん」

「どうだった京都は?」

「うん、いろんなことがわかったよ。お兄ちゃんが苦しんでいたこともね」

私は、父に見てきたこと聞いたことを話した。

でも言わなかったことの方が多い。

兄が言って欲しくないと思ったからだ。

私の胸の中にだけに固くしまっておくことにした。

かいつまんだ説明だけでも十分、父にはショックだったようだ。

「そうか、お兄ちゃん苦しんでいたんだな」

涙声で肩を震わせて言う。

「父さんもな、お母さんを病院に連れて行ったんだ」

母が寝ている部屋に目をやる。

「強いショックで、現実を直視できなくなっているそうだ」

現実......。あのバーのことが頭に浮かんでくる。 「父さんしばらく休暇を取ることにした。お母さんのそばにいてやりたいか らな」

「そっか」 当然のことながら、私の希望していた高校には入ることはできなかった。 公立高校の入試も終わっていた。 私は私立高校を何校か受けて合格した学校にいくことになった。 もちろん、以前であれば考えもしなかった高校だったけれど致し方ない。 陸上はそんなに盛んではないようだったが、気にはならなかった。 走るのに他人は必要ないからだ。

春がやって来た。

高校でも私は、陸上部に入った。

顧問にいつも注意されることがある。

「吉岡。お前はセンスがあるがマイペースすぎる。もっと競争心を持たない

と上に行けないぞ。他のランナーとの駆け引きも長距離を走る上では重要だ

からな」

そんなのどうでもいい。

私はただ走りたいから走っているだけだ。

走りたいように、自分のペースで走るだけだ。

私はリタイアすることはない。



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リタイア @takuya0213

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