羅■■ ~■界深■■■/■■~
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
妙に生温い風が、頬を舐めるのを感じた。
自分でも良く分からないまま、一気に意識が覚醒し、跳ね起きる。周囲の状況や自身の状態を把握するよりも先に、大太刀の柄に手を掛けて臨戦態勢に。視線を巡らせると同時に周囲に気を張り直した所で、
「……む」
ホムラは漸く、其処が見覚えのある場所である事に気が付いた。
「此処は」
視界を揺蕩う乳白色の霧。その中に黒く滲むように浮かび上がる、崩れた建物の残骸や、幾千幾万の刀塚。何処と無く空気が重く感じられるのは、この場の雰囲気故か、それとも此処で味わった恐怖をホムラの身体が覚えているからか。
「……」
間違いない。此処は以前も来た事がある。迷宮の主、人面獅子の石像と戦った直後の事だ。あの時、ホムラはこの場所を彼岸の入口だと勘違いしたが、実際はどうなのだろう。結局ホムラは死んでなかったし、さりとて死にそうになる度にこの夢を見ると言うのもおかしな話ではあるし。もしかしたら前回は偶々リオルに上手く呼び戻されただけで、此処は本当に彼岸の入口かもしれない。前回は人面獅子に呑まれて蒸し焼きにされた訳だが、さて、今回はなんだったか。
「……あー……」
そう、そうだ。魔物化したクラウスの猛攻に呑まれて、身体が滅茶苦茶になってしまったんだったか。マリオンやアネモネ達にあれだけ格好つけた啖呵を切ったにも関わらず、蓋を開けてみればこのザマだ。ホムラは自身を剣豪や英雄の類だと思った事は全く無いが、流石にコレは、些か情けないにも程がある。
思い出すと何だか恥ずかしくなってきて、思わず呻いてしまったホムラだった。が、呑気に悶えている暇は無いらしい。こうしている間にも、この場の空気はホムラに重く圧し掛かって来ている。より正確に言うのなら、奴が放つ殺気が、と言い換えるべきだろう。
「……」
背中の鞘から大太刀を引き抜いたのは、殆ど無意識の行動だった。或いは、”耐えきれなくなったから”と言い換えても良いかも知れない。
居る。姿こそ見えないが、濃い霧の向こうに確かに居る。
此方が気付いた事に、向こうもまた気が付いたのだろう。やがてそいつは深い水底から浮かび上がるように、霧の中から黒い影として滲み出て来た。
「……ッッ!!」
ホムラが携えている物と似たような、斬馬刀とも言うべき、身の丈程もある大太刀。ホムラが着ているものを憎悪の色に染め上げたかのような、丈の長い、ボロボロな漆黒の着物。そして何より、一度見たら忘れる事が出来ない蠢く生きた墨に滅茶苦茶に塗り潰された顔。
只の一撃でホムラを”殺した”、この悪夢の主。既に大太刀を抜き放ち、溢れる殺気を隠そうともしないで、そいつはホムラの目の前に立っていた。
「――――ッ、――――」
よう、閻魔様。
己を保つ為の精一杯の軽口は、そもそもマトモな言葉にすらならなかった。只でさえ馬鹿デカかった彼の存在感と殺気は、姿を現わした途端に更に大きく膨れ上がっている。ガクガクと震える両膝は言う事を聞かず、縋るように大太刀を強く握り締める指先には感覚が無い。心臓は恐怖から必死に逃れようとするかのように暴れ狂い、呼吸は現在進行形で首を絞められているのように細く、浅く、何より早い。
「か」
最早自身の意思で制御出来ない呼吸が、勝手に口から漏れて間抜けな音を立てる。肉体よりも先に精神が重圧に潰されて、臨戦態勢を保つどころかマトモに立つ事すら難しい。膝を突かなかっただけでも、未来永劫褒め称えて欲しいくらいだ。
「ヒ――」
勝てない、なんて段階じゃない。そもそも次元が違い過ぎる。
最早、ただただ大太刀を握り締めて木偶のように突っ立っているホムラの事など眼中に無いかのように、相対する無貌の男は一歩、また一歩と歩を進めてくる。
ホムラの目の前まで悠々と歩いて来て、無形の位に携えていた大太刀をふと思い出したかのように、高々と無造作に振りかぶり、そして――
「――――――――――――――――――――――――――ッッ!!??」
世界が、ぶった斬られるのを見た。
真っ二つに断ち割られた大気の壁が、異様な悲鳴と共に破裂し、
冗談みたいな光景だ。幾ら規格外のサイズを誇るとは言え、只の大太刀で出来る芸当ではない。
でも、だからこそ一周回って危険を思い出す事が出来たのかもしれない。正直な話、ホムラは直前まで、相手の行動を理解出来なかったのだ。蟻が人間の行動の意味を理解出来ず、関心も抱かないのと同じである。
あのまま天変地異にも等しい断撃に巻き込まれていれば、何かを感じる間も無く死ねたかもしれない。或いは以前と同じようにこの悪夢から目を覚まし、あの"無貌"の男から逃れる事が出来たかも知れない。
だが、それももう無理な話だ。ホムラは直前で、あの断撃を回避してしまった。一度動き始めれば、もう待ったは利かない。恐怖に萎えた手足に、生存本能が息を吹き込む。諦念に縛られた闘志に、激しく跳ねる鼓動の音が熱を送る。先の断撃を横っ飛びで回避した状態から素早く体勢を立て直し、ホムラは"無貌"の男に向けて、血路を拓く覚悟を以て襲い掛かった。
「――ぁぁぁあああああああああああッッ!!!」
突進の勢いを乗せた上段からの一撃。受け止められる事を見越し、隙をカバーする為の前蹴りから、思い切って敵の前で独楽のように回転し、相手の視界の外からの回転横薙ぎ。気が付けば後退して攻撃範囲から逃れ出ていた相手を追って、即座に疾走。突進の勢いと全体重を
『……――』
言うまでもなく、ホムラは真剣だった。何しろ、死の牙が喉笛に半分喰い込んでいるような状況だ。真剣にやらない訳が無い。
なのに、嗚呼、どうしてだろう。戦っているという気がちっともしない。掛かり稽古の時、此方が殺す気で打ち掛かっているのにも関わらず、
『――……
ふと、あの音が聞こえた。もう何度目になるか分からない全力の一撃を、あっさりと範囲外に逃げられ、それを追い掛けて距離を詰め始めた矢先の事だった。
視界の先で、敵の大太刀の鋒がゆらりと揺らめき、ゆっくりと引かれるのが見えた。
「――――!!!」
相手にまるで届かない、自分勝手なホムラの踊りは、其処で止まった。恐怖に手綱を引かれるように、ホムラは自らの身体を強引に捻り、その場から全力で離脱する。
びょう、と甲高く歪な風な音が世界を貫いたのは、直後の事だった。頭から地面に突っ込むような形となり、受け身を取りながら咄嗟に目で追うと、今の今までホムラが居た場所を突き抜けていった刺突が、衝撃を以て大気の壁をブチ抜き、遥か遠くの何らかの建造物の影を打ち砕くのが見えた。
「……!」
尋常な業じゃ、ない。
既に散々見せ付けられては居るものの、こうもあっさり常識を越えられると、剣士の端くれとしては目を奪われずには居られない。
けれどホムラには、ガラガラと音を立てて崩壊する建物の残骸を見て、生唾など呑み込んでいる暇など無かったのだ。
ハッと我に返って視線を相手に戻すのと、ホムラが視線を切っている間に近付いて来ていた相手が、ホムラの眼前で悠々と大太刀を振りかぶるのはほぼ同時。最早只の回避では間に合わないと即座に判断し、ホムラは一か八かの心境で自らの大太刀を頭上に掲げる。相手の攻撃を受け流しつつ、立ち上がって相手から距離を取る腹積もりだったのだ。
だが直後、ホムラは浮き上がり掛けていた重心を強制的に叩き落とされ、膝を強打する羽目になった。"無貌"の大太刀は、確かにホムラの大太刀によって受け流されたのに。それにも関わらずその衝撃はホムラの身体を突き抜けて、立ち上がり掛けて居たホムラに再び膝を突かせたのだ。
「くぅ……ッ!?」
立ち上がり掛けるその度に、敵は投げ遣りに大太刀の一撃を落として来て、ホムラをマトモに立たせてくれない。僅かな間に少しでも敵から離れようとするホムラだったが、相手は悠々と歩いて距離を詰め、いたぶるようにホムラへ大太刀の刃を落として来る。きっと、受け流されてくれるのもワザとだろう。その気になれば防御ごとホムラを叩き割る事が出来る筈なのに、そうしないのは何かの気紛れか、或いは何か他の理由があるのか。
何にせよ、力及ばぬホムラには、只々それを黙って受け入れるしか無かった。
(何が違うんだ……!?)
タイミングを見計らい、相手が大太刀を振りかぶったその瞬間に地面を転がって、相手の攻勢から逃れ出る。が、体勢を立て直しつつ相手の方に視線を向けると、既に相手はホムラの眼前で大地を踏み締め、大太刀を横薙ぎに振り抜こうとしている直前だった。
(俺とコイツの、何が違うんだ……!?)
咄嗟に構えた大太刀。それを携える自らの腕。それらが、一瞬で消し飛んだような感覚だった。
耳元で轟々と風が吼える。世界が急速な勢いでホムラを置き去りにしていく。背中を中心に全身が何かに叩き付けられたのは、それから数拍置いた後の事だった。どうやらホムラは敵の一撃を受け止めきる事が出来ずに吹き飛ばされ、何処ぞの建物に突っ込んだらしい。ガラガラと破壊の震動が肌を通して伝わってくるが、ホムラはもうそれを受けても巻き込まれるとか逃げようとか、そんな事は一切考える事は出来なかった。
(何が違うんだ……?)
視界に、ふと影が挿す。
緩慢に視線を上げたホムラの目に、妙なモノが映り込んだのはその時だ。
瓦礫の中に座り込むような形になったホムラの前に立ち、悠然と見下ろす無貌の男。その肩に、背中に、大太刀に、"何か"が揺らめいているのが見えたのである。
立ち上る陽炎に墨をかけたような、燃え盛る半透明
の黒い炎のような。
それは無貌の姿を一色に塗り潰し、一つのシルエットに変えていた。何処から何処までが無貌の身体で、何処から何処までが彼の大太刀なのか。それすらも判別が付かない状態だった。
(……一つ……?)
ずるり、と引き摺るような威圧を以て、無貌がその大太刀を高々と掲げる。身体が反応し、ホムラは大太刀を掲げて防御の構えを取るが、その動きは自身でも分かるくらいに緩慢で、鈍かった。これでは到底、相手の攻撃は防げまい。
否、仮に万全だったとしても、マトモに防ぐのは難しかっただろう。斬撃とは、断撃とは、本来そんな生易しいモノではないからだ。
「……ぁ……」
斬るとは、言うまでもなく得物と手足を振り回す事ではない。体重を上手く乗せる事でも、対象の斬線を見極める事でもない。そういった技術的な話が無くては始まらないが、それらだけでもまだ足りない。
斬るとは。断つとは。
目の前で今まさに繰り出されんとしている、あの一撃の事を言うのだ。
「――――――――――――――――――――そうか」
最後の瞬間。
ホムラはその身の奥で、何かがガチリと嵌まる音を聞いた気がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
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