記憶
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
男は、裕福な家に生まれた。
黄金の少年時代を過ごした。善良な父が居て、慈愛に満ちた母が居た。快活で優秀な兄が居て、物静かで才能に溢れた姉が居て、可能性に満ちた天真爛漫な妹が居た。
幸せな――恵まれた少年時代だった。或いは、今も男は恵まれていると言っていいかもしれない。家族は今も変わらない。腫れ物のように扱う事も無く、かと言って苛立ちをぶつけたり苛めたりする訳でもなく、ただ家族として男に接してくれる。
変わったのは男の方だった。
自分が家族と何処か違う事に気付き始めたのは、確か思春期に入り始めた頃だったと思う。兄や姉が当たり前のように出来たと聞いていた事を、自分は出来ない。自分には出来なかった事を、妹は平然とやってのける。善良な父も、慈愛に溢れた母も、“出来ない”事自体を責めたりはしなかった。遥か高みにいる兄妹達だって、その事で男をバカにしたりはしなかった。
けれど、男は違った。
兄妹達が当たり前のように出来た事を出来ない自分に、酷く落胆した。落胆は妬みに、妬みは怒りに、怒りは憎悪に変わった。そして愛すべき家族にそんな感情を向けてしまった事自体が恥ずかしくて、それらの感情は全て逃避願望に変わった。
――外の世界に、行きたい。
男は、冒険者に憧れるようになった。有名な冒険者が記した伝記を読み漁り、街の外について書かれた図鑑や本を読み尽くした。その頃はもう男は将来の事について考える時期で、両親とは何度も衝突した。両親はちゃんと見抜いていたのだ。男の冒険者への憧れは、飽くまで憧れに過ぎないと。兄妹達も男の夢には賛同しなかった。分かっていたのだ。男に冒険者は向いていないと。
けれど、男は諦めなかった。
否、本当は観念しようとしたのだけれど、そうする事が出来なくなったのだ。
切っ掛けは、一人の幼い少女だった。酷く世の中を恨んだ目付きをした彼女が、傷付いた蛾か何かの虫を踏み殺そうとしていたのを、男が止めたのが切っ掛けだった。少女は男と違って両親がおらず、ろくでもない環境の中で生きていたが、良心と子供らしい素直さはまだ持ち合わせていた。
男は、少女に外の世界の話をした。冒険者になれば見る事が出来る雄大な景色や、異国の街の景色を少女に聞かせた。必死だったのだ。鬱屈とした現状に苛まれている少女が、他人のように思えなかった。今が息苦しくとも、外にはもっと別の世界が広がっている事を分かって欲しかった。
男のした事は只の自己満足だ。本当に少女を助けたかったのなら、彼女を取り巻く環境を変えてやる他無い。幾ら彼女の気を外に逸らした所で、そんなものは根本的な解決になりはしない。
だが少女は、それで善しとしてくれた。男に懐き、常に後ろを付いて回るようになった。あまり喋らず、時々口を開けばキツい言葉が飛び出したりもしたが、彼女は当たり前のように男の味方だった。いつか二人でパーティを組んで、世界中を旅して回る。そんな約束を本気で交わしていた。
だから男は、退く訳にはいかなくなったのだ。
神官の適性を知る為に兄に頭を下げ、魔法を教えて貰う為に姉に師事した。適切な身体の動かし方を知る為に妹に教えを乞い、戦場での生き残る剣術を磨く為に両親の土下座してその道のプロを雇って貰った。
男は努力した。自分なりに、精一杯に努力した。
だが結局、それらの努力が証明したのは、男には何の才能も無いという事実だけだった。塵を積もらせるような、不毛にも思えるような長い時間。その間に、後を付いて回っていた筈の少女は成長し、男よりも先に冒険者認定試験に合格して一端の冒険者になっていた。
――自分には、才能が無いから。
そんな言葉が事ある毎に口から溢れるようになったのは、何時からだろう。
溜め息が恐ろしくなった。励ますような微笑みや台詞の裏を、深読みするようになった。
皆が自分に失望している。皆、表向きは優しい顔をしているけれど、内心では自分を馬鹿にしている。そうに違いない。
だから男は先回りするようになった。
自分には才能が無いから、上手く行かない。自分には才能が無いから、出来るようになるまで時間が掛かる。自分だって頑張っているけれど、今もこうして頑張っているけど、才能が無いから上手く行かない。だから仕方無い。
その言葉に重みなど無いのは、他ならぬ男自身が一番分かっていた。口にする度に反吐を吐いている気分になったが、一度その言葉を口にすると、どうにも手放せなくなってしまった。自分には分不相応な夢と分かっていて尚、その夢にすがり付くには、相応の盾が必要だったのだ。
全ては、あの少女との約束の為に。成長して物事の道理が見え始めても尚、男を見捨てなかった彼女の為に。先に行って尚、男の事を待ってくれている同志の為に。
男は自分の夢から退く訳には行かないのだ。
例え、何を犠牲にしても。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
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