剣と翼、邂逅①

 美味そうな匂いがする。


 それは朝の厨房の匂いであり、夜の囲炉裏端の匂いである。朝日の下で輝く銀色の湯気の揺らめきであり、パチパチと薪が爆ぜる音に混じって聞こえる家族達の団欒の声である。


 もう、ずっと遠い所に置いてきたものだ。最後に心穏やかに飯を喰ったのは、一体何時の話だろうか――


 「――!」


 飯、と言うところまで思考が及んだ所で、意識が覚醒した。目を開くと同時に勢い良く上体を起こし、周囲を見回す。


 飯。飯の匂いだ。今、確かに飯の匂いがした。


 自分の状況など完全に忘れたまま、空腹の獣さながらに匂いの出所を探して、


「――!」


 そこでホムラは、そこで漸く自分の状況を思い出した。


「……あー……」


 丁度、ホムラの真横の位置で、ホムラを見返してくる二対の双眸。片方は驚いたように目を丸くして、もう片方は呆れたような冷たいジト目で、それぞれがホムラをじぃっと見詰めてくる。


「その……おはよう、ございます?」


 言葉が変に丁寧になってしまったのは、バツが悪かったからだ。大の大人が空腹の獣の如く周囲の匂いを嗅ぎ回る姿は、子供にとって衝撃的な姿だったに違いない。


「おはようございます……?」


「おはようございます」


 幸い、彼女達はホムラの挨拶に反応してくれた。目を丸くしていた火色の目と金髪の持ち主は律儀に頭を下げながらも何処か困惑した声音で、ジト目をしていた氷玉の目と銀髪の持ち主は無表情のまま淡々とした声音で、それぞれ挨拶を返してくる。


 一先ずは安堵して、少しだけ目の前の彼女達を観察する余裕が出来た。一先ず分かった事は、目の前の彼女達がを除けばそっくりな見た目の幼い少女達である事だった。双子、というヤツだろうか。性格の違いらしきものが顔付きに現れているものの、各パーツの造りや体格など、そういうものはそっくり同じだ。


「確認。気分は如何ですか? 調子の悪い所、違和感を感じる所などは?」


「え? あー……」


 氷玉の目の持ち主は、ホムラに対して物怖じしていない様子だった。表情を変える事も無いまま、ズケズケと聞いてくる。


 凄まじいまでの空腹を自覚したのはその時だ。その感覚に紐付けられて、自身が気を失うに至った経緯や状況を一気に思い出した。


 そう、そうだ。空腹と疲労で、ホムラは限界だったのだ。延々と続く石像の兵士や迷宮の罠との戦いに気力を体力を少しずつ奪われていた所に、何かが上空から落ちてくるのを見た。「合流しなければならない」と奇妙な使命感にも似た何かを感じて、必死の思いで合流を果たしたのを覚えている。自分以外のヒトの顔を見たからか気が抜けてしまい、気絶してしまった事も。


「……」


 此処で、気付いた。


 確かに凄まじいまでの空腹は解消されていない。が、身体全体にへばりついていた疲労感は、まるで嘘のように消え失せていた。寧ろその所為で空腹感は増強されているようにも感じたが、纏わり付いていた死の気配は確実に遠退いていた。


「――……失礼した」


 即座に、居住まいを正す。身体ごと双子の少女に向き直り、伸ばしていた足を折り畳んで正座し、グッと頭を下げた。


「死にかけていたのが嘘のようだ。貴方達が助けてくれたものだとお見受けするが、いかがか?」


 子供相手に、などとホムラは思わない。思えない。


 恩人に大人も子供も関係無く、感謝を伝えるのもまた然りである。子供を相手にするのだから、態度や喋り方をもう少し柔らかくするべきなのではないかという考えもあるにはあったが、どうもホムラはそういう切り替え方が出来ない性質たちであるらしかった。


「え、あ、うぇぇ……!?」


 酷く慌てた声が聞こえる。これは恐らく、表情が豊かな火色の目の方か。


「そんな、ええっと、その……!?」


「肯定」


 それに対して氷玉の目の持ち主は、やっぱりと言うか、全然マイペースを崩さないのだった。


「一先ず、生命力の補充を行っています。しかし、それは術による一時的なものです。すみやかに食事を行い、本質的・根源的に生命力を補充する事を推奨します。姉さま――」


「あ、うん」


 声を掛けられた火色の目の持ち主が、脇に置いてあった背嚢に手を突っ込んで、何かを取り出す。笹の葉を模した、何かの包みだ。差し出されるままに受け取ると、ふわりと、根源的な欲求を刺激する柔らかい匂いが、鼻腔をくすぐった。


「これは……」


「おにぎりって言うんですよ。銀粒屋って知ってますか……ってうわ!?」


 これはきっと、ホムラの血肉に刻まれた反応だ。


 笹の葉の包みを模したに、それに包まれた握り飯。認識した途端に、口の中で涎が湧き出した。火色目の少女の表情から察するに、恐らくこの時のホムラは相当に余裕の無い表情をしていたのだろう。相手の手から力尽くで物を奪い取りたい衝動を必死に堪えつつ、ホムラは文字通り言葉を絞り出した。


「……頂いても、宜しいか?」


「肯定。リオル達も食事にしますので、どうか遠慮なさらずに」


「ど、どうぞ」


 明らかに脅えまくっている火色目の少女から、なるべく紳士的に弁当箱を受け取る。


 が、我慢もそこまでが限界だった。次の瞬間には白く輝くを弁当箱から取り出していて、かぶり付こうとしている所だった。


 舌の上に広がる、程良い塩の味。後からやってきて塩味と合流する米そのもの甘み。海苔はしけているが風味が良く、中から零れ出て来た鮭の切り身には、米や海苔には無い生き物の旨味が凝縮されている。


 一度に一個だなんて満足出来ない。両手に一個ずつ掴んで、無我夢中で貪り食った。その内ボロボロと涙が出て来て視界が曇り、口が空く合間に「ありがとう」とか「すまない」とか、そんな類の言葉を零すようになった。


「お、落ち着いて……! まだいっぱいありますから……!」


「否定。姉さま。を宥めるには言葉ではなく、食糧です。具体的にはお代わりです。リオルが買い過ぎてしまった分がまだありますね?」


「う、うん……!」


 鮭。刻み沢庵。明太子。


 高菜。昆布。シンプルに塩。


 全力で口の中に詰め込んだ。無我夢中で嚥下えんげした。何度も喉を詰まらせながらも、差し出された水筒の水で強引に押し流し、命の素を心行くまで身体に供給する。


 一体どれくらいの間、その暴力的なまでの快楽に浸っていたのかは分からない。その内、世界に色と、しずけさが戻って来た。手に持っていた水筒の水を仰け反るように呷って、ホムラは漸く息を吐く。息をするのさえ、随分と久し振りな気がした。


「――ごちそうさま。生き返った」


「肯定。お粗末様でした」


「す、すごくお腹が空いていたんだね……」


 一息吐いてから、居住まいを正す。石床に拳を突いて、さっきよりも深々と頭を下げた。


「改めて、御礼申し上げる」


「ちょっ!?」 


 ……と、狼狽えたような火色目の声は、無視した。一々気にしていたら、話が進まない。


「俺はホムラ鳴神ナルカミ焔という。恩人達よ、貴方達の名前を教えてくれないか」


「え、え!? ナマエ……」


「名前です、姉さま。彼はリオル達の名前を知りたがっています」


「あ、あぁ! そっか、名前か。そう言えば私達まだ名乗ってなかったんだっけ」


 落ち着いた氷玉の目の少女の声で、火色目の少女も多少は落ち着いたらしい。軽く咳払いして数拍分の間を置いてから、彼女は自らを落ち着かせようとしているような声音でゆっくりと話し始めた。


「その、先ずは顔を上げて下さい。こっちを見てくれないと、どっちがどっちかも分からないだろうし」


「む」


「……あ、やっと顔上げてくれた。良かったー」


 ふとした拍子の仕草や表情、顔付きや雰囲気。それらがあれば、文字や言葉の情報が無くとも、その人とりは大体分かる。少なくともホムラは、ホッとしたように笑う火色目の少女に、素直で天真爛漫な性格を見た。


「ええと、私はアネモネって言います。一応、魔術が得意で、その……――」


 一瞬、何故か火色目の少女アネモネは口籠もるような素振りを見せた。


「――……冒険者を、目指してます……」


「ふむ」


 どうやら、彼女は何らかの覚悟と共にその言葉を紡いだらしい。


 が、ホムラには正直”冒険者”なるものが何なのかも正確な所は分からなかったし、彼女がどうして口籠もったのかも分からなかった。


 尤も、彼女の見た目や”冒険者”という単語から、ある程度の推測は出来る。


 例えば、そう。”冒険者”とやらを目指すには、彼女達は幼過ぎるのではないか、とか。周りからも、そう言われて相手にされないのではないか、とか。大人からすればそれが当たり前の反応だし、


 けれど、それを口にするのは憚られた。仮にホムラの推測が正しかったとしても、のだ。もしかしたら、彼女達にものっぴきならない事情があるのかもしれない。詳しい事情を知るまでは、余計な口出しをするべきではないだろう。


「そちらは?」


「え?」


「そちらの妹君だ。彼女も魔法使いなのか?」


「否定」


 どうやら、ホムラが返した反応は、アネモネが想像していたものと違ったらしい。若干間の抜けたポカンとした表情を浮かべている彼女に代わって、本人がホムラに答えた。


「リオルは神官です。魔術ではなく、”奇跡”を扱います。仰々しい名称ですが、治癒を専門に扱う魔術師という認識で結構です。また、教会の洗礼を受けている訳でもありませんので、正式な神官と言う訳でもありません」


「お、おう……?」


 スラスラと淀み無く紡がれたその言葉は情報量が多過ぎて、ホムラには殆ど理解出来なかった。が、リオルがそれに気付いた様子は無い。


 或いは、敢えて気にしなかったのかもしれなかったが。


「改めて、初めまして。リオルはリオルと言います。姉さまの忠実な妹です。よろしくお願い致します」


 なんとなく感じていた事ではあるが、彼女は姉とは違って少し風変わりであるらしい。機械的な喋り方に、眠たげな目付きが印象的な鉄仮面の如き無表情。自身の事を”忠実な”と表現するのは、一般的な姉妹にはある事なのだろうか。少なくとも、ホムラにはそんな姉妹ちょっと想像出来ない。


「俺を救ってくれたのは貴方か」


「肯定」


 姐とは対照的に、臆面も無くリオルは頷いた。その遠慮の無さが子供らしいとも言えるし、その図太さはおおよそ子供らしくないとも言える。まるで子供の姿と雰囲気を借りた、老獪な女傑を前にしているような気分だ。五感から得られる情報がちぐはぐで、一種の気味の悪ささえ覚えるくらいだ。


 だが、少なくとも彼女から邪気は感じない。敵意もだ。


 それなら、助けられた事に感謝するのを躊躇う必要は無いだろう。そんな訳で、ホムラは改めて二人に向かって、土下座するような格好で頭を下げる。勢いを付け過ぎて額を強打し、周囲に凄い音が響き渡ったが、それは勢いで誤魔化した。


「重ね重ね、御礼申し上げる」


「あの。大丈夫ですか? おでこ……」


「見知らぬ場所で目を覚まし、名前以外は何も思い出せず、当ても無く彷徨って行き倒れる所を二人には救って貰った。この恩は、返さない訳にはいかない」


「あっ、はい。私は何も見てないです。はい……」


 しょぼん、と明らかに落ち込んだ様子のアネモネの声。顔を上げて見てみると、空気を読めなかった、と言わんばかりにシュンとしているのが目に入った。……無視するのは、良くなかったかもしれない。


「確認。名前以外は何も思い出せない、と発言しましたか?」


 が、他ならぬリオルが、そんなアネモネの様子を全く気にしていないのだった。忠実という言葉の意味を自らの内で反芻しながら、ホムラは取り敢えず彼女の質問に答える。


「ああ。気が付いたら、此処に居た。それより前の事は、思い出せん」


 漠然とした答えであるとは、ホムラ自身も思う。が、これ以上の答えは返しようが無いのである。目の前の問題に集中とうひして忘れてしまっていたが、他の人間が現れた以上、この問題を放置し続ける訳にもいかない。何と言っても、我ながら自分が胡散臭過ぎる。


 と、ホムラは自身の素性に対するアネモネ達の反応に、若干の不安すら覚えていたのだが。


「……思い出せないって、自分が誰なのかも?」


「あ? ああ……?」


 思ったよりも深刻な顔をされてしまい、逆に戸惑ってしまう羽目になった。さっきとは、立場がすっかり逆転してしまっている。


「推察。落下ダメージで記憶が飛んだ可能性を提言します。彼もリオル達と異なるタイミングか、異なる場所で此処に落ちたものと推測されます」


「この人も冒険者志望なのかな?」


「肯定。可能性は高いかと」


 そうかと思えば、姉妹間で話が進んでしまっている。自分の事なのにそれは情けないと、ホムラは急いで話に割り込んだ。


「冒険者?」


 さっきも出て来た単語である。どんなものなのか何となく想像は出来るが、当然ホムラには馴染みが無い。


「あ、そうか。記憶が無いんだもんね。えぇと、冒険者って言うのは……――」


 曰く、世界は広く、未だヒトの手の及んでいない土地が数多くあるという。冒険者とは、まだ見ぬ資源や神秘を求めて、その土地を踏破し、新たな土地への道を切り拓く足掛かりを作る者達なのだという。その功績は結果としてヒトビトに返ってくる為、世界の国々はこの冒険者を積極的に支援しているらしい。


 アネモネとリオルは、その冒険者志望であるという。サンクトゥス神聖帝国なる国の王城でその試験を受けていた彼女達は、会場のトラブルに巻き込まれ、この場所に落ちてきたのだとか。試験会場は王城地下の遺跡を利用していて、この場所もその一部だと思われるが、詳しい事は分からないらしい。ただ、当然この場所は一般人が立ち入る事の出来ない場所であるという。にも関わらず此処に居るホムラは、アネモネやリオルと同じく冒険者試験を受けていて、アネモネやリオルと同じトラブルに巻き込まれて落ちてきた。その可能性が最も高いらしい。

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