本当の冒険、第一歩②
……。
あれ。
変だな。私、リオルを抱えて飛んでる筈なのに。どうして、私のほっぺたは床にくっついてるんだろう。どうしてリオルが、私の顔を覗き込んでいるんだろう。
「大丈夫直ぐに治します安心して下さい姉さま! 姉さま!!」
背中から、どくん、どくんと何かが流れ出している。それはアネモネの身体の中の熱をも一緒に持ち出しているようで、結果としてアネモネの身体からはどんどん熱が抜け出していくようだった。
身体が熱い。熱いのに、寒い。頭がクラクラして、視界の上の方が沈むように暗くなっていくのが分かる。
(――……嗚呼)
私、斬られちゃったんだな。飛ぶ事が出来なくなって、落ちちゃったんだ。ドジだなぁ。
リオルが何事かを捲し立てているのが聞こえる。膜が掛かったかのようにぼんやりしている五感の中ではその意味を把握する事は出来なかったが、取り敢えずそれくらいの元気はあるのだろう。状況はあまり良いとは言えないが、それだけは不幸中の幸いと言って良い。
「リオ……――」
息が続かない。上手く喋る事が出来ない。それでも、せめて自分のやるべき事はちゃんと分かっていたから、迷う事は無かった。
床に手を突き、身体を起こす。立ち上がる事は出来なかったから、四つん這いのまま背後を振り返る。リオルが悲鳴のような声で何かを言ったが、彼女が何をするつもりなのかは不思議と分かったので、敢えて無視した。
「逃げ、て……――」
「否定! 出来ません姉さま!! 治しますからはやく横になって下さい! 姉さま!! 姉さまったら!!」
振り返った視界の先では、丁度石像が広間の中に入ってくる所だった。まだそこそこ距離はあるけれど、アネモネがダメージを負ったのを認識しているのか、今はもう走っていない。悠々と歩いてくる。この様子なら、呪文を唱える時間は十分にあるだろう。傷を負ったアネモネがこの場に残って足止めし、元気なリオルはこの場から逃げる。それが最善だ。傷の治癒は必要無い。その間に距離を詰められて、二人とも終わる。
「……」
リオルは賢い。もし、アネモネがこの場で殺されてしまっても、リオルが後から戻って来て“遺灰”を回収してくれれば、まだ望みはある。それは彼女も分かっているだろうから、アネモネが行動を始めてしまえば、きっとこの場から離れてくれるに違いない。こうしている今も、アネモネの背中からはドクドクと熱が抜けている。余力は無く、魔術も使えてせいぜい二、三発が限度だろう。動き回れない今、距離を詰められれば終わりだから、実質一発だけか。
「――КориЫо……」
十分だ。その一発さえあれば、結果がどう転んでもリオルを逃がすだけの時間を稼ぐ事は出来る。
「Атсумарё, МурёНоГотоку. Карё, КёмоноНоГотоку……」
暗く霞む視界の中で、石像が地面を蹴って走り始めるのが見えた。引き摺られる剣の鋒が地面に跡を刻み、火花が連鎖して咲いていく。数瞬の後には、あの剣はアネモネの頭蓋を叩き割るだろう。“巨像の間”では、この魔術は巨像すら氷漬けにしてみせた。でも、今回はどうだろう。ベストコンディションではない以上、あの石像でも動きを鈍らせるのがせいぜいかもしれない。アネモネは死を免れないかもしれない。
リオルの声はもう聞こえない。気配を感じ取るには意識が朦朧し過ぎているが、既にこの場から居なくなっている事を祈るしか無い。何にせよ、あの子が此処から逃げられるなら、それでいい。
ちょっとだけ誇らしい気持ちになって唇を吊り上げながら、アネモネは呪文を結ぶべく息を吸う。
「Ар――」
広間全体が轟音に揺らいだのは、直後の事だった。それは朦朧としているアネモネの意識すら揺さぶる程の衝撃で、ビックリしたアネモネは思わず息と共に呪文まで呑み込んでしまった。
あまりに間抜けで致命的なミスに背筋が冷たくなったけれど、幸い、そのミスはアネモネの命を奪うには至らなかった。と言うのも、石像もまたその轟音と衝撃に気を取られていたからだ。
否。正確には、それを起こした張本人に、といった所か。
「おお、此処に居たな」
落ち着いた、と言うより、憔悴しきったような声。
まだ若い、大人の男の人だった。どうやら、壁をぶち破って広間に踏み入って来たらしい。アネモネから見て左手側の壁には何時の間にか粉塵がもうもうと立ちこめる大穴が空いていて、彼はそこからユラリと姿を現していた。
奇妙な男だった。手には優美に反った刀身を持つ、彼自身の身の丈程もある巨大な剣を提げ持っている。ああいう武器を振り回す前衛の冒険者はアネモネも見た事があるが、そういう人は大抵重くて硬い装備を身に纏っているものだ。けれど彼が着ているのは、ヒラヒラした布の服である。炎の紋様が刺繍された朱いそれはローブとはまた違うゆったりしたデザインで、動きやすそうだが防御性には全く期待出来そうにない。アネモネの常識には当て嵌まらない、とにかく奇妙な男だった。
「……あー……」
変わっていると言えば、石像の反応も少し妙だった。その男が現れた瞬間、アネモネ達の事など完全に興味を無くしたように、彼の方に向き直る。石と石を擦り合わせるような不快な咆哮を上げながら、剣を大きく振りかぶって飛び掛かった。
重々しい金属の残響音。
剣を大上段に振りかぶり、男に飛び掛かった石像は、けれどその剣を振り下ろす事は無かった。それよりも速く、大きく振り下ろされた男の大剣が、石像の頭に半分以上めり込み、その身体を叩き落としていたからだ。
ドガン、とも、ゴガン、とも聞こえる暴力的な音と共に、石像が地面に叩き付けられる。仰向けで大の字に転がる形になった石像はちょっと憐れだったが、それでも男は止まらない。石像にめり込んでいた大剣を力任せに引き抜いて、再び石像に叩き付ける。
一度、二度。もう一度。
斬ってバラバラにすると言うよりは叩いて砕くと言った方が相応しいやり方で、男は石像を粉々にしてしまう。
「……こんなもんか」
回数にして五回程だったと思う。石像が原型を留めなくなった所で、男は大剣を持つ手をダラリと下ろした。それから視線を巡らせてアネモネを見ると、引き摺るような足取りで近寄って来る。考えるのも、警戒するのも忘れたまま、アネモネはただただ彼を見返す事しか出来なかった。
「……怖がらないでくれ。取って喰いやしない……」
穏やかな声だった。錆びているような生気の無い声とも言えただろうが、少なくともアネモネはそんな声で言葉を紡ぐ彼に警戒心を抱く事が出来なかった。もしかしたら、最初からそんなもの抱いてなかったかもしれない。
「……ただ、すまん。不躾なのは重々承知しているんだが……」
そっと、男は自らが持っている大剣を地面に突き刺した。一体何のつもりかと思ったら、彼はそれを杖代わりにして体重を支えていた。ついさっきまで豪快に大剣を振り回していた人物の行動とは思えなくて、アネモネは思わず目を瞬かせてしまう。
ぐぅ、と盛大に腹の虫が鳴く音が聞こえた。
「……何か、食い物と……水、を……分けて、く……――」
彼が最後まで言葉を言い切る事は無かった。上体をいきなり大きく揺らしたかと思うと、そのまま引っ繰り返るように後ろに倒れ込んだからだ。
大剣の扱い方が豪快なら、倒れ方も豪快だ。頭を打ったんじゃないかとハラハラして、思わずアネモネは彼の傍に寄ろうとする。直ぐに肩に手を置かれ、引き留められた。
「否定。ダメです、姉さま」
リオルだ。一旦離れてから戻って来たのか、それともずっと其所に居たのか。
「姉さまも傷が癒えたばかりです。急に動くのはあまり推奨出来ません」
傷。傷……?
ああ、そう言えば私、背中斬られたんだっけ。何時の間にか痛みも何も感じなくなっていたし、ドクドクと背中から血が抜けていく感触も無くなっている。視界も暗さも解消しているし、さっきより調子は全然良い。だからこそ、大剣の男の様子を観察出来たのだろう。
……って。
「あれ!? 私いつの間にか治ってる!?」
「肯定。リオルが治療したからです」
事も無げな口調で言いながら、リオルがアネモネの前に進み出た。困惑するアネモネは放ったまま、特に警戒する様子も無く大剣の男に近付いて、その脇に跪く。
「……治療してくれたって、何時の間に……」
「この男が戦っている間です。呪文詠唱はそれよりも前に行っていましたが」
「私は逃げてって言ったのに……」
「否定。無理です。逆の立場だった場合、姉さまはリオルを置いてさっさと逃げ出しますか?」
「だって……!」
だって、それが一番合理的だった。
反射的に喉まで迫り上がってきたその言葉を、けれどアネモネは紡ぐ気になれず、逃げるように視線を逸らしてしまう。
「……無理かもしれないけど……」
「肯定。リオルもそうでした。時間を稼いでくれた、この男に感謝ですね」
話しながらも、リオルはテキパキと診断を進めていく。男の頬をペチペチと叩いて完全に目を覚まさない事を確認、身体の上に手を置いて身体全体の生命力の流れを確認。それから彼女は微かに首を傾げると、いきなり彼のお腹に耳を当てた。
「おお」
「え、なになに?」
「結論。疲労と、空腹ですね。術で生命力を回復させておきましょう。これで眠ったまま死亡、と言う事態は無くなります」
アネモネの言葉には答えないまま、リオルは“治療”の準備に入ってしまう。普段なら絶対やらない行動に好奇心が刺激され、アネモネも男の傍に近付いて、リオルの行動を倣ってみた。
「うわ」
嵐だ。
この男のヒト、お腹の中に嵐を飼っている。
「すんごい音だ。このヒト、どのくらい食べてないんだろ」
「否定。姉さま、邪魔です」
「あ、ごめん」
平坦だからこそ無視する気になれない。そんな声で言われ、アネモネは慌てて男の腹から頭を退けた。
闇の中に、星空のような銀青色の光が生まれる。リオルが扱う”奇跡”は、アネモネが扱う“魔術”とは違うし、一般的な神官が扱う“奇跡”ともちょっと違う。紡がれる祝詞は秘やかだが荘厳で、祝詞に合わせて宙を舞う星の光は幽玄で美しい。
静かだった。
アネモネが知っているだけでも二人もヒトが死んで、アネモネ達も出られるか分からないような場所に居る。そんな事実を忘れてしまうような、そんな静かな時間だった。
「姉さま」
「ん?」
祝詞自体は唱え終わったのだろう。魔力を未だ制御しながらも、リオルが不意に声を上げた。
「これが、姉さまの望んだ冒険です」
「え?」
「ヒトが死にます。親しいヒトも、笑い合ったヒトも、助けてあげたいヒトも。死ぬ時は死んでしまいます」
「……」
「それでも、冒険者になりますか? 姉さまの夢を叶えますか?」
「……それは、覚悟の話?」
「肯定」
躍る星色の魔力の粒子が煌めいて、ここはまるで星空の中だ。リオルは男から顔を上げない。魔力の制御に集中しているのか、気まずいのか、或いはアネモネを試しているのか。
アネモネは、真っ直ぐにリオルを見て頷いた。
「うん」
リオルは動かない。そんな彼女に向けて、アネモネはもう一度頷いて見せた。
「それでも私は、世界の果てを見に行きたい。冒険者になりたいよ」
「分かりました」
あっさりと、リオルは引き下がった。もっと色々意地悪言われるかと覚悟していたから、ちょっと拍子抜けだった。
「……あの、リオル? 冒険者になるのは飽くまで私の夢なんだから、その、リオルは無理に付き合わなくてもいいんだよ?」
「否定。リオルは姉さまの影ですので。姉さまの望みを叶える事こそが、リオルの望みです」
「またそんな事言って」
「事実です。そんな事より姉さま、食事の準備をお願いします。生命力を補充しましたが、術によるそれは消費も早い。この男には食事が必要です。我々も一緒に休息を取りましょう」
「分かった」
もしかしたら、リオルもお腹が空いているのかも知れない。今日は朝から時折そんな風にぼやいていたし、その所為で弁当も用意し過ぎてしまったとか言っていた。確かに背負っている背嚢はいつもより重い。けれどまさか、それが役に立つとはリオルも思わなかっただろう。男の人って、いっぱい食べるらしいし。
アネモネ自身は未だ“巨像の間”の光景が脳裏にちらついていて、食欲はそんなに無いのだけれど、たった今リオルに大見得を切った身としてはそんな弱みは見せたくない。気持ちを切り替え、背負っていた背嚢を下ろして、中身を漁り始める。
気持ちを切り替えるのに必死になっていたから、リオルが小さく微笑みながら呟いた一言は、アネモネの耳には入らなかった。
「――……毎度毎度、本当にブレませんね」
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