第10話~お別れの10ページ 前編~

 かばんは絶句した。

 簡単な相槌や頷きひとつですら、このパークで起きたこと全てを見てきたセーバルの前では軽くなってしまうように思えて、何も返せず、ただ、黙って聞くことしかできなかった。

 胸が今にも張り裂けそうになる。彼女の言葉の一つ一つが心を抉るように響いた。

 まさかパークに、キョウシュウの火山にそんな過去があったなんて……。驚く一方で、心の中ではまだ信じられない気持ちの方が強い。

 それだけのことがあったにもかかわらず、これまでの旅で気がつかなかったのはそれくらい長い時間が経ってしまったからなのか、或いはその痕跡を“そういうもの”として認識して気にも留めなかったからか。 

 いずれにしても彼女たち先代のフレンズが命をかけて守ったからこそ今のキョウシュウがあり、今の自分がいるということに変わりはない。そしてその代償としてセーバルがここに閉じ込められてしまったということも。

「ねぇセーバルちゃん……。セーバルちゃんはこれからどうなるの? 僕たちは、これからどうなっちゃうの?」

 彼女は言った。別れの時が近い、と。これが最後の夜になる、と。その言葉に胸が掻き毟られそうになる。

 ――まだ話したいことも、一緒に行きたいところもたくさんあった。これがセーバルと過ごす最後の夜になるなんて信じられないし、信じたくない。そう思ったら、聞かずにはいられなかった。

 セーバルは暫く黙っていたが、やがて「わたしにも、それはわからない」と首を振った。「でも――」と続ける。

「セーバルは、きっと、このまま。そして、かばんは、元の世界に帰る。ここでの記憶も、全て失う」

 呆気に取られ、かばんは大きく目を見開いた。そのまま二の句が継げずに押し黙ってしまう。

 ――ここでの記憶も、全て失う。

 たった今セーバルに言われたことが頭に入り込んでこない。あまりに残酷なその一言が刃物のように深く突き刺さる。絶望に、心を黒々と塗りつぶされていく。

 ここでの記憶を全て失う、ということはそれはつまりセーバルの存在そのものを忘れる、ということだ。彼女が記憶を忘れる、ではなく失う、と言ったことにもぞっとした。

 絞り出すように洩れた「そんなの、嫌だよ……」という声が震えていた。

「だって僕はセーバルちゃんのこと忘れちゃうのに、セーバルちゃんはいつまでもここにいて、そのことをずっと覚えてるってことでしょ? そんなの、そんなこと……」

 そんな残酷なこと、許されるはずがない。

 もし仮に自分がセーバルの立場だったらと思うと、心臓がすり減るような痛みに襲われる。ではもしこの先、何がしかの奇跡が起こってセーバルと再会できたとしても自分は彼女のことをまったく覚えていないというのか。そんなのは認めたくなかった。

 大切な人の記憶から抹消されてしまう恐怖を、かばんは経験している。いや、正確には経験しかけたことがあると言った方がいいかもしれない。

 サーバルがセルリアンに食べられた時、一度だけそのことを考えた。サーバルがもし次に目を醒ました時、自分のことを覚えていなかったら……。

 考えた瞬間、目の前が真っ暗になった。肌が一瞬で粟立ち、そのことに慄然とした。あの時感じた喪失感はもう二度と味わいたくない。

 もしあの時、サーバルの記憶が戻らなかったとしたら自分はどうしていただろうか。もしかしたらその辛い現実に向き合うことを恐れ、彼女の前からいなくなっていたかもしれない。それくらい、大切な人から忘れ去られてしまうということは耐え難く、辛いことなのだ。

「僕は、忘れたくない……」

 何も言わないセーバルに向かって続ける。

「セーバルちゃんと出会えたことも、一緒にゲームしたことも、島を探検して、海辺を歩いて、お風呂に入って、映画を観て……」

 これまでの思い出が次々と口を衝いで止めどなく溢れ出る。

「一人で旅に出て、最初に友達になれたのがセーバルちゃんでよかったって気持ちも全部、覚えていたい」

 震える声でセーバルに訴える。こんなことを言ったって彼女を困らせるだけだ。それでも、言わずにはいられなかった。

 するとそれまで黙っていたセーバルがようやく一言、「ありがとう」とだけ呟いた。

「でもかばんは一つ、大きな勘違いをしてる」

「勘違い?」

「――本当に、一人で旅に出たの?」

 え――という声が、咽喉の途中で固まる。どうしてこのタイミングでそんなことを聞いてくるのかわからず、かばんは困惑した。彼女は何が言いたいのだろう。

 しかしその時突然脳裏に浮かんできた映像に、かばんは一瞬にして意識を奪われた。


 見渡す限りの青い海――。

 まるでクレヨンで塗りつぶしたかのように真っ青に染まったその海原の上に、ぽつん、と黄色い船が一隻、行き場をなくしたように漂っている。

 ――デデデ……電池……。バスノ電池ガ……。

 ――ここでー!?

 かばんを担いた一人の少女が叫んだ。

 これは――自分だ。

 ではこれはこの島に来る直前の記憶だろうか。

 その時後ろからもう一隻、キコキコと軽快な音を鳴らしながら近づいてくる船の影が見えて、え、と、かばんは息を呑んだ。

 ――あっ!? ヤバいよ! こっちも止まらなきゃ! ストップ! ストーップ!!

 ガツン、という音と共にかばんの船とその船が衝突する。振り返ったかばんが、嬉しそうにその名を呼んだ。

 ――あ!? サーバルちゃん! みんな!

 ――えへへへ……。やっぱり、もうちょっとついて行こうかなぁって!

 ――もぉ~!

 これは、いつの記憶だろう。

 こんなもの、自分は知らない。

 知らないのに、何故かとても懐かしい気持ちになった。

 そして、急に泣きたくなった。

 優しくて、あたたかくて、縋りつきたいほど懐かしいこの世界を、自分は知っている。

 そうだ。確かこの後水面から見たこともないフレンズが顔を出してきて……。

 ――なになにー? どこ行くのー?

 ――あなたは、何のフレンズさんですか?

 ――お友達になろうよ!


 そこでぷつっと映像が途切れ、はっと意識が戻る。

 一体今のは何だったのか。一瞬前まで見ていたものが幻なのか現実にあったことなのかわからず、激しい混乱に頭を掻き乱される。

「思い出した? それが、かばんの本当の記憶。戻るべき、本当の現実世界」

「僕の、本当の……」

「かばんは本来、ここに来ることはなかった。仲間たちと、新しい大地へ向かうはずだった。――なのに、何の因果か、偶然この世界に迷い込んでしまった」

 セーバルの使った、本当の現実世界、という言葉がぐっと重くのしかかる。

 今この場にいることだって間違いなく現実のはずなのに、まるで夢か幻にでも囚われているような言い方だ。

「かばんには、かばんの帰るべき場所がある」

「でも僕が帰ったらセーバルちゃんは……」

 また一人になってしまう。言い淀んで、言葉を選ぶように続けた。

「セーバルちゃんは、それでいいの……?」

 尋ねた声が、弱々しく響く。答えを聞くのが、怖かった。

 しかしセーバルは、「いいよ」とあっさり答えた。

 もう一度、今度は「セーバルは、いいよ」とはっきり告げる。その声からは感情も躊躇いも感じられない、まるで初めからそう答えるのを決めていたかのような言い方だった。

「だってセーバルは、ここでみんなを見守ってない

といけないから。それが、わたしの役目だから」

 言い聞かせるように、俯きながらそう呟く。

 ――嘘だ。そんなものは欺瞞だ、と頭では理解していてもそれを自分の口から出すことができない。

 だってわかる。わかってしまう。

 セーバルにとってこのパークは何より大切なものだから。なくなってほしくない、自分を犠牲にしてでも守りたい輝きだから――。

 だからセーバルは選んだ。自分の身と引き換えに平和と安寧をもたらし、孤独と永遠の命を受け入れた。

 ――でも。だからこそ伝えたい。

 ジャパリパークの平和は誰かの犠牲の上に成り立っているのではない。平和とはみんなで創っていくものであり、決して誰か一人が背負わなければいけないものではない、ということを。みんなで享受し、それを次代まで引き継いでいくことが大事なのだ、と。アライグマの言っていた『困難は群れで分け合え』という言葉がそのまま蘇る。

 そして何よりセーバルにもうこれ以上同じ過ちを繰り返してほしくなかった。だってそんなものはサーバルだって望んでいなかったはずだから。

 セーバルの記憶の中のサーバルがどういう人物なのかは詳しくは知らない。でもきっと彼女ならこう言うはず。

「――セーバルちゃんは、どうしたい?」

 セーバルが弾かれたように顔を上げる。「わたしは――」と言いかけた声が上ずっていた。

「かばんと――旅がしたい」

 セーバルの本音を前にかばんが頷く。「わかった」と。

 そのままぎゅっと彼女を抱き寄せた。彼女のあたたかさが、そのまま全身に沁み込んでくる。熱が、感覚ではなく心でわかる。伝わる。

 セーバルの口から、うーっと長い吐息が洩れた。

「今まで一人にしてごめんね。もう大丈夫だよ」

 その一言を聞いたセーバルが、泣き崩れる。

 獣のような声で、堰を切ったようにわんわん泣き叫ぶ。

 震える背中を擦りながら、ああ、とようやく気づく。セーバルの背中はこんなに小さかったのか、と。

 セルリアンに助けられた時に見た背中とはまるで違う、等身大の彼女がそこにいた。

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