第9話~真実と記憶の9ページ 前編~

 かばんがはっと我に返ったように後ろを振り返る。

 そこに、セーバルが立っていた。

「セーバル、ちゃん……」

 名前を呼んだ、その声が震えていた。喉の奥が干上がったようになり、あたたかみのない掠れた空気だけが口から吐き出される。彼女の姿を見た途端、今まで感じたことのない寒気がぞっと全身を伝った。

 セーバルと目が合う。その瞬間、心臓が重たく、鈍い音で鳴った。ぶわっと背中から手まで一瞬で嫌な汗をかく。

 ――見られてしまった。

 見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった見られてしまった――。

 頭の中で何度も同じ言葉が繰り返される。心臓が一瞬前とは比べものにならないほど速く、全身を強く打ち付けていた。

 咄嗟に後ろ手で日記を隠そうとする。セーバルからこちらはかばんの身体で死角になっている。もしかしたら、と一縷の望みをかけたが、その希望はあっさりと打ち砕かれた。

「かばん、見たんだね」

 セーバルの抑揚のない声が響く。何度も聞いた声が、恐怖の色を伴って鼓膜を揺らす。何を見たのか直接言わないことが、もう後戻りできないことを告げていた。

「うん」

 頷くしかなかった。

 そしてすぐに「ごめんね……」と小さな声で謝ったが、セーバルはただ一言、「そっか」と呟くだけで、謝ったことに対しては「いいよ」とも「だめ」とも答えなかった。

 会話とも呼べない短いやり取りがそこで途切れる。塗り込めたような重い沈黙が、二人の間に蹲っていた。

 セーバルはそれ以上何も話そうとしなかった。まるでこちらから話を切り出すのを待っているかのように、静かに、ただ黙ってこちらを見つめている。

 ――あぁ、ついにきてしまったのだ。この時が。

 セーバルのその瞳を見て、ようやく尋ねる決意ができた。

「セーバルちゃん」

「何?」

 本当は気づいていた。

 最初から、何かがおかしいと。

 でも怖くて聞けなかった。それを知ってしまったら、セーバルとの関係が崩れてしまうような気がして。

 向き合わないで、逃げてきた。そうすることで、この世界にいられる時間を、セーバルと一緒に過ごす時間を少しでも延ばそうとしてきた。

 でもそれは結局、彼女のためではなく自分のためにしていることだと気づいた。彼女が悩んでいるなら力になりたい、そう誓ったあの日の自分に嘘はない。だってセーバルは、大切な友達トモダチだから。

「セーバルちゃん――幽霊なんだよね?」

 セーバルの真っ赤な瞳が大きく見開かれる。

 その表情を見たら、答えはもう聞かなくてもわかった。

 ああ、とうとう言えた。――言ってしまった。込み上げてくる思いを必死で抑えながらかばんは続ける。

「――実はね、ついさっきまでセーバルちゃんのこと、セルリアンじゃないかって思ってたんだ」

 彼女がもしセルリアンだったら――。そう考えた時、一つだけどうしても納得いかないことがあった。

 それは何故ここまでかばんを襲わなかったのか、ということだ。それこそタイミングなんて幾らでもあったはずだ。先程のセルリアンとの戦い、昨日の就寝後、そして初めてこの島に上陸した時もセーバルはかばんに飛びかかってきたが、それでも食べようとはしなかった。

 その時かばんの頭に、あるもう一つの考えが浮かんだ。

 もしかしてセーバルは、フレンズでもセルリアンでもない、もっと別の何かなのではないか、と。

 かばんがセーバルに歩み寄る。

「セーバルちゃん。ちょっと僕の手、握ってみてくれないかな?」

「え、手?」

 セーバルはどうしてそんなことを言い出すのかわからないといった表情でこちらを見返した。かばんは「いいから」と自分の手にセーバルの手を重ねる。

「僕の手、あったかいか冷たいか、わかる?」

「そんなの、あったかいに決まって……」

「ごめんね。――冷たいんだ」

 セーバルがあ、と声を上げる。

 かばんの手には氷が一粒、握られていた。

「いつの間に……」

「さっきカレーを食べた時に片付け忘れたコップが置いてあったから、そこからちょっと」

 俯くセーバルの視線が濡れた手元に集中している。さっき指に巻いてあげた真っ白い包帯が、湿り気を帯びて色濃くなっていた。ぽたりと滴る水滴の音が虚しく部屋に響く。

「セーバルちゃん、感覚、ないんだよね」

 この島に着いてセーバルに襲われた時、彼女の手が雪のように冷たかったことにかばんは衝撃を受けた。

 あたたかい血の通った生き物が発するものとは程遠い、まるで生命が感じられないような冷たさだった。

 最初は彼女がそういう特徴を持つフレンズなのかとか、或いは寒い所から移動してきたからとか色々考えた。しかしゲームをしている時や天体観測をしている時、ましてや一緒にお風呂に入っている時ですら一向にその体温は上がることはなく、かといってセーバル自身も特に寒そうにしているといった様子も見られない。一緒に入ったお風呂のお湯が先に冷めてしまうほどに彼女の身体は冷え切っていた。

 そこでようやくセーバルには感覚がないのではないかと思い始めた。そしてそれは先程の料理で確信に変わった。

「血、出ないんだね」

「うん」

「痛みも、感じなくなって……」

「そうだね」

 かばんの問いにセーバルは淡々と答えた。その余りにも平然とした言い方に胸がきゅう、と締めつけられる。

 生物には五感というものが備わっている。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚――。セーバルはそのうちのいくつを失ってしまったのか。聞くだに恐ろしくてかばんは躊躇った。しかし溢れ出る思いがそれを遮る。

「セーバルちゃんと一緒に作ったカレー、あれを美味しいって言ってくれたのも、嘘だったの……?」

「ううん。嘘じゃないよ。セーバルとかばんが一生懸命作ったんだもん、美味しいに決まってる」

「そうじゃないよ!」

 思わず叫んだ。セーバルが驚いたようにビクッと身体を強張らせる。「どうして……」という声が口から洩れた。

「どうして……言ってくれなかったの」

 やり切れない思いでいっぱいだった。

 ずっと溜め込んできた思いが、涙となって溢れ出してくる。止まらなくなる。

 セーバルはただ力なく笑いながら、かばんに向けて呟いた。「言えないよ」と。

 泣き出しそうに、その目が細く、歪んでいた。

「セーバルからは、言えない。言ったって、かばんは困るだけだし、言っても、どうにもならないことだってある」

「それでも――!」

 声が詰まる。心がバラバラに引き裂かれそうになる。これから発する言葉がどれだけ身勝手で、無力であることを知りながらも、叫ばずにはいられなかった。

「僕は言って欲しかった!」

 そして絞り出すような声でこう続けた。「今まで気づいてあげられなくて、ごめん」と。

 セーバルとかばんは一緒に生活してきた。一緒に食べ、一緒に寝て、同じ時間を共有してきた。

 そう思っていたのに実際は違った。

 お腹も空いていないのに味のしないジャパリまんを食べ、あたたかいのかどうかもわからない液体の溜まった浴槽に身体を沈め、また眠る必要のない夜は天体観測でもしていたのだろうか――。

 以前島を出る前に風邪を引いて何日か寝込んだことがあった。初めて経験する熱っぽさと身体の重だるさに最初は戸惑ったが、博士がすぐに薬を用意してくれ、またサーバルも懸命に看病してくれたこともあってすぐに症状はよくなった。

 それでも数日は食べ物の味がまったくわからず、何を食べても美味しいと感じなかった。せっかくヒグマが自分のために作ってくれた雑炊ですら、水の分量を間違えて炊いてしまったべちゃべちゃのお米だとしか思えなかった。あの時ヒグマに「どうだ、美味いか?」と訊かれて、咄嗟に「美味しいです」と答えたことを思い出す。

 黒いセルリアンに食べられた時、薄れゆく意識と感覚の中で必死にその冷たい空間から抜け出そうと抗った。空虚で、無機質で、終わりのない川の中を延々と流されていくようだった。自分が消えてゆく恐怖感に支配されながらも、助け出してくれたサーバルに抱きつかれた時、そのあたたかみにああ、生きている、と実感した。

 まだサーバルと旅を始めて間もない頃、彼女はよく夜眠れずに寝床を抜け出しては日中に寝ていた。時には彼女と一緒に昼寝をすることもあったが、そうなると今度は夜眠れなくなった。早く寝ないといけないのに、寝よう寝ようと思えば思うほど、気持ちばかり焦って余計に眠れなくなる。昼寝をした日は夜が来るのが怖かった。

 味のしない食事、何も感じなくなることへの恐怖、眠れない夜の孤独……。どれもかばんにとってはもう経験したくないものばかりだ。

 しかしセーバルはそんなことおくびにも出さず、事実かばんもそのことについてまったく気がつかなかった。

 ――いや、本当は気づいていたのではないか。

 彼女とジャパリまんを食べた時、彼女は一言でも美味しいと言っていただろうか。彼女の体温に疑問を持った時、それについて一度でも尋ねたことがあっただろうか。昨日の夜、月明かりに照らされたソファに彼女の姿はあっただろうか――。

 そして昼間観た映画でセーバルは何と言っていただろうか。

 ――普通に食べて、普通に寝て、普通に生活してたのに突然事故で死んじゃって――。今まで普通にできてたことが何もできなくなった。

 地縛霊。この世に未練を残して死んだ者が成仏できずにそのまま現世に居座る現象。そして少女の霊に対するセーバルの鋭い観察眼と並々ならぬ感情移入。

 輪っかの1と2を続けて観ても幽霊が食事を必要としなくなっただとか、眠る必要がなくなったという描写はどこにも見当たらなかった。あくまでも主人公は幽霊から逃げる側で、幽霊はいつまでも成仏を望む側という覆ることのない図式の中で、セーバルはどうやってその考えの境地に至ったのか――。

 だからかばんは尋ねた。セーバルは幽霊なんじゃないか、と。彼女が何か悩んでいて、そのせいでこの世界に留まり続けているのなら、その不安を取り除きたい、そう思った。

「やっぱり、かばんは凄いね。まるで、名探偵」

 セーバルがおどけた口調で言う。だがそこにはもう、いつものいじらしさは感じられなかった。痛々しく響く声の中に、すべてが表れているようだった。

「でもね」

 セーバルがかばんの目を見る。そして、言った。

「セーバルは、幽霊じゃないよ」

 えっ、という声が声にならずそのまま喉の途中で消える。

「幽霊は、元の身体を失って、魂だけがこの世に残ってしまうことを言う。でも、セーバルの場合は、ちょっと違う」

「どういう……こと?」

「セーバルの身体は――キョウシュウにある」

 そう言うと、やがてセーバルはとつとつと語り始めた。

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