第7話~セルリアンの7ページ~
「セルリアンだ!」
かばんが叫ぶ。
迂闊だった。
考え事に気を取られ、前も見ずに歩いていたかばんは正面にいるセルリアンにまったく気がつかなかった。セーバルが腕を引っ張ってくれなければ今頃はもう食べられていただろう。
「ありがとうセーバルちゃん。ごめんね、大丈夫?」
矢継ぎ早に言葉を繋げながらあわてて立ち上がる。セーバルはかばんよりは幾分か落ち着いた様子で「大丈夫」とだけ答えた。
「それより、どうするの?」
セーバルが尋ねる。
相手は今まで見たことのないタイプのセルリアンだった。淡い緑色をしたそら豆のような身体に四肢はなく、その胴体の大部分を大きな赤い目が覆っている。頭から伸びた一本の触覚が、獲物を探るようにこちらへ向けてうねうねと
それを見た瞬間、全身から血の気が引き肌が粟立つような感覚に襲われる。視界から色が消え失せる。あの日の感覚が一気に蘇り、恐怖が、悲しみが、苦しみが、いろんな負の感情がどっと押し寄せて全身を支配しようとしていた。
「かばん!」
セーバルの呼ぶ声にはっと我に返る。いつの間にか彼女は、かばんの前へ出て仁王立ちするようにセルリアンと対峙していた。
「わたしが、囮になる。かばんは、先に逃げて」
「えっ!? ダメだよそんな!」
そんな――。そんなことをしてもしセーバルの身に何かあったら――。かばんがそう言おうとした時、セーバルが振り返ってこう言った。
「大丈夫。いざとなったら、セーバルがんばるボンバーするから」
「……が、がんばるボンバー?」
セーバルの言った意味はよくわからなかったが、彼女はかばんが訊き返すより先にセルリアンへ向かっていった。
「セーバルちゃん!」
セーバルがぶつぶつと何かを呟きながら一歩ずつセルリアンとの間合いを詰めていく。
そこでセルリアンの動きがピタリと止まった。
次の瞬間、触手を地面に突き刺したかと思うと、猛烈な勢いでその場から跳び上がった。瞬時にその身が視界から消える。ジャンプした、と思った時には既にその身は空高く舞い上がり、今まさに目標へと一直線に急降下しているところだった。
しかし、その時セーバルがやられるとは思っていなかった。
セルリアンは、かばんに向かってきていた。
「えっ?」
目の前がぐわん、と揺れる。唖然としたかばんにセルリアンの影が重なっていく。一秒一秒がその何十倍にも感じられるくらい重く感じた。
――逃げなきゃ、と、全身が警鐘を鳴らしていた。しかし、その意思とは反対に足は塗り固められたようにびくともしない。
動け動け動け動け――!かばんは心のなかで何度も叫んだ。何度も何度も。
せめて一歩でもいい。一歩でも後ろに下がることができれば攻撃をかわせる。それでもかばんの身体はそこから動くことを許そうとはしなかった。まるで運命が、それを望んでいるかのように。
やられる――と思った。
「――セーバルがんばるボンバー!」
その時、セーバルが叫んだ。物凄い勢いで砂煙を上げてその場から高く跳び上がる。高く、高く、その身はあっという間に空中にいるセルリアンを越えてしまった。
セーバルの両手が真っ赤に輝く。そのまま落下の勢いに任せて爪を振り下ろすと、セルリアンはかばんの目の前でパカァンと音を立てて粉々に砕け散った。
「大丈夫? かばん」
セーバルが手を差し伸べる。
そこでようやく自分がその場に座り込んでいたことに気づいた。どうやら腰が抜けてしまったらしい。腰どころか全身に思うように力が入らない。まだ心臓が怖いくらいバクバク震えていた。
助かったのだ、と思った。ほっとしたのもつかの間、その様子を見ていたセーバルが差し伸べた手をいきなりかばんの頬へ持っていった。
「いっ!? いひゃいいひゃい!」
「かーばーんー。どうして自分が危ない目に遭ったか、わかる?」
むぎゅ、とつままれた右の頬がぎりぎりぎり、と力いっぱいつねられる。
「ゆ、ゆだんひへははら……」
「もーいちど」
その声を合図にぱっとセーバルの手が離れた。
「ゆ、油断してたから、です……」
ようやくちゃんとした言葉を発したかばんにセーバルが無言で頷いた。
「そう。かばん、油断してた。だから、セーバル、怒ろうとした。……なのにセルリアンが邪魔するから、先にセルリアンに怒っちゃった」
セーバルがぎこちなく笑う。まだきっと心のなかではかばんに対し怒っているのだろう。
いっそ一思いにその怒りをぶつけてくれたらどんなに楽だろう。彼女の優しすぎる気遣いが余計心に刺さる。
本気で心配させてしまった。
彼女に命を救われた。それも一度ならず二度までも。
こんな危険はこれまでだって何度も経験してきたはずだ。それなのに同じ過ちを繰り返してしまったことが悔しくて悔しくて、情けなくなる。
事実かばんは油断していた。
黒セルリアンの騒動の一件以来、すっかり鳴りを潜めてしまった彼らは、今日に至るまでその姿をかばんの前に現すことはなかった。かばんも旅の準備の忙しさに追われその存在を忘れかけていた。本当はそれが仮初めの平和であることも知りながら。今回のことはそういった気の緩みが招いた結果といっても過言ではない。
かばんは素直に「ごめんなさい……」と謝った。そしてすぐに「ありがとう」と続ける。
「次からは気をつけるね」
「気にしないで。――それに、お腹が空いてると、注意力が鈍っちゃうのは、セーバルもいっしょ」
セーバルのお腹がくぅ、と鳴った。恥ずかしそうにはにかむセーバルに少しだけ心が救われた。
この島に来てから彼女には助けられてばかりだ。彼女の役に立ちたいと思う反面、むしろ足を引っ張っていることの方が多いとすら思える。これではこの先いつまた彼女のお世話になるかわからない。
それではキョウシュウの時と一緒だと思った。サーバルに助けられていたあの頃の自分と。
それではダメなのだ。
――もっと強く。もっと強くならなければ。
そうでなければあの島を出た意味がない。みんなの助けを借りなくても、みんなを助けられる自分になりたい。大好きなみんなを、サーバルを守れる自分に――。
その時セーバルが急にかばんの顔を覗きこむようにして言った。
「かばん。あんまり一人で背負い込んじゃ、ダメだよ」
かばんが大きく目を見開く。「どうして……」という声がぽろっと洩れた。
「かばんが今考えてること、セーバルには何となくわかる。かばんは真面目で頑張り屋で、頭もいいから、ついついいろんなこと考えちゃうんだと思う。でもね、背負うものが大きくなればなるほど、その人の重荷も増える。重くて重くて、苦しくて、いざ助けを呼ぼうと思った時にはもう声も出せなくて……最後には潰れちゃう」
セーバルがそこまで言ってようやく一呼吸置く。そして「だから――」と続けた。
「もっと自分を大切にして?」
セーバルの顔を見つめたまま、かばんはまだその視線を逸らせずにいた。彼女の柔らかい声が、雁字搦めだったかばんの心にすっと入り込んでくる。視界の隅がぼんやり滲む。堪え切れずに涙が一粒、頬を伝った。
どうして彼女はこんなに強いのだろう。彼女の前で自分は嘘も隠し事も通用しない赤子同然であることをこの時かばんは悟った。セーバルには、敵わない。
一体何を学べば、何を経験すれば、何を背負えばこんなに強くなれるというのだろう。
彼女の優しい手が、かばんの額を包むように触れる。そして呟くように言った。
「――だってみんなを守るのは、セーバルの役目だから」
それは殆ど独り言のようだった。ともすればセーバル自身も言ったことを自覚していないような、しかし口調だけは妙に重く、まるで自分に言い聞かせているかのような言い方だった。
ふっと彼女の手が離れる。
「さぁ、気を取り直してラッキービーストを探そ? 早くしないと、日が暮れちゃう」
◇
結果的に言うとラッキービーストは見つからなかった。いや、そもそもこの島にはいなかった。
「え? セーバルちゃんもしかしてラッキーさん見たことないの?」という問いに、セーバルは当たり前のように「うん」と頷いた。
「じゃあセーバルちゃん、今までどうやって生活してきたの!?」
「どうやってって……自給自足?」
セーバルの発言に思わず絶句する。
かばんから見てセーバルの暮らしぶりは何不自由ないもののように見えた。だが実際はそう見えていただけで、陰では大変な苦労をしていたのだということに強く胸を打たれる。
しかし驚いたのはそれだけではなかった。どうもこの島には自分たち以外のフレンズはいないらしい。
ラッキービーストも存在せず、フレンズもいないこんな孤島でセーバルは一体何をしているのだろう。それもたった一人で。確かにフレンズによっては動物だった頃の習性から単独行動を好む者もいるという話は聞いたことがあるが、もし自分が同じ環境だったらと思うとちょっと耐えられそうにない。孤独は嫌だし、孤独は怖い。
かばんは頭を抱えた。ラッキービーストがいないとわかった今、残された道はただ一つ、食糧の現地調達しかない。しかし先程セーバルは自給自足と言った。つまり食糧の確保についてはさほど問題ではないのだ。つまりあとはその食糧をどうにかできる場所さえあればこの問題は解決する。
そしてかばんは今、セーバルの家の厨房に立っていた。
「いいこと思いついたって、何するつもりなの?」
「これからね、料理をしようと思うんだ」
「料理?」
セーバルが一瞬首を傾げる。しかし、すぐに「かばん、料理できるの!?」と目を輝かせながら訊いてきた。
「うん。――僕ね、あんまり得意なこととかないんだけど何故か料理だけはみんなから褒められてて、セーバルちゃんの自給自足っていう言葉を聞いてピンときたんだ」
彼女の家にはやはり十分な量の食材が揃っていた。じゃがいも、人参、玉ねぎ、それにお米――いつもなら十人分くらいは平気で作っているので少々感覚が麻痺しているが、二人分なら恐らくこの程度でも足りるだろう。
かばんがリュックの中から数本の小瓶を取り出す。セーバルが興味深そうに「それは?」と尋ねてきた。
「これは香辛料だよ。こっちが胡椒でこっちがカレー粉、あとは……」
一つずつ説明しながらまな板の横に並べていく。蓋をしていてもその刺激的な香りが鼻孔をくすぐる。
まさか博士が持たせてくれた香辛料がこんな形で役に立つとは思わなかった。
――その昔、ヒトがまだ海を旅していた頃、香辛料はお守りとして誰もが欠かさず持ち歩いていたそうなのです。なんでも、これを持っていればお金がなくても現地で高価なものと交換できたとか……。なのでお前もこれを持っていって一山当ててくるといいのですよ。
そう言って博士は出発の日、かばんにこの香辛料を託した。
博士の言っていたような使い方ではなくなってしまったが、本来の使い方であるこちらの方が香辛料も報われるだろう。
「これからカレーを作ろうと思うんだけどセーバルちゃん、カット役をお願いしてもいい?」
「わかった。セーバル、カットする!」
そう言ってセーバルが腕まくりをする仕草で意気込んだ。
ひょっとしたら彼女もサーバルのように爪で切るのだろうか。もしそうなら先程のような華麗な爪さばきがまた見られるかもしれないと一瞬期待したが、彼女はすぐに包丁を取り出すとさっさと作業に取り掛ってしまった。
しかし思いの外その包丁さばきが不器用で、見ているこちらがハラハラしてしまうほど危なっかしいものだったのは意外だった。「セーバルちゃん、猫の手だよ」と教えると、今度は包丁を握っていた方を猫の手にするなど彼女らしからぬ間違いを連発する。セーバルにも苦手なことがあるのだと思うと、途端に親近感が湧いてしまった。
「なんかかばん、いきいきしてる」
「えっそうかな?」
セーバルが切り分けてくれた玉ねぎを弱火で炒めながらかばんが顔を向ける。じっくりと玉ねぎの色が変わるまで炒めることでその後の出来具合に大きな差が出る、ということに気づいてからはこの工程を欠かさないようにしていた。
「うん。だからセーバルも、いきいきしちゃう」
セーバルにそのことを指摘されて少し
玉ねぎの甘い香りが厨房に広がる。そろそろ他の野菜も入れようかとまな板を見ると、セーバルはまだ人参を切っている途中だった。
それを見てかばんが思わず声を上げた。
「わっ凄い! 星の形だ!」
まな板で、大小様々な大きさの人参がオレンジ色に輝いていた。少し不格好ではあったが、それでもひと目で星だとわかる。時間がかかっていた理由をようやく理解した。
「かばん、星好きだって言ってたから。セーバルも、星好きだし。こんなのあったら、面白いかなって」
「ありがとう! とっても上手だね!」
「ほんと? じゃあセーバル、もっとがんばる」
そう言って最後の人参をおもむろに持ち上げると、また不慣れな手つきで包丁を滑らせていく。
その様子を黙って見守りながら、かばんは内心気が気でなかった。切ることに夢中になり過ぎて猫の手を忘れている、そう注意しようとした時、ざく、と勢い余った包丁がセーバルの指を貫いた。
「セーバルちゃん! 指!」
「え?」
そこでセーバルが初めて、しまった、といった表情を浮かべる。
恐る恐る自分の指を確認したセーバルは、しかしすぐに落ち着き払った様子で「大丈夫大丈夫」と手を見せてきた。左の人差し指の先が、ぱっくりと割れていた。
「全然大丈夫じゃないよ! とりあえず早く水で洗い流そう」
「でもこれくらい、何てことないよ?」
「いいから!」
かばんの強い語気に気圧されたのか、セーバルが大人しく従う。幸い見た目ほど傷は深くないらしく、血は出ていなかった。
急いでリュックから包帯を取り出しセーバルの指に巻いていく。その様子を黙って見つめていたセーバルが、そこでようやく口を開いた。
「かばんはいいお嫁さんになるね」
「えぇっ!? お、お嫁さん!?」
「うん。料理もできて、優しくて、セーバルがお嫁にもらいたいくらい」
思いがけないセーバルの発言にかばんの顔が一気に紅潮する。心臓がドキン、と明らかに一瞬前より大きく脈打った。それが照れからくるものなのか、恥ずかしさからくるものなのか、それともまた別の何かなのか、何もわからなくてもどかしくなる。
「も、もぉセーバルちゃん! それもセーバルジョーク?」
そう言い返すのがやっとだった。セーバルがからからと笑いながら「さぁ?」と間の抜けた返事をする。
その後もセーバルからは「ねぇあなた、こっちとこっちのお皿、どっちがいーい?」と茶化されたり、「これを入れたらインドゾウもビックリする極上マグマカレーになると思うんだけど、どう?」と大量の唐辛子を勧めてきたりと何かにつけてからかわれた。
お調子者のセーバルのペースにのせられながら完成したカレーはいつもより甘口だったが、それでも彼女からは「おいしい。かばん、超一流のシェフになれるよ」と太鼓判を押してもらった。
あたたかいカレーが口の中でとろける。セーバルの切った人参が、煮込んだせいでさっきよりもだいぶ小さく見えた。
「かばんと一緒にいたら、毎日、おいしいものが食べられる。しあわせ……」
「何かリクエストがあったら言ってね。――あ、でも火が使えないとあんまり大したものは作れないけど」
「じゃあ、このカセットコンロも持っていこう。あと電気が使えるなら、炊飯器とゲームと……」
そう言って指折り数えながらはしゃぐセーバルはまるで子どものようだった。食べ物からいきなりゲームの話に飛躍したかと思えば、今度は「次の目的地はどこ?」と訊いてきたり話題が二転三転する。それらすべてに「食べ終わってから二人でゆっくり考えようね」と答え、かばんは残りのカレーを口へ運んだ。
◇
それはほんとに、些細なことがきっかけだった。
セーバルから「今日は、かばんが日記を書く番だから、わたしがお風呂に入ってる間に書いといて」と言われ、その日記を探している時のことだった。
最初は机の上に置いてあるものだとばかり思っていたがどこにも見当たらない。そう言えば昨日彼女は本棚にしまっていたな、ということを思い出し壁際の本棚の一角に目をやると、日記は一番上の段にひっそりとしまわれてあった。
「やっと見つけた」
取り出した日記の埃を手で払いながら机へ持っていく。何故か、昨日はしなかった黴臭さが鼻をついた。
そして、ぱらり、と捲ったページを見てかばんは思わず息を呑んだ。
「え、これって……」
すぐに表紙を確認する。
そこに刻まれていたのは『セーバルの日記』という文字だけだった。
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