第六章 -4

 身を引いて入り口から一、二歩後ずさった。つばを飲み込み、リージャはそこへ向かって全力で走った。きゅう、と雛が後ろで鳴いたのが聞こえた。虚を突かれたらしい男の腹に向かって、リージャは思い切り体当たりした。檻の床に敷かれている湿った飼い葉よりも乾燥している藁を、リージャと雛が踏みつけると、さくさくとかすかな音がする。

 体当たりは石を投げつけるのよりも上手くいったようだった。バランスを崩し男が倒れ込む。

 檻から脱出したリージャは振り返って鉄格子ごしに子竜を見つめた。子竜はすでに立ち上がっていた。いつもの男たちの合図ではなく、リージャの視線を合図にして、歩き出した。その足取りはいつもより軽い気がした。

「くそ、この娘……っ」

 男が悪態をつきながら立ち上がろうとした。捕まる、と思ったリージャは、建物の出口に向かって駆け出す。小さな石造りの小屋には世話係の男一人とリージャ以外には誰もいないようだった。

 リージャに手を伸ばそうとした男がはたと動きを止めた。

 繋がれているために檻から出ることはないと思っていた子竜が扉から出てきたことに驚いているようだった。

「ひいっ」

 子竜は、馬よりも小さい。背丈は成人男性より少し低いほどである。しかし、未知の生物が自分をにらみつけたことに、恐怖を抱いたようだった。床に腰をついたまま、立ち上がれなくなったようだった。それを静かな視線で一瞥すると、子竜はリージャのそばに歩み寄った。

 子竜が、腰を落とす。しかし、それはこれまでのように、力つきて座り込んだわけではないのが、リージャにはわかった。この仕草を、以前にも見たことがある、と瞬時に思い返した。この子竜は、リージャよりもずっと賢いのだ、と突然にリージャは悟った。

 首にしがみつき、足を振り上げて、その背中に乗った。リージャの姿勢が安定すると同時に、子竜が立ち上がる。雛が、きゅう、きゅう、と小さく鳴くと同時に、子竜は駆けだした。

 建物の外は、やはり知らない景色だった。様々な服を着た男性が、様々な物を持って、あちこちを行き交いしている。人々はすぐに、リージャたちに気がついた。

「おい、あれ」

「竜が脱走しているぞ」

「まずいぞ、捕まえろ!」

 子竜はただまっすぐに走った。しっかりと首に捕まっていないと振り下ろされそうで、リージャは周辺をみる余裕はなかった。塀に囲まれた広い場所で、遠くの塀の向こうの、更に遠くに、背の高い建物が見えた気がした。いつも子竜たちを使役しにくるあの男二人の姿は見つけられなかった。

「やめろ、矢はだめだ、傷つけるな!」

「じゃあどうするんだ!」

 知らない男たちの声が周辺から聞こえる。子竜はただまっすぐに走っている。どこに向かっているのかわからなかった。子竜にだって、ここがどこでどこに行けば脱出できるのかなどわからないだろう。でたらめに走りながら場所を探しているのだ。皆が竜という生き物に畏れを持って近づけなかった。止まりさえしなければ、捕まりはしまい、とリージャは思った。だが、しばらくして、突然竜が走りを止めた。大きな足踏みを前後にしながら、激しく頭を振っている。

「くそ、おい、止まれ!」

「この娘、おちょくりやがって」

 聞き覚えのある声がした。長い棒の先に、輪がついたものを振りかざし、進行方向を塞いでいる。その隙に、リージャたちの周辺を他の男たちが取り囲んだ。

 男の持っている道具を、リージャは見たことがあった。馬丁たちが、暴れる馬を捕まえる時に使っていたものだ。

「観念しろ、さっさと檻に戻れ!」

 怒鳴りながら、輪をこちらに近づけてくる。

 あの輪が竜の体の一部に引っかかれば、おしまいだ、とリージャは思った。

 その瞬間だった。

「グ、オ、オ、」

 リージャがしがみついていた、子竜の喉が、突然激しく震えだした。わけもわからず、リージャは、自分の背筋がぞわりとするのを感じた。


 オオオオオ――……


 辺り一体に、地鳴りがするほどの激しい雄叫びが響いた。

 リージャの意識は、一瞬、日照りの続く生まれた島に帰る。

 何度も何度も、真夜中に、山から響いてきた、大人の竜の叫び声だった。

 ただ終わりのない苦痛と恥辱の日々を堪え忍ぶだけだった、幼い頃の記憶。だが、リージャは今、再び訪れようとしたそこから、脱出しようとあがいているのだった。

 男たちは突然の大きな雄叫びに、あっけにとられ、一部の者は半ば腰を抜かしているようだった。リージャは竜の背中から辺りを見回した。今、リージャの視線は一般的な成人男性よりもずっと高いところにあった。数十歩ほど走れば、門のようなものがあることに、気付いた。

 リージャは子竜の視界に入るように、それを指さした。雛が足下できゅう、と鳴く。

 子竜は再び駆け出した。迫力に畏れをなしたらしい男たちが自然と道を開けた。

 大きな門は開いていた。あれをくぐれば、ここから逃げたことになるだろうか、とリージャは考える。

 その門の前に、また誰かが立ちふさがった。

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