第五章 -5
「まず、あの大きい方の竜だ。あれを、立たせろ」
今度の要求を、リージャは理解することができた。それは、屋敷で馬丁たちがリージャに時折頼むことに通ずるものがあったからだ。だが、それに従うべきか否かが判断できなかった。
逡巡していると、頬に痛みが走った。
それは、三年ぶりに感じた、人間の意思によってもたらされた肉体の痛みだった。
「おい、いいのか」
「こいつ、わかっているのに、無視してやがる」
反射的に、リージャは首を振った。これ以上の痛みを味わいたくなかった。リージャの反応を見た男たちは、島の人間のように、満足げに鼻を鳴らしたり、なおさら不愉快そうに顔をゆがめたりはしなかった。ただ、鉄格子の扉を開け、リージャの背中を乱暴に押して、竜たちのいる部屋の中へ押し込めた。
彼らは憂さ晴らしや快楽のために加虐をしているのではない、とリージャは思った。
雛がリージャの足下に走ってきた。むせかえるような臭いが辺りに充満していた。どうしてなくなっていた臭気がぶり返したのか、疑問が頭の片隅に浮かんだが、それを考えても今置かれている現状に何の作用ももたらさないことを思って、リージャは頭を振った。
雛は走れるだけの体力が残っているようだが、子竜の方は、かつて、大陸に連れられて来たばかりの頃のように、力ない様子で横たえている。立たせろ、と言われたが、リージャはこれまで竜を使役したことがないことに、ふと気付いた。何らかの指示を出したことなどなかった。そもそもリージャは声を出すこともないし、命令を伝える術を持たない。リージャと竜がヴィートトクの屋敷内を「散歩」していたのは、リージャがそのようにし向けたのではなく、成り行きで、強いて言うのならばどちらかというと竜の自発的な意志でそういう習慣ができたと考えてもいいぐらいだった。
リージャは子竜のそばまで歩み寄った。気だるげに子竜が首をわずかに動かした。立ち上がる気配はない。屋敷にいたときなら、リージャが歩み寄るだけでもっと活動的な気配を見せ、立ち上がっただろう。どうしたらいいかわからず、しかし、何もせずに立ち尽くしていれば、また頬を張られる可能性があると思い、リージャはおそるおそる、子竜の首筋に触れてみた。
鱗に湿り気のようなものを感じた。最後に触れたとき、この背中に乗った時とは違う感触であるような気がした。心地の良い感覚ではなかった。竜が身をよじった。出来るなら、立って欲しい、とリージャは願った。さもなければ、この先、あの男たちに何をされるのかわからない。そう考えたと同時に、竜と目が会った。こんな、濁った瞳をしていただろうか、と一瞬、リージャは考えた。疑問に自分で答えを出すよりも先に、重そうな様子で、子竜が立ち上がった。
「おお」
檻の外で、二人の男が声を上げた。当たり前のように命令をしておきながら、心底驚いている様子だった。
「やはり、この娘の言うことなら聞くということなのか?」
「何にせよ、使えそうだぞ」
「おい、そのまま、檻の外まで歩かせろ」
戸惑いながらもう一度子竜の目を覗き込む。相変わらず、この生き物が何を考えているのか、何かを考えているのか、リージャにはわからない。ただ、かつてリージャが知っていた頃とは何かが違うような、わずかな違和感があった。リージャは子竜の目を見つめたまま、数歩、檻の出口に向かって後ずさってみた。鈍い反応を示し、子竜が小股で、数歩歩いた。だが、リージャがそのまま出口まで導く前に、その場に座り込んだ。
「やはりだめか」
「だが少し歩いたぞ」
指示通り檻の外に連れ出すことはできなかったが、男たちは多少の満足をしたようだった。とりあえず、打たれることはない、とリージャがわずかに安心した瞬間、背後で、鈍く耳障りな金属の衝撃音が響いた。
驚いてリージャが振り返ると、扉が閉まっていた。
困惑しながらリージャは思わず、鉄格子ごしに男たちの顔を見上げた。
「いいか、これからお前は、竜たちに俺たちの言うことを聞かせるんだ」
言い聞かせるように、男の一人がリージャに向かって言った。わけがわからないまま、リージャは瞬きをした。唯一理解できているのは、竜たちと同じ檻に、閉じこめられているという状況だけだった。硬直するリージャの様子に構うことなく、男はまくし立てるように続けた。
「陛下の即位式典までに、俺たちの言うことを聞くようにし向けるんだ。でかいのは立とうともしないし、チビは勝手に動き回る――大がかりな芸をさせようってわけじゃない。ただお披露目のときに多少かっこつけて歩かせるだけで良い。わかったか?」
理解不能な言葉がただ羅列され、リージャはますます体を強ばらせた。何かを要求されているらしいが、それが何なのかさっぱりわからなかった。
「おい、わかったのか?」
鉄格子が蹴られ、鈍く重い音が石造りの建物の中に響いた。思わず身をすくめ、それから、リージャは慌てて、首を縦に振った。
「うまく行かなかったら、命はないと思っておくんだな」
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