第五章 -4

 目が覚めたとき、リージャの頭の中はどこかぼんやりとしていた。はっきりとしない意識の中で、もう何年も前に捨ててきた島の記憶がかき回された水の中の泥のように浮かび、沈んだ。

 横たわっている、ひんやりとした地面のせいだ。かつて、リージャはこのような固く冷たい場所で寝ては夜を過ごした。その記憶と混乱しているのだ。だがここが生まれ育った南の島ではないということは、深く息を吸った瞬間にはっきりとした。湿気の少ない空気が鼻腔を刺激した。リージャは、イルヴィルに連れられてきた、途方もなく大きな国のどこかにいるのだった。

 傾いだ視界に映る何もかもが見知らぬものだった。薄暗い、石造りの小さな部屋だ。扉の代わりに、鉄格子のようなものがあった。鉄格子の先は部屋と同じような石造りの壁に囲まれた廊下のようだった。そちらには窓があるようで、そこから漏れてきた光の様子で、今は昼日中であることが推測できた。

 視界の範囲には誰もいない。物音も、木々のそよめきや鳥の鳴き声もしない。どこか重い空気のように感じられた。

 リージャは身じろぎ一つせずに、息を詰めて辺りの様子を伺った。不意によみがえった島での記憶がリージャにそうさせた。何がきっかけでリージャへの悪意が爆発し形になるのかわからなかった、遠い昔の張りつめた生活の記憶だった。

 だが、急に人の気配が現れ、それに対して完全な無反応でいることは難しかった。物音にわずかに肩を震わせてしまったリージャに、出現者はめざとく気付いた。

「おい、目が覚めたようだぞ」

 声が聞こえた。石造りの、ろくに物の置いていない建物の中でよく響いた。男の声だった。それ以上は何も推し量れない。

 鉄格子の向こう側に、こぎれいなブーツが二足、現れた。ヴィートトク邸で使用人たちが作業中に履いているもの比べると、ほとんど汚れはなかった。横たえ身を固くしているリージャの視界には男たちの上半身は映らない。リージャは尚も体を動かさぬ努力を続けた。

「おい、起きろ」

 今度の声は確実にリージャに向けられているのがわかった。リージャは動かなかった。先ほどまでのように意図して体を固めたのではなく、この場でどうするのがもっとも適切か、瞬時に判断ができなかったのだ。逡巡している間にうるさい物音が響きだした。足音に、金属と金属がぶつかり合う激しい音だ。残響は威圧感を伴った。鉄格子の扉が開かれたということが、視界の中で近づいてくるブーツでわかった。

「起きろ。聞こえないのか?」

「耳は聞こえてるって聞いてるぞ」

「じゃあなんで起きないんだ」

「知らねえよ」

 二人の男が会話をしている。その内容が示すものを理解する前に、リージャの腕に何かが触れた。触れられた腕と肩に、強い痛みが走った。

「お、き、ろ!」

 観念して、リージャは抵抗せずに体を起こした。おそるおそる、顔を上げる。見たことのない、イルヴィルと同じぐらいの年代と思われる男たちが、リージャを見下ろしていた。

「立て。立、て」

 黙って従う。立ち上がる時に、自分の体を見下ろした。意識を失う前に着用していた、夜着のままだった。日の射さない石造りの部屋の冷えた

 空気が、足下に入り込んで身震いしそうになった。意識を失ってから幾月も経過していないのであれば、ヴィートトク邸にいたときと変わらず、季節は初夏であるはずだった。島の夏とは違う、少し肌寒い夏。

 捕まれたままの腕が、荒々しく引かれた。歩け、という意味だと瞬時に理解できた。抵抗するのは得策ではないと判断し、注意深く、歩き出す。同じぐらいの年に見える、肌の白い男二人の区別が、リージャにはつかなかった。一人が先頭を歩き、もう一人がリージャの腕を掴み監視しているようだった。

 鉄格子の扉をくぐり抜け、石造りの廊下を歩いた。目を覚ました部屋の中よりも外の光が入り込み、眩しくて目を細めた。建物は意外に小さいようで、少し歩くとすぐに屋外に出た。石造りの建物が密集している広間だった。見たこともない建物しかなかった。成人男性が何人か行き交いしていた。皆、リージャを引っ立てている男たちと似たような服装をして、無言で歩いていた。一つの建物の中に入った。

 その瞬間、リージャの意識は、ぐらりと揺らぐように衝撃を受けた。暗い建物の中に急に入り視界が安定しないうちに、再びここが南の島なのではないかと錯覚しそうになった。ふらついたリージャを、隣の男が乱暴に揺らして、立たせようとした。

 それからすぐに、リージャは自分がおかしな錯覚をした原因を見つけた。

 臭いだった。

 長い間嗅いでいなかった、生臭い、悪しき臭いだ。

 リージャが先ほどまでいたのと同じような、石造りの壁と鉄格子に囲まれた小さな小部屋に、あるはずのないものが、いた。

 リージャが軽く息を飲むと同時に、床に横たえていた雛竜が顔を上げた。鱗と石がこすれる音が部屋に響いた。小さな目がリージャの姿を捉えるなり、勢いよく立ち上がって駆けだした。鉄格子から首だけが飛びだした。緩慢な動きで、子竜も顔を上げた。その首に縄が掛けられているのにリージャは気付いた。男が唐突に、掴んでいたリージャの腕を解放した。

「こいつに懐いてるというのは本当みたいだな」

 先頭を歩いていた方の男が、もう一人の男に向かって言った。

 小さく雛竜が鳴く。わずかにかすれているように聞こえた。

「おい」

 腕をもう一度捕まれ、リージャはおそるおそるそちらに顔を向けた。

「こいつらに、言うことを聞かせろ。しつけるんだ」

 そう言う男の表情に、ヴィートトクで共に過ごしてきた屋敷の男たちのような、親しみの込められたような形は見られなかった。かと言って、島の人間たちのような、強烈な憎悪や嫌悪のような形も見あたらなかった。そこから何かを読みとろうとして、リージャは数秒思いを巡らせたが、この男たちが何者で、何故自分がこんなことになっているのかをはかり知ることができなかった。何も答えないリージャに、わずかに苛立ったような声音で、男が言い直した。

「竜を、お前が、しつけるんだ、わかったか?」

 リージャはおそるおそる、タマラに教わった意思表示の形の一つを示した。大陸語の「しつける」という語彙がリージャの中には存在しなかった。意味も、男がリージャに要求していることが何なのかということも、理解ができなかったのだ。首を傾げると、大仰に男がため息をつき、もう一人の男に顔を向けた。

「こいつ、言葉がわからないのか?」

「そうではないと聞いているが……」

 二人の会話を聞き取り、リージャの中に一つの考えが浮かんだ。初めてこの男たちの交わした言葉を耳にしたときから、抱いていた違和感の正体だった。

 男たちは、リージャが言葉を聞き取り、理解ができるはずだと、予め誰かから情報を得ている。その上で、何かをリージャに要求している。リージャは屋敷の住人以外で、大陸の肌の白い人々に知人などいないはずだ。彼らは屋敷の誰かからリージャの情報を得たのではないだろうか。

「いいか」

 考えに耽りかけたリージャを、男の声が呼び戻した。先ほどよりも心なしかゆっくりと、含ませるような言い方に聞こえなくもなかったが、それからは、屋敷で、特にタマラやアンドゥールがするような、リージャの理解を促すための根気の良さや気遣いのようなものは一切感じられなかった。

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