第五章 -3

 ヴィートトク邸はリージャにもわかるほどの緊迫感に包まれていた。

 竜はイルヴィルが管理していたとは言え、国王の命で開発した南の島から持ち帰ったものであり、近い都での式典でのお披露目も予定されていたのだ。それが、突然いなくなってしまったとなれば、イルヴィルの咎とされることは避けられないだろう。

 ケスリーが小屋番の朝、竜が忽然と姿を消しているのを発見した。すっかり目立つ体臭もしなくなっていたために、ついさきほどまで小屋にいたのか、それともずっと前からいなくなっていたのか、推測が難しかった。

 そして、竜と同時に、ザルフが屋敷から姿を消していた。アンドゥールの話では、実家の親族が倒れたために急にその日の朝になって休暇を申請したということだったが、妙なタイミングに、使用人たちは動揺していた。

「以前から、竜を狙う内通者がいた可能性を、リージャさんにはお伝えしていたと思いますが――ザルフさんの様子で、何か変わったことはありませんでしたか?」

 人目に付かぬように連れられたアンドゥールの寝室でそう尋ねられ、リージャは逡巡した。様子はおかしいと、ここ最近思っていたのは、事実だった。しかし、それを伝えることは、アンドゥールがずっと探していた、イルヴィルを陥れる「内通者」がザルフその人である可能性を示唆することになることを、リージャはわかっていた。頷くことには抵抗があった。だが否定もできなかったことを、アンドゥールは見逃さなかった。

「何か、気付いたことが、ありましたね?」

 観念し、リージャは頷く。

「では、何か、様子がおかしかったとして――それを、旦那さまにお伝えすれば、旦那さまはなにか思い当たることがおありだと思いますか?」

 この質問にも、リージャは、即座には首を縦にも横にも振りかねた。ザルフが様子がおかしいことが、イルヴィルに原因があるのではないかとリージャは確かに一度考えていたし、それには竜も無関係ではなかった。この段になって初めて、リージャ自身の中に、ザルフが竜の行方不明に関係があるのではないかという考えが浮かんで来たことを自覚した。

 今度は、アンドゥールは何も言わず、リージャがなにがしかの反応を示すのを辛抱強く待っていた。

 まっすぐに自分を見つめる老人の目を見つめ返し、リージャはおずおずと頷いた。

「わかりました、それでは、旦那さまには早馬で、事実だけをお伝えします。急務は、犯人探しではなく、竜の行方を把握することですから」

 リージャは再び頷いた。リージャにできることなど何もなかった。ただ、屋敷に以前のような平穏が戻ってほしいと、それだけを願っていた。



 竜と、ザルフの行方の捜索は、連絡の行ったヴィートトクの本家が責任を持ってすることになった。それから数日と経たぬうちに本家の使用人が二人、イルヴィルの邸宅にやって来、竜小屋やその他から手がかりを集め始めた。これまでにも客人が連れてきた使用人を見たことはあったが、本家で働いているという使用人は、まして、片田舎のイルヴィル邸の使用人の不始末を監督しに来た立場にある者の態度は、リージャにはこれまでになく威圧感を覚えた。不穏な空気が使用人の棟を支配しているように感じ、リージャは落ち着かない気分でいた。

 これまで静かだったはずの場所を踏み荒らす人々を見ながらリージャは、アンドゥールの部屋で願った「平穏」について思いを馳せた。自分は一体何を望んでいるのだろうかと考える。竜が戻ってくることだろうか。ザルフがイルヴィルを裏切っていないという事実だろうか。自分は彼らにそこまで執着していたのだろうか。暗がりを見つめながら自分自身に問うてみたが、答えが出なかった。仮に、竜も、ザルフも、この屋敷に戻ってこないとしても、それほどに衝撃や悲しみを覚えるような気もしなかった。その一方で、それらを自ら離れたいと強く願ったことも一度もないことに気付いた。彼らは日常だった。この三年間の、リージャの生活の一部だった。そしてその生活は、南の島にいた十年以上の月日と違って、リージャにとって、苦痛なものでは決してなかった。そこから何かが永遠に欠け落ちることを想像すると、無性に、リージャの中で不安感が膨れ上がった。

 日が落ち、本家から来た使用人も含め、屋敷のすべての人間が寝静まった頃、リージャは眠れないまま何度も寝返りを打ち、ついに、耐え難くなってベッドを抜け出した。

 新月の夜だった。窓の外はかすかな風の音だけが時折、耳を澄ますと聞こえた。いつかのように、母屋でイルヴィルの持つ明かりがちらつくようなこともなかった。ただの、一様な闇だった。

 それに目が慣れるのを十分に待ってから、リージャはタマラを起こさぬように細心の注意を払って、部屋を抜け、建物を抜け出した。夏は近づいてきていたが、まだ夜になると肌寒い。

 竜小屋はもう、石炭で暖めることもなくなっていた。竜はいないからだ。物音もしなければ臭いもしない。イルヴィルに咎められて以来初めてやってきたそこにはがらんどうだった。藁は竜がいたときのように敷いたままだが、妙に広くひんやりした空気が漂っていた。

 かつて子竜や雛竜がよく横たえていた場所に、そっと、歩み寄ってみた。ただでさえ暗い夜闇の中、小屋の中に入ると、余計に何も見えなかった。

 そのときだった。

 かさり、と、自分以外の何者かが、藁を踏みしめる音がした。

 周囲に人間がいる気配を直前までに感じていなかったリージャは、驚きで思わず振り返ろうとした。


 そして、その瞬間、


 リージャの意識は不意に途切れた。

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