第五章

第五章 -1

 冬の身を切るような寒さがようやく気配を消し去ったように感じ始めた頃、イルヴィルが再び屋敷を発った。

「今度は旦那さまはすぐにお帰りだよ」

 からかうようにタマラはそう言った。言われたリージャは曖昧に頷いた。

 庭で竜と関わりを断つようきつく言われて以来、イルヴィルとは接触していなかった。いなくなったのは唐突であるように思えたし、いなくなっても日常に大きな差異が生じていないようにも思えた。イルヴィルが発つ少し前に、長く滞在していたヴォルブも屋敷を去り、夕食時に使用人たちは一堂に会してゆっくりできるようになった。リージャが感じられた変化と言えばそれぐらいだった。

「旦那さまは南の島ではなく、都にご滞在なのですよ」

 タマラに重ねるようにして、アンドゥールがリージャに説明した。

 アンドゥールの怪我はすっかり癒え、顔色も良くなっているが、以前よりよく疲れて休むようになっている。

「国王陛下が、即位されて今年の春で十年になるのです。その式典に、ご出席されるのですよ」

 意味がよくわからなかったが、リージャは頷いた。イルヴィルは、南の島よりは比較的ここから近いところで仕事をしているのだということだけが辛うじて把握できた。

 国王というのが国の偉い人であり、その人を祝うためこの近くの村でもそのうち小さな祭があるだろう、というのは、それと別の日にフュラスから説明されたことだった。

「今の国王陛下の御代になってから、政情も安定して、国は豊かになったんだよ。偉大なお方で、みんながお慕いしているんだ」

 リージャはふと、自分の、母系の祖父であるはずの男を思い出した。島の長であると島の人々に呼ばれていたが、しかし、何の力も持っていなかった男。統治者とその地の豊かさに相関性があるということが、リージャにはよくわからなかった。わかるのは、フュラスが国王と呼ばれる者を慕っているらしいことと、この地からは離れた場所にいる、リージャの見たことのない人を、離れた場所にいる人々も祝うということだった。それは、島の神事的な呪(まじな)いに似ているような気もした。

「祭が始まったら、リージャも一緒に行くかい? リージャはここに来てから一度も、屋敷の外に出たことないんだろう」

 フュラスにそう言われ、リージャは心許なくなって視線をさまよわせた。

 リージャが住み込んでいるヴィートトク家の敷地はとてつもなく広かった。庭を囲む塀が遠くにあり、リージャはアンドゥールが倒れていたあの日以外にそこまで近づいて行ったことはない。その周囲を鬱蒼とした森が囲んでおり、そこもヴィートトクの敷地だという。屋敷を出てその森を抜けたのはヴォルブに連れられて馬車に乗ったあの日だけだ。

「そりゃあいいな!」

 丁度そこへ使用人の食堂にやってきたケスリーが、フュラスの言葉を聞き留めて声をかけてきた。

「たまにはリージャも息抜きをしないとな! 俺も祭は久々だから楽しみだぜ」

「そうだね、季節の祭以外では五年ぶりだ。それに今回は、王太子の正式発表もあるから、派手に騒げるかもしれないよ」

「王太子?」

 ケスリーが聞き返した。リージャも、聞き慣れない言葉に反射的にわずかに首を傾ける。

「若い王家の方々に正式な役職が与えられるんだよ。まあ、次に王位を次ぐのは第一王子のユイリスさまなのは間違いないわけだけど……注目されているのは第二王子のヒュアリウスさまと第三王子のリヴォルバーンさまのお立場だね。お二人はお年もあまり変わらないから、今回の式典でどちらがより優位に立つか……」

「なんだかお上の方々は面倒くさいことになってんだなあ。それって、俺たちの生活には何か関係するのか?」

「多少はあるはずだよ。ヴィートトクの家は、お母君が商家の出身である第三王子のリヴォルバーンさまとより近しいから、リヴォルバーンさまが宮中で力を持ってくださることを願っているんじゃないかな。第二王子のヒュアリウスさまはお母君も王家の遠戚で高貴な身分でいらっしゃるから、都での支持層はより厚いと言われているけど……」

「へえ、詳しいんだなあ、フュラス」

「僕はここに来る前、都の貴族の家で奉公していたからね」

「ああ、そうだったな」

 また新たなフュラスの一面を知り、リージャは驚いていた。この屋敷で世界は終わっているわけではない。都の屋敷で働いていると、遠くの世界の人々の力関係や駆け引きの情報が手に入るというのも、リージャの想像も及ばないことだった。フュラスのどことなく落ち着いた雰囲気や知的な物言いはそのときに身についたものなのだろうか、とリージャは思いを巡らせる。

 そのとき、扉を開けて、ザルフが部屋に入ってきた。歓談に夢中になっている二人はちらりと目をやっただけで、特に注意は向けない。リージャは何も言わずに自分たちからは離れた位置の椅子を引きテーブルにつく男をそっと見つめた。

 口数が少なく余計なことを言わないのは元々の気性だ。しかし、リージャはどことなく違和感を覚えた。宙を見つめ、こちらに一度も視線を向けない。何にも興味を示していないような顔つきだった。

 最近、ザルフはいつもこんな有様であるような気が、リージャはしている。それは、彼以上に言葉を徹底して発せず、常に言葉のやりとりでは「受け手」の立場にしかいないリージャしか気づけていない、非常に些細な変化であるようだった。誰もまだ、それを本人に対して、あるいは本人のいない場所で、指摘してはいない。

 いつからそうなったのか、リージャは思い起こそうとするが、はっきりとはわからなかった。ただ、それは、リージャ自身もまた気分が沈んだ、あの、イルヴィルを怒らせた日の辺りからであるような気がしている。あの日、イルヴィルはザルフにも叱責した。それが原因だろうか、とリージャは考える。否、と自分に言い聞かせた。イルヴィルと、この屋敷が世界のすべてである存在は、自分だけなのだ。今し方、フュラスたちとの会話でそれを実感したばかりではなかったか。

 しかしザルフの様子が何かこれまでとは違う気がするのは、確かだった。

 翌日、裏庭の井戸へ水を汲みに行ったリージャは、ふと思い立って竜小屋のそばまで歩いた。丁度、ザルフが掃除を終えている頃であるはずだった。物陰からそっと小屋を覗くと、ザルフが丁度、藁の履き替えを終えて、竜を小屋に戻しているところだった。

 イルヴィルに禁じられている竜との接触を、リージャは避けたかった。物陰でじっとして、竜の姿が消えるのを待っていた。ザルフは何か小さな声で竜を促したようだった。地べたに寝そべって休んでいた二頭は、緩慢な動きで立ち上がり、自らの意志で小屋に入っていった。

 竜たちが特別この屋敷の人間の手を煩わせたことは少なかったが、ザルフと彼らの間の距離はどことなく縮んだように、リージャには見えた。ザルフは未知のものに対する恐怖や緊張が弛み、馴染みの動物であるかのように接している。あの、イルヴィルに叱責された日に、リージャに言っていた通り、竜に対する感情に変化があったのかもしれない。二頭の方も、リージャに対するほどではないが、どことなく懐きかけているような印象を受けた。小屋の扉が閉められ、掃除道具を手にしたザルフが歩き出した。リージャは木陰から一歩踏み出して、それを見つめた。ザルフはリージャの視線には気付かず、歩き去っていく。数秒思いを巡らせてから、リージャは、自分から働きかけなくても、ザルフの方からリージャに見つけてくれることを待っていた自分に気付いた。その気付きに、愕然とした。

 いつの間に、自分は、自分の望む展開のために誰かの働きかけを当然のように待つような人間になったのだろう。島では、そんなことは絶対にあり得なかった。

 リージャは、ザルフが自分の姿を見つけられなかったのは当然なのだと、自分に言い聞かせようとした。その一方で、頭のどこかで、これまでのザルフなら、気付いて一声かけてくれたはずなのではないか、という考えが浮かんだ。理屈ではなく、これまでの関わりから、いつものザルフならそうであるはずだ、と確信めいた思いが湧いてくるのだった。その考えを打ち消すことが、リージャにはできなかった。この頃のザルフは、どこかがおかしいのではないかという違和感はいっそう強くなった。小さくなっていく背中を見ながら、しかし、だからと言って何をしたいわけでも、何ができるわけでもない自分を持て余すのだった。

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