ヴォルブ -2

 弱々しく袖を引かれて、ヴォルブは物思いから我に返った。気付けば自分がいるのは蝋燭の灯りでほのかに明るいイルヴィルの書斎ではなく、月明かりのみに照らされた暗いヴィートトク邸の庭だった。

「よぉ、今日は夜更かしだな、リージャ」

 軽くそう言うと、リージャはほんの少しのためらいの後、小さく頷いた。以前にここで会ったときは朝が近い時間帯で、その時は早起きだと揶揄したが、強ばった顔で棒立ちになっているだけだった。言葉を話さず、話しかけても反応が乏しいこの少女は、初めイルヴィルの言うとおり、言葉そのものを理解していないのだと思っていたが、こうしてみると、緊張していただけなのだと、ヴォルブにはわかった。

「竜の様子を見にきたのか」

 そう問うと、リージャは今度は激しく、首を横に振った。意外な反応にヴォルブは思わず片眉を上げる。それから、リージャは不安げに辺りを見回した。その様子を見ながら、つい先ほどアンドゥールから又聞きした、昼下がりに庭で起きたことの顛末を、ヴォルブは思い出した。

「……イルヴィルは、いねえよ。もう部屋で寝てるはずだ」

 その言葉に、弾かれたように少女が顔を上げる。茶の細い毛がふわりと舞って、月明かりにわずかにきらめいた。真っ直ぐにヴォルブを見つめる目は未だ不安げに揺れている。

「話は聞いたぞ。竜に近寄付くなと言われたんだってな」

 ためらいがちに頷くリージャに、ヴォルブは小さくため息をつく。

「まあ、なんつーか……あいつは、心配してるだけだ。お前が竜の仕事に関わることで、危険な目に遭わせることになるんじゃないかってな。アンドゥールもあんなことになっちまっただろ」

 リージャの表情は曇ったままだった。それからわずかな沈黙が訪れた。風もなく、深夜の庭は耳が痛くなるほど静かだ。それを、突然、聞き慣れない音が壊した。

「ぅ、う、」

 かすれるような、震える声に、ヴォルブは目を見開く。話したくないと泣き出したリージャが、ここで突然何かを言い出すとは思わなかった。

「ぅ、ぃ、イぅ、イルヴィ、ゥ、おこ、た、怒った」

 その言葉に、ヴォルブは内心首を傾げる。イルヴィルが怒りを露わにするところを、これまでにあまり見たことがなかった。ヴォルブの軽口に不機嫌になることは珍しくはないが、リージャに対して腹を立てることがあるようには思えない。

 ヴォルブの何も言わない数瞬の沈黙の後に、リージャはもう一度口を開いた。

「イル、ヴィル、おこ、た」

「うーん、多分それは少なくともお前に怒ったわけではないと思うぞ」

「う、ぅ、」

 小さなうめき声のようなものと共に、リージャは再び激しく首を振る。それきり何も言葉にならないらしく、ヴォルブから目をそらすようにうつむいて沈黙した。思う何かがあるのに、適切な言葉がわからないのかもしれない。以前に、イルヴィルには自分が喋れることを言わないでくれと懇願したときも、自分の気持ちを話すのが特に苦手であるかのような印象を受けた。

 リージャが「きたない」と表現して泣いたこの声を、初めて聞いたときにヴォルブは特に何も思わなかったのだが、どうもそれには島でのリージャの不幸な過去が関わっているらしいと気付いてから、なんとも名状し難い複雑な気分になった。おそらくは自分の想像を絶する経験を、この少女はしているのだろう。

「怒ったイルヴィルが怖かったのか?」

 膝を折り、目線をリージャに合わせてから、ヴォルブはそう訪ねた。その言葉にはっとしたようにリージャが顔を上げたが、それ以外の反応はなかった。言葉も仕草もなく、ただ不安げな目線が宙をさまよっている。それが問いに対する否の答えなのか、それとも、イルヴィルを怖いと言うことにためらいがあるからなのか、ヴォルブには判断がつかなかった。

「あいつも色々あるんだよ。時々虫の居所が悪くなったりよ。お前のことが嫌いになったわけじゃない」

 ヴォルブの言葉はしっかりと聞いているようだが、やはりリージャの反応は乏しかった。数秒思いを巡らせた後、ヴォルブはそっと、リージャの肩に手をかけた。この少女の体に触れるのはこれが初めてではないが、毎度、その細すぎる触り心地に驚いてしまう。島生まれの肌の黒い人々は大陸の人間に比べておおむね線の細い人種であるようだが、それにしてもやはりリージャは痩せすぎに思えた。

「なあ、リージャ。お前は、イルヴィルのこと、好きか?」

 瞳がわずかに揺れる。それに加えてなにがしかの反応が返ってくるのをヴォルブは数秒待ってみたが、少なくとも、ヴォルブがリージャの胸中を推測する手がかりになりそうな何かは、一向に表れなかった。

 こんな姿とばかり接していれば、リージャが、イルヴィルを特別に慕っていると断言するのも不安になるかもしれない。だが、ヴォルブは知っている。かつて、この木の根本に、少女が必死に石を並べていた姿を。ただ本能で親の後を歩いているだけの鳥が、あんな風に知恵を使って数をかぞえたりするものだろうか。

「イルヴィルのことを、信じて、これからもずっと慕っててほしい、リージャ」

 その言葉に、わずかにリージャが首を傾げた。自分でも唐突な事を言い出した自覚はある。ヴォルブはそれに答えるように頷く。

「イルヴィルにはきっと、助けが必要だ。そしてきっと、それができるのはお前しかいないんだ」

 薄暗がりの中で、異国の少女の瞳が何も言わずに揺れているその光景を、しばらくヴォルブは忘れられなかった。

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