幕間

ヴォルブ -1

 下弦の月が昇っていた。

 小さな足音が近づいてくることに気付き、ヴォルブはゆっくりと振り返った。暗がりの中で、幼い少女の影が浮かび上がる。背中を預けていた杉の木の幹からゆっくりと離れた。

 気弱な目がヴォルブを真っ直ぐに見つめていた。前にもこんなことがあった、とぼんやりと考える。ヴィートトク邸の庭で、深夜に物思いに耽っていたら、こうしてリージャがやってきて、そしてヴォルブの姿に驚きあからさまに怯えて顔を強張らせていた。そのときに比べ随分と警戒心の抜けた様子に、思わず口元が緩む。そして、口元が緩んでしまった自分に気付き、戸惑った。馬鹿げていると一度は笑い飛ばしたタマラの憂慮が、あながち見当違いでもないような気がしてきた。

 リージャは十四ほどの娘だというが、正確な年齢はわからないという。竜の島の文化や習性のためではなく、彼女の不幸な出生と生い立ちのせいで、詳細が不明なのだ。そしてその苛烈な生い立ちのせいなのか、彼女の見た目は大陸の一般的な十四歳の少女に比べて随分と幼く見えた。まだほんの子供だ、というのが、初めてリージャを目にしたときの印象だった。イルヴィルが、戯れに連れてきた、身よりのない哀れな子供だと。

 白い月の光が少女の横顔を照らしていた。浅黒く滑らかな肌に覆われた、あまり女性的ではない肉の薄い頬骨に、反射的に手を伸ばしそうになって、押しとどめた。それは、ヴォルブがこれまでに見てきたどんな女とも違った。

 大陸の価値観で美女と評されるべき女の顔は、立場上ごまんと見てきた。この娘は、そのどれとも一線を画している。しかし、あと数年すれば必ず、多くの男を惹きつけるようなるだろう。

 王都で見かけるような奴隷ともどこか違う、大陸で生まれ育ったヴォルブと同じ人種の者ともまた違うエキゾチックな顔立ちに、独特の影が落ちる。子供らしい無邪気さは一切ないのに、大人のような自立する力も芯の強さもなく、ただただか弱く儚い。

「あたしはね、あの娘に幸せになってほしいんですよ」

 この屋敷に長く勤める中年女性は、時折身分の枠を越えた物言いを平然とする。賢く、優しく、その分気の強い女だ。付き合いの長い分、時折ヴォルブと言葉を交わす機会がないわけではなく、その度にヴォルブはこの女性の性根の素直な部分を好ましく思ってきたものだったが、この時ばかりは苦笑せざるを得なかった。

「女の幸せは人それぞれですよ。ヴォルブさまのような裕福な商人にめとられて安定した生活を望む女も多いでしょうよ。それでもね、それはあの娘自身がそれを望んだ時にだけ、そうなってほしいんですよ。あの子は賢いし、これからもっと賢くなるんです。辛いことがあった分、自由になってほしいんです」

「誤解だぞタマラ、俺だってお前と同じように思って、」

「あの子は今に美しくなるし、そのせいで、そうなることが悪いんじゃないんですよ」

 田舎の小さな貴族屋敷に勤めてきた家政婦長は、ヴォルブよりずっと狭い世界の女に思えるが、しかし、ヴォルブと違う世界を生き、ヴォルブには見えないものが見えるのかもしれなかった。果たしてこのようにか弱く危うい女の影を見たときに、自分の中に湧き出た感情が、純粋にタマラと同じく、哀れな子供の真の幸福のみを願っているものなのか、今この瞬間、ヴォルブは自信が持てなかった。

 そしてそのタマラの憂慮は、イルヴィルにも向けられているのだった。

「まあ、確かによ」

 イルヴィルが屋敷に戻ってきたばかりの頃、彼の書斎で果実酒を傾けながら、ヴォルブは軽く笑った。

「その心配については、わからないわけでもねえわな。社交界では美丈夫として名高いヴィートトク家の御曹司が、この歳になるまで浮いた話の一つもない、それが突然赴任先の未開の島から年端の行かねぇ女を連れてきたなんて、あらぬ噂の火種だ」

「実際にそんな噂はもう立っているんだろう」

 気のない様子でそう良いながら、イルヴィルは足を組んで小さくため息をついた。春が近づいてきているが、夜はどこか肌寒い。

 幼い頃から見続けてきた、陶器のような白く美しかったイルヴィルの肌は、南の島から帰ってきた今、心のなしかほんの少し色を濃くしている。切れ長の目元は涼やかで静かな湖畔のようだった。ヴォルブはその横顔を、黙ってじっと見つめる。

 イルヴィルに初めて出会った時のことを、ヴォルブはまるで昨日のことのように鮮明に覚えている。彼は十四にして既に老若男女問わず多くの人の目を惹くような美しい男で、同じ歳の、好奇心旺盛な少年であったヴォルブは、イルヴィルのその顔の造形の美しさと、それを際だたせる歳不相応な物憂げな雰囲気に興味を持って近づいた。立場上イルヴィルはそれを拒むことなど出来なかったろう。そうして、ヴォルブはつきまとううちに、その少年が意図して他人を寄せ付けずにいることに、そのようにして自分を守らなければいけない秘密を抱えていることに、気付いた。そしてまだ幼かったヴォルブは、それに気付いたことをイルヴィルに悟らせてしまったのだった。言葉もなく、怯えた目はふるえて潤み、顔面は蒼白になったイルヴィルの姿を見て、ヴォルブは人生で初めて、美しいものに心が震え、そしてそれに触れてしまった事を激しく後悔したのだった。この世でもっとも美しいものは、脆く、それ故に秘められているべきなのだと。

 今でもあの時のイルヴィルの姿と、そのときに自分のうちにわき上がった感情をはっきりと思い出すことができるのに、眼前にいる男とそれが全く重ならなかった。あんなに繊細だった少年は今、社交界で悪意を向けられあらぬ中傷を受けていると知っても、ふてぶてしく無表情を保っている。この男がこうなるまでに様々な試練があったことだろう。それをヴォルブは眼前でただ見ていたこともあったし、ヴォルブの預かり知らないところで起こっていたこともあった。気付けば、あの頃のようにイルヴィルがその繊細さを表に出すことは全くと言って良いほどなくなった。彼は、逞しい男になったのだと、ヴォルブは信じかけていた。

 だがそれは大きな勘違いだったと、リージャに接するイルヴィルを目にしたときに、ヴォルブは気付いたのだった。

「……何を迷っているんだ、イルヴィル」

 光彩の色素の薄い茶の目が、ゆっくりとヴォルブに向いた。いつも無表情に見え、時には冷たいと評されるこの男の瞳は、よく見れば、二度目の島からの帰還以来、ずっと曇っていた。

「どうしてあんな上奏をした」

「思ったことを報告したまでだ」

「俺は詳しい内容までは知らねえぞ。だがもう都じゃもっぱらの噂だ。お前が、帰るなり竜の家畜化の事業から手を引きたいと言い出したと」

「事実だ」

「原因は気鬱の病にかかったというくそったれな噂だ」

「あながち、間違いではないかもしれない」

 淡々とそう紡ぎ、小さく息を吐き出したイルヴィルは、ヴォルブに予想外の衝撃を与えたのに反し、随分と落ち着き払った様子だ。

「はっきり言って、唐突に気が滅入った。叔父が切り開いた遠い島に初めて降り立ったときは、初めての大きな王命をいただいた高揚感や使命感であふれていた。だが、実際にあの島の惨状を見て、どうだ。征服され、生活を変えられた原住民たちは俺たちに深い憎悪の気持ちを向ける。土地を耕して畑を作り、山を開いて竜を狩ることで、島の生態系も崩れてしまった。こんなことが、許されて良いのだろうか」

「お前の叔父どのもお前も王命でやったことだ」

「許しを請うのは陛下にではない。こんなことが起こりさえしなければ、あの島の悲しみも憎悪もなかったんだ」

 覇気のない口調で淡々と語っているにもかかわらず、どこか重苦しく、気圧されそうな何かがあった。こんなイルヴィルを見たことがなかった。気鬱というのは本人の言う通り、あながち間違いではないのかもしれない。

「……じゃあ、何か。お前が今更島の事業から手を引けば、すべて解決するのか」

 いつの間にか視線が床へ落ちていたイルヴィルが、はっとしたように顔を上げた。

「拓かれた村は元に戻り、竜も山で暮らせるようになる。そして、リージャは、生まれた島で急に家族を得て幸福になるのか」

「――やめてくれ」

「それか、あんな混血児は最初からいなかったと思いたいのか」

 弾かれるようにイルヴィルが立ち上がった。椅子が軋む音が深夜の部屋に響き渡る。蝋燭の灯りに照らされた顔面がひどく蒼白になっていた。血色も悪い唇が引き結ばれ、震えている。

「いいや、やめないぞ」

 ざわつく自分の胸に言い聞かせるように、ヴォルブはそう口にした。イルヴィルは黙ってヴォルブを見下ろす。

「お前は都合の悪いものから目をそらして逃げようとしているだけだ。拓かれてしまった島は元には戻らないし、リージャは今ここで生きてる。現実を見ろ」

 イルヴィルの顔が、ほんのわずかに苦悶でゆがんだのを、ヴォルブは認めた。再び腰の下ろされた椅子が軋む。

「現実を見ろ、イルヴィル。リージャは、お前が救った。リージャは、お前を慕っている」

「……それは違うだろう」

 机に肘をつき、イルヴィルは伏し目がちにため息をついた。先ほどまでの動揺がかき消えたことにヴォルブは安堵すると同時に、不可解なその言葉に眉をひそめた。

「リージャは確かに、俺を慕っているように見えるかもしれない。だがそれは、あの子がこれまでに、そうする相手がいなかったからだ。初めて見たものを親と思ってついていく鳥の雛のようなものだ」

「……リージャについていく、雛竜のようなもの、でもあるな」

「そうだ。あの小さな竜達も、本来ならいるべきではない寒い大陸で、それしか慕うものがないから、リージャについていく。本来なら低木の茂る森の奥底で、人などとは関わらずに生まれ育ち死んでいく生き物だ」

「――イルヴィル」

 ヴォルブはため息をつき、手を振ってイルヴィルの言葉を止めた。

「わかった、お前の言いたいことはわかった――。気持ちも、わからんでもない。とにかく、お前は少し、何も考えずにしっかり休め。疲れてんだよ」

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