第四章 -6

「リージャ!」

 青空の下に、その声は響きわたった。誰の声かすぐにわからなかったのは、イルヴィルがこんな大声を出すのを聞くのが初めてだったからだ。驚きでリージャは肩を震わせたが、動揺したのは二頭も同じだったようで、子竜が急に立ち止まって振り向いたせいで、リージャはバランスを崩してしまった。視界が激しく回旋し、腰が、足が、宙に浮く不安定な感覚になる。空の青が視界を埋め尽くしながら、急降下する、と思ったと同時に、背中と右腕に手が回された。強引にひっぱり上げられて、肘と脇に痛みが走る。

「大丈夫か」

 両足の裏が地面にしっかりとついてから、リージャは膝を伸ばした。隣で子竜が多少落ち着きなさげに足踏みをして首を振っている。顔を上げると、険しい顔でリージャを見下ろしているイルヴィルと目が会った。怒っている。眉間に皺が寄り、きつく唇が結ばれ、いつになく眼光が鋭い、と感じた。こんなにはっきりと怒りを露わにしているイルヴィルを見ることは滅多になかった。リージャの脳裏を、島で初めてイルヴィルに出会った、暑い昼下がりのことが過ぎった。あの時イルヴィルが一体何に怒っていたのか、リージャはわからず怯えてしまったし、未だにはっきりとは理解できていなかった。

 思わず身をすくめ、黙って上目遣いにイルヴィルの様子を伺うリージャに、イルヴィルは小さくため息をついた。

「これはどういうことだ。誰が竜に鞍などつけてお前を乗せたんだ」

 戸惑いで何の反応もないまま、リージャはただ黙ってイルヴィルを見つめる。険しい顔つきのイルヴィルはリージャの腕を掴んだまま放さない。その指先にわずかに力が強く込められている気がした。

 イルヴィルが再び口を開いたと同時に、その背後から第三者の声がする。

「旦那さま」

 リージャの腕を放さないまま、イルヴィルがリージャに背を向けた。大きな背の影になって、ザルフの姿が見えない。声はいつものような、あまり感情の見えない平坦なものに聞こえた。隣ではようやく落ち着いたらしく体を揺らすのを止めた子竜の足下に、雛が寄り添っている。風が凪いで、草のさざめく音がする。それに混じって、ザルフのものと思われる足音が小刻みに近づいてきた。

「ザルフ、どういうことだ。お前が竜に鞍をつけたのか」

「はい、旦那さま」

「どういうわけでだ。どこでこんなものを手に入れた」

 背中越しに聞くイルヴィルの口調に、リージャは思わず身を固くした。イルヴィルは確かに使用人らの雇い主であって、指図をし支配する立場にあったが、このように威圧的な態度で誰かを詰問しているのを、リージャはこの三年間見たことがなかった。

「知り合いから、もう使わない小型馬用の鞍を譲り受けて改良しました」

「何故そんなことを」

「それは、リージャが……」

 淡々と返していたザルフがわずかに言いよどんだ気配がした。リージャは腕を掴まれたまま、イルヴィルの隣に顔を出す。思わず怯えていたリージャを、全くいつもと変わった様子のない無表情なザルフの視線が捉えた。リージャの顔を見て、ほんの一瞬だけ、何かを考えるように瞳が揺らいだような気配がした。それから、イルヴィルに視線を戻す。

「小型馬の鞍を見ていたら、子竜の背に乗せる改造案を思いついて、つい……勝手な真似をいたしました」

 ゆっくりと頭を下げるザルフに、リージャは狼狽しながら、イルヴィルの横顔を見つめる。厳しく眉根を潜めたままだ。

「……お前の実家は、馬具工房だったな」

「はい」

 肯定しながらザルフがゆっくりと面を上げる。リージャは初めて知った事実に息を飲んだ。フュラスもかつて、自分には実家があって妹がいるという話をしていたことがあったが、ザルフにも、リージャの知らない、帰る家があるのだということを唐突に実感させられた。それが馬具を扱っている家だったために、ヴィートトク邸で厩の世話を担当したり、こうして竜の鞍やリージャが履くトラウザーズを用意することができたのだろう。

「……竜の鞍は確かに、いずれ製作の計画が王都で立てられるかもしれない。お前が試作品を作ったことは覚えておくよ。それまで、もうこういうことはしないでくれ。お前の仕事は馬と竜の世話だ」

「申し訳ありませんでした」

 再び深々と頭を下げるザルフの姿に、リージャは落ち着かない気分になって、イルヴィルの袖を引いた。竜に乗ろうとしたのはリージャが自らそれを望んだからではなかったが、しかし、ザルフが鞍を用意したのはリージャを労ってのことだったのに、ただ彼一人が責められている。

 ゆっくりと、イルヴィルが視線をリージャに向けた。太陽の光が横顔にあたると、凹凸のはっきりとした彼の顔に複雑な影が出来て顔の上で延びていく。依然険しい表情のまま、イルヴィルは、リージャが不安げに目を瞬いているのを一瞥した。リージャの予想していなかった言葉が飛び出した。

「それから、リージャ。お前は、もう、竜には近づくな」

 目を見開いた。それを見たイルヴィルがわずかに目を伏せた。

「俺が留守の間にザルフ達の仕事を手伝っていたようだが、もうそんなことはしなくていい。お前の仕事は竜の世話をすることじゃない。タマラの指示にだけ従っていろ」

 突然のことに理由がわからず立ち尽くすリージャを置いて、イルヴィルは黙って丘を下り始めた。その後ろ姿にザルフが軽く頭を下げて沈黙している。雛は、丘登りの途中で人間達が足を止めたことに戸惑っているのか不満げに軽く飛び跳ねてリージャや子竜の周りを回っている。イルヴィルの姿小さくなってから、ようやく頭を上げたザルフが、黙って子竜の方へ歩み寄った。屈んで、鞍の金具に手を伸ばそうとしていることに気付いたリージャが、つけたときと同様に手伝おうとして、歩み寄った。ザルフが片手を上げてそれを制した。

「旦那さまがああ言うんだ。しばらく竜には近づかない方が良い」

 黙ってザルフを見つめるが、ザルフはリージャには顔を向けず落ち着いた様子で子竜から鞍を取り外している。

「お前の手を借りなくても大丈夫そうだ。竜は大人しい生き物だな。初め、世話をしろと言われたときは怖気付きもしたが、慣れれば下手な馬より御しやすいかもしれない」

 リージャにばかり懐いていた雛も、今はザルフに警戒心を見せる様子はない。珍しいものを子竜につけたり外したりしているのに興味を抱いたのか、先ほどまでリージャの足下にまとわりついていたのが、今はザルフの傍に歩み寄っている。

 ザルフの言葉には頷き難いものがあった。島では、白い人々の命で世話をしたり森から狩り出したりしていたが、本来は人間の力で操り支配するものではないと島民はみんな思っていたし、実際に猛烈な力で暴れて恐ろしい思いをさせられたものがいないわけではなかった。ザルフ達は聞いたことがないはずだが、野生の成竜が夜な夜な発する鳴き声は猛々しく、村の近くでそれが聞こえると皆身を竦めていたものだった。

 黙り込んで立ち尽くすリージャに、ザルフがようやく顔を向けた。ちょうど鞍をはずし終えたところだった。

「旦那さまが怒った理由は俺にもわからないが、多分、お前に腹を立ててるわけではないんじゃないか」

 それだけ言うと、ザルフは立ち上がり、鞍を脇に抱えて丘をゆっくりと下り始めた。これまでずっとリージャとばかり行動を共にしていたはずの子竜が、動き始めたザルフの後に静かに続いた。いつもなら丘の頂上にまで登るはずが、急に来た道を引き返し始めたことに、雛が困惑したように小さく鳴き声を上げた。立ち尽くすリージャと、どんどん自分から離れていく子竜の尾を交互に見やってから、慌てて子竜の後をつけていく。

 遠ざかる三つの影を眺めながら、リージャはザルフの言葉を胸の内で反芻した。イルヴィルは怒っていた。何かに対して。ザルフは、その怒りはリージャ自身には向いていないというが、それが何を意味するのか、リージャには理解できなかった。何に対しての怒りであれ、リージャの前でイルヴィルが不機嫌さを露わにしたことには代わりはなかった。

 村の人々は何もかもに対して怒りと憎しみを抱いていた。そしてそれらのすべてが形を為したとき、それはリージャにのみ、向けられていた。大陸に来て三年経ったいまでも、時折、皮膚が、肉が、骨が、喉が、心臓が、焼けるように、にじむように、疼くように、痛むのだ。

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