第四章 -5

 言われて、慌ててリージャも子竜の脇腹のそばについた。子竜を挟んでザルフと向かい合う形になる。鞍が子竜の背に注意深くかけられ、リージャは中心部が子竜の背骨にあたるように位置をずらした。ザルフが最初に忠告したように、リージャが一人で持つにはかなりの重みがあった。革素材に加え、金具もついているからだろう。位置を調えると同時に、子竜がわずかに身動ぎをした。その仕草に警戒したのか、ザルフが思わず半歩ほど身を引いた。続いてリージャも距離を置いた。子竜がゆっくりと立ち上がる。胴体が大きく傾いたが鞍はずり落ちたりはしなかった。

「……腹の下にベルトを通して固定したいんだが、大丈夫だろうか」

 ザルフがわずかに眉を顰めながらそう言ったのを聞いて、リージャはためらいがちに子竜の首元にそっと触れて、さすった。子竜は至って落ち着いた様子だった。リージャすらその鱗に触れたことは数えるぐらいしかないし、腹を触る危険性については未知数だったが、リージャが触れている間に、子竜が過度な攻撃性を見せる確率は減らせるような気がした。足元でまた雛がきゅう、と鳴いた。リージャと目の会ったザルフが、その場で膝をつく。リージャは空いた方の片手で、垂れ下がったベルトの先を掴み、子竜の腹の下で、ザルフに素早く手渡した。子竜は大人しくしていた。慣れた手つきでリージャから受け取ったベルトをザルフが金具で固定している。

「これで鞍は固定できた」

 言いながら立ち上がると、ザルフはまた、留めてある一輪車の方へ歩いていく。そこから取り出したのは、今度は衣類だった。

「竜に乗るときは、これを履け。鞍は鱗ほど固くないだろうが、素肌で乗ると滑るし痛い」

 手渡されたそれは、男性がよく着用しているボトムスだった。股の部分から二本の足を通す筒状の構造に分岐している。大きさは確かに子供用らしく、小さい。厚みのある生地で、鞍ほどではないが、リージャが普段着用しているような衣類に比べると多少の重みがあった。両腕に乗せられたそれを数秒じっと見つめ、それから顔を上げてザルフと目が会った。竜に乗りたくて乗ったわけでも、今後も乗りたいと思っているわけでもないことを、ザルフにまた声を発して説明する事を考えると、気が重かった。その上、何故か子竜はザルフの意図を理解した上で、大人しく鞍をつけさせて黙っている。

 リージャはザルフに言われる通り、無人になった小屋の中でスカートの下に渡されたボトムスを着用した。初めて履くものだったが、手こずらずに行えた。二本の脚が布に覆われているというのはなんだか不思議な感覚がする。小屋から出ると、駆け寄ってきた雛が、珍しいと思ったのかリージャの足下の周りを、臭いを確かめるように鼻をひくつかせながら駆け回った。

「大きさはちょうど良かったようだな」

 そういうザルフの視線はリージャの足下に向けられていた。つられてそこに目をやる。裾はちょうど、リージャの木靴の上部分を覆うぐらいの長さだった。

「来てみろ」

 大人しく身じろぎせず立ち尽くしている子竜の傍らでザルフがリージャを呼ぶ。今日はいつになく口数が多い、とリージャはぼんやりと思った。

 ザルフにならい、子竜の右隣に立った。ザルフは子竜の機嫌を確かめたいのか、鞍ごしにその背を撫でている。その手つきはまだおそるおそる、といった様子がうかがえた。リージャよりも子竜に畏れや警戒心を抱いているのかもしれない。それから、リージャに向き直った。

「背か首か、どこかしっかり掴まれる場所に掴まって、右足を――」

 言いながら、鞍の下部についている、革でできた輪っかのようなものを指さす。

「ここに、入れるんだ」

 言われたとおりに右足を振り上げた。輪っかは、リージャが普段上り下りしている階段や、屋敷にある様々な段差のどれよりも高いところにあった。下にトラウザーズを履いていなければスカートの中が見えてしまっていたかもしれない。踵が自分の腰の位置に来ていた。内股の筋肉が慣れない方向に延びている感覚がする。

「それから、体重を右足に乗せろ。左足で竜の背をまたぐんだ」

 言われたとおりに重心を移動すると、自然と左足は宙に浮いた。輪っかは鞍からつるされているだけで、ひどく不安定だ。ふらつきそうになったと同時に、ザルフが支えるようにリージャの背後に手を回した。

「しっかり竜の首に掴まれ。左足をもっと振り上げて」

 抱きつくようにして竜の首に捕まり、ザルフの指示通りにしようともがいた。すぐに体は安定し、目を開けると、視界は一変していた。あの雨の日も驚いたが、竜の背に乗ると、ほんの少し目線が高くなるだけなのに、ずいぶんといつもの屋敷の風景が違ってみえる。ザルフがリージャを見上げていた。

 きゅうきゅう、と雛が鳴いている。以前のように、一緒に子竜に乗りたいと言っているのかもしれないが、既に鞍に乗ってしまったリージャには抱き上げる事ができないし、ザルフは雛の訴えを理解する様子はなかった。

「直に跨がるよりは痛くないだろう」

 問いかけられて、リージャは曖昧に頷く。あの時はせっぱ詰まっていて乗っている間の自分の皮膚の痛みに意識が向いていなかったが、少なくとも固い鱗に直接触れるよりは刺激は少ない気がする。

 リージャの反応を見て、ザルフが一人で頷いた。

「鞍もちゃんと固定できたし、大きさもちょうど良さそうだ」

 言いながら、ザルフが再び子竜の首筋にそっと触れようとした、その瞬間、リージャの体が傾いだ。慌てて首にしがみつく。子竜がその場で足踏みをした衝撃だった。それと同時に雛が小さな足で、庭に向かって駆けていく。その後ろを、子竜はゆっくりとした足取りで歩き出した。一歩一歩踏み出すごとに、不安定に体が揺れ、リージャはしがみついた首から離れられなくなる。

「リージャ、体を起こせ。背筋をのばして真っ直ぐ座っていた方がバランスが取りやすい」

 半信半疑でおそるおそる体を起こしてみた。捕まる場所がなくて心許ない。そう思ったと同時に、ザルフが、鞍を固定しているひもの部分を指さしたので、反射的にそれを掴んだ。できる限り背を伸ばそうとする。ザルフの言うとおりバランスが取りやすいのかはいまいちわからなかったが、首にしがみつかれていると子竜が無理な姿勢をしていたのだということがわかった。若干前かがみ気味だった体が水平に近くなる。

「……今日はあまり遠くまで行かない方がいいかもしれないな。次までに手綱を用意する」

 ザルフの呟くような声が背後で遠ざかる。リージャが体を起こしたことで歩きやすくなったのか、足取りの軽くなった子竜がぐんぐんと歩みを速め先に行ってしまった雛を追いかける。竜の土を踏みしめる音、それに伴う振動がリージャの全身に伝わってくる。そのリズムとは別に、自分の心臓の音が大きく鳴っていた。

 ヴィートトク邸の庭は日に日に青々としてきて、春の訪れを予感させていた。頬をかすめる風は、いつの間にか穏やかで柔らかい何かを孕んでいる。

 島には、冬のようなきつい寒さがない代わりに、こうした季節もなかった、とリージャは唐突に思った。春は気分が高揚する、と陽気に言い放ったケスリーに、リージャはその場では肯定しなかったが、嫌いではないかもしれない、という考えが浮かんだ。また少し、風が吹いた。鞍の上で、スカートがほんの少しだけひらめいたが、トラウザーズを履いているからあまり寒くはなかった。雛も子竜も足取りは軽い。ぼんやりと風を受けているうちに、乗ったばかりの時の緊張が段々と和らいでいた。今日の散歩もいつものように、二頭の気が済んだところで引き返して終わるだろう、とリージャは思った。しかし二頭の足は、背後からかけられた声によって止められた。

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