第四章 -4

 未だ本調子ではないアンドゥールと、長々滞在し続けた末まるで屋敷の住人であるかのようになってしまったヴォルブを除けば、かつての平穏な日常が戻ってきたかのようだった。イルヴィルの帰還を期に、実家に戻っていた年老いた料理長や若いメイドも屋敷に帰ってくることになった。タマラやケスリーたちは、再び訪れた日常に心から喜び安堵している様子だ。

 イルヴィルは屋敷を出る直前の頃合いと同じぐらい、忙しいようだった。以前は仕事の合間に、廊下をふらふら歩いて屋敷の中を見回ったり、庭を気晴らしに散歩しているイルヴィルを見かけることが稀にあったが、王都から帰ってきてからリージャがイルヴィルを見たのは、あの竜小屋の日が最後だった。あの時の事を考えると、リージャの胸の内に、名状し難い感情が生まれるのだった。それはあの夜に眠れないと感じていた、そわそわとした落ち着かない気持ちでもあったし、その後イルヴィルの腕を振り払った後に生まれた、何か胸が押しつぶされるような気持ちでもあった。

 忙しくしていれば、誰かとの会話に巻き込まれていれば、そんな気持ちを紛らわす事ができて、それはリージャの気持ちを幾分か楽にさせた。今までにも考えたくないことを考えたり、悲しい気持ちが湧いてきてそれから逃げたい気分になったことはあったが、しかしそのために誰かと一緒にいたいと思ったのは、リージャにとっては初めてのことだった。

 その日、リージャがいつものように屋敷の掃除を終えて竜小屋へ向かうと、すでに二頭の竜は小屋から出ていた。藁の掃き換えの日だとはわかっていたが、いつも馬丁たちはリージャが来るまで竜は小屋の中に留めたまま放っているので、リージャはその様子を見て小さく首を傾げたのだった。

 ここ数日、イルヴィルとヴォルブの部屋のベッドメイキングは、戻ってきたメイドが担当していたので、その分、リージャはイルヴィルが留守の間よりも余裕を持った早い時間に竜小屋を訪れるようになっていた。今日も、決して来るのが遅かったわけではなかったはずだった。

 リージャが小屋に近づこうとしたと同時に、中からザルフが顔を出した。

「リージャ、ちょっと来てくれ」

 顔も声も、相変わらずの無表情だった。言葉を交わしたのは竜小屋で二人きりになった日以来で、それ以外ではザルフがリージャに話しかけてきた事は一度もなかった。会話をしたというのは夢だったのではないかと思うほどだ。ケスリーやヴォルブが無遠慮に話しかけて来る時よりも、よほど緊張した。

 ためらいがちにザルフに近づくと同時に、ザルフが小屋の傍らに留めていた一輪車から、何かを取り出した。リージャの両腕ほどの幅がある、長方形の布状のものが現れた。持ち上げるザルフの様子を見るに、ただの布にしては重みがあるようだった。近寄ってよく見ると、動物の皮でできているのではないかとリージャは見当をつけた。イルヴィルがたまに履いているブーツの素材に似ている気がした。分厚い茶色のそれの表面はつるつるとしていて多少の光沢があり、両端に金具と、革でできた輪が繋がれていた。

「鞍を作った」

 聞きなれない言葉に、リージャは首を傾げた。

「馴染みの工房で、仔馬用の馬具の試作品を引き取って来て、改良した」

 普段無口なザルフにしては饒舌ではあったが、明らかに言葉足らずだった。仔馬用の馬具をリージャに見せたザルフの意図が、リージャには理解できない。何も反応できずに固まっているリージャの様子を慮る気配はザルフにはなかった。

「着けてみないと使えるかわからない。手伝ってくれるか」

 すっかり困惑して、リージャはもう一度首を傾げた。それを見て、今度はザルフも言葉を発せずに、顎でリージャの背後を示した。振り向くと同時に目が入ったのは、芝生の上に座り込んでいる子竜だ。ザルフに小屋から追い出されたものの、リージャが来ないために手持無沙汰でうつらうつらとしていたようだ。雛は落ち着きなくあたりをうろうろしている。リージャは目を丸くして、ザルフの顔を見つめた。いつも通りの、何を考えているかわからない無表情だった。

「この前みたいに股ずれを起こしたらいけないだろう。竜に乗るなら鞍を使え。男の子ども用だが、トラウザーズも貰ってきた」

 言いながら、鞍を目の前に差し出された。リージャはイルヴィルたちが乗馬している様子をあまりよく見たことはないが、確かに馬の背にはこのような形のものが載っていたような気がする。やはり動物の革でできていると思われるそれは、特別にやわらかい素材でもなさそうだったが、しかし竜の鱗に直接乗ることに比べれば人の肌を傷つけそうなものではなさそうだった。

 何とも反応し難く、リージャはその場に立ち尽くした。股ずれは竜に乗ったせいだから乗るなとリージャに言っておいて、その間にザルフはリージャがもう一度竜に乗れるようにするための道具を用意していたのだ。リージャが自らの意思で何度か乗っていると思ったのかもしれない。竜の散歩を長距離行うようになってから、丘の上でリージャ達が何をしていたのか馬丁達はつぶさに観察していたわけではないから、あの日あの状況で出くわしたザルフがそのように勘違いしても仕方がないのかもしれなかった。

 その一瞬の沈黙の間に足元で土の擦れる音がして、リージャは我に返ってそちらに目を向けた。声を出さず、雛がリージャの足元まで駆けてきて撥ねていた。それから、続いて背後からも子竜のゆったりとした足音が近づいてくる。振り返ろうとするより先に、その長い首がリージャの肩の上をそっとかすめた。頬に、わずかに子竜の鼻息が当たった気がした。その生ぬるい感覚に一瞬驚いて肩が震える。散歩に行けるかと思ったのに、リージャがザルフと話し込んでいるせいで焦れて急かしに来たのだろう、と、リージャは思った。ケスリーやフュラスといるときは、そういったことがしばしばあるからだ。しかし子竜はその場で突然静かに腰を下ろした。予想外のことに目を見張る。雛が足元できゅう、と鳴く。足を折ってその場に座り込み、首をくいと自分の背中に向けて反らすその様子が、あの、アンドゥールが倒れた日の様子に重なって見えて、リージャは内心驚いていた。ザルフの用意した鞍を背中に付けろと言っているように思えた。まさかリージャに向けて語られていたザルフの言葉を聞き取り、理解して、それに応じた行動をしているというのだろうか。動揺して子竜から、リージャの足元をうろうろしている雛、それからザルフへと、不安定に視線を彷徨わせた。ザルフはリージャの動揺自体に気付いているのか気付いていないのかもわからないほど、無表情が崩れない。その顔を数秒見つめてから、リージャの頭の中に、竜に乗るつもりはないという意思表示をする手間よりも子竜の意思に従う方が楽なのではないかという考えが浮かび、気付けばザルフに向かって小さく頷いていた。もう一度、首を軽く反らした子竜に、ザルフが歩み寄る。

「こっちの端を持ってくれ。少し重いぞ」

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