第四章 -3

「……知っていたか、リージャ」

 唐突にイルヴィルが口を開いたので、リージャの思考は中断された。黙ってリージャはその横顔を見上げる。イルヴィルの視線は静かにただ胸を上下させて横たわる二頭の生き物に向けられていた。

「竜は本当は昼行性の生き物だったらしい」

 リージャは首を傾げた。理解のできない単語が出てきた。初めて聞く言葉は即座に正確にリージャの頭の中に記憶されなかった。コートの裏地がリージャの頭部と擦れた。静電気が立って、茶色の細い髪がいくつも、ふわりと浮かび上がるように立ち上がった。それを見止めたイルヴィルの左腕が伸びてくる。指先でその生糸のような一本一本を張り付いたコートの裏地から取ろうとして、しかしそれは今度は、イルヴィルの白い指先に吸いついた。

「竜は、南の島の山に棲んでいる竜は、昼に活動して夜は眠る生き物だというんだ。大昔に南の島に滞在したというこの国の旅人の書にもそう記してあるし、南の群島で現地の人間に伝承を聞き取りしても、そうだと言われていた」

 リージャはその言葉を理解するのに多少の時間を要した。不可解な気持ちが生まれた。最初のイルヴィルの言葉が、知っていたかという問いであったことをふと思い出して、リージャは首を振った。更に頭とコートが擦れ、イルヴィルの指に絡め取られる髪の量が増えた。それを見て、イルヴィルから小さな笑いのような息が漏れた。それからほんの少しの沈黙があった。薄暗い小屋の隅で、確かに二つの生き物の肺は動いていた。死んでいるのではなく、生きていて、深く眠っているのだとはっきりとわかる。

「初めは間違いだったのだと思った。実際に竜の島に行ったら、毎晩のように野生の竜の鳴き声が山から響いてきたから。飼育している竜も昼は気だるげで、夜に暴れることが珍しくなかった。旅人の書は書き違いで、島の人々は我々を憎むあまり嘘をついたのだと思っていた。だが、この二頭は……」

 そこでイルヴィルは言葉を切り、再び静寂が訪れた。リージャも竜に視線を戻した。思えば大陸に連れてこられたばかりの頃の子竜は、毎日無気力に横たえているばかりで、眠っているのか覚醒しているのかもわからない有様だった。それがいつの間にか、活動時間帯と睡眠時間帯がはっきりするようになっている。変化が徐々に起きていたためかリージャはあまり意識してこなかったが、改めて思い返すと、突然リージャを乗せて庭を走った事など、かつての子竜の状態を考えれば信じ難いほどの劇的な変化だった。そして、それだけ活発に動くようになった今、この二頭は確かに、イルヴィルの言う「昼行性」だった。夜に自らの意思で何かを行おうとしているのを、少なくともリージャは目撃したことがない。

 リージャにとってそれは苦痛ではなかったが、ずいぶんと長い沈黙があった。イルヴィルは何かを考え込んでいる様子で、それが決して楽しい気持ちで満たされるようなものではないことが、リージャにもわかった。

 小屋の中は、カンテラの灯りと、パイプの中を通る蒸気の音とそれが鳴らす甲高い不規則な金属音と、眠りこける二頭の竜、そして彼らが時折生み出す藁擦れの音だけで満たされていた。イルヴィルの心はまるでここにはないように、どこか遠くをさまよっていた。

 リージャは唐突に、自分がここに存在していないという可能性について思いついた。いなくてもこの瞬間、この空間は保たれているような気がした。

 誰もリージャのことを認識しない。誰も気にも止めない。今突然雛が目覚めたとしても、リージャの姿を見て駆け寄ったりしない。子竜は気だるげに横になったままだ。朝が来てリージャがベッドにいなくても、タマラはリージャを探しに来て叱りつけたりしない。アンドゥールも、フュラスも、ケスリーも、ザルフもだ。自分は船には乗らなかった。島を出なかった。島に生まれたりなどしなかったからだ。生まれ落ちたことを責められる黒くも白くもない肌の少女は初めからどこにもいなかった。

「リージャ」

 唐突に名前を呼ばれて、リージャは急激に現実に引き戻された。あまりの不意打ちに驚いて、目を見開いたまま固まった。コートから出ている自分の頬が冷たくなっていることを意識した。息が白くなる。イルヴィルの顔が思ったよりずっと近くにあった。間近で目が会った驚きに、動悸がした。リージャの動揺に気付いているのかいないのか、イルヴィルはただ数秒黙って、リージャの頬にまた指先で触れた。困ったように目尻が少しだけ下がった。

「もう戻って眠りなさい。寝不足はよくない」

 曖昧に頷くと同時に、肘を叩かれ、リージャは立ち上がる。それからそっと音を立てないように気をつけながら、イルヴィルは小屋の扉を開けて外に出た。リージャはずっとイルヴィルのコートの中にすっぽりと収まっていたが、部屋に帰る時にはこのままでいるわけにも行かないだろうと、小屋から出ると同時にコートの中から抜け出た。

「着て行きなさい」

 抜け出したリージャを見て、突然、イルヴィルが羽織っていたコートをさっと脱いだ。カンテラを地面にそっと置くと、脱いだばかりのコートをリージャの肩にかけようとする。前にもこんなことがあった、とリージャは咄嗟に思った。反射的に避けようとして後ずさったと同時に、あれはヴォルブといたと明け方の出来事だった、と思い出した。リージャの動きを見て、イルヴィルがかすかに眉を潜めたような、気がした。それはほんの一瞬で、見間違いだったようにも思えるほどだった。

「風邪をひいてしまう」

 リージャはその場に黙って立ち尽くした。大人しくなったリージャの目の前で、イルヴィルが膝を折った。コートを着せられながら、見つかったらまたタマラに叱られるかもしれないとぼんやりと思った。思ったが、一瞬だけイルヴィルに見せられた眉間の皺の方がリージャにとっては重大だった。大きすぎるコートの裾が地面についてしまっているのが、目には見えないけれど、感覚ではっきりとわかった。

 しゃがみ込んで、自分よりも目線の低くなったイルヴィルの白い面を、リージャはただ黙ってじっと見つめた。カンテラの橙の光は下から二人を照らしていた。凹凸のはっきりした白い人の顔の、個々のパーツの影が、上向きに現れている。なんだか見慣れないイルヴィルの顔のような気がした。明るい色をしていると思っていた目は、今はずいぶんと暗く見える。イルヴィルの心はこの瞳の奥のすぐそこにあるような気がしたし、もうずっとここにはないような気がした。

「……すまなかった」

 その言葉はかすかに震えていたような気がした。イルヴィルらしくない、弱くか細い声だった。それからイルヴィルの視線はわずかに宙をさまよい、すぐにリージャへ戻ってきた。

「こんな場所で夜更かしをさせてしまって悪かった。眠れなくて外に出たのか」

 その問いかけに、リージャは少し間を置いてから、ためらいがちに頷いた。確かに、リージャは眠れなかった。だが、イルヴィルの影を見なかったらわざわざ外には出なかった。そんなことをイルヴィルに伝える必要はなかった。そうか、と小さくイルヴィルが呟いた。

「眠れそうか」

 その問いに、当惑する。リージャは今晩、眠るつもりでベッドに入ったのに眠れなかったのだし、今また眠るつもりで寝室に戻っても、眠れるかどうかなど予測がつかなかった。答えないリージャに、イルヴィルが苦笑する。帰ってきてからずっと、この男の満面の笑みを見ていないと思った。

「眠れなくても、横になりなさい。いつまでも起きていたら、明日が辛いぞ」

 そう言うと、イルヴィルの手が伸びてきた。頭を優しく撫でられた。手のひらの温もりが髪の毛ごしだがわずかに伝わってくる。その瞬間、リージャの頭の中に、このままこうしていられるなら、眠らずにいても自分はきっと辛くはないのではないかという考えが浮かんだ。だがきっとイルヴィルはそうではないのだ、とも、理由がわからないまま確信した。このままずっとこうして向き合っていると、そう長くしないうちに、イルヴィルの目はさっきコートを思わず拒否してしまった時のような悲しげな色を浮かべるだろう。その絵が頭の中に浮かんだ瞬間、リージャはまるでイルヴィルの手を振り払うようにして、振り返り、使用人用の宿舎に向かって駆けだした。背後でかすかにイルヴィルの息を呑むような声が聞こえた気がしたが、自分のすぐ足下でコートが引きずられる音にかき消された。

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