第四章 -2

 イルヴィルが帰ってきたのは、その後一度新月がやってきて、満月もやってきて、それから数日経っても帰ってこなかったので、リージャがまた石を使って日数を数えようかと思い始めた、二度目の新月の訪いの前だった。アンドゥールらが慌ただしくしている間、リージャはそれまでと変わりのない一日を過ごした。帰還したばかりのイルヴィルは忙しかったのか、リージャを母屋に呼びつけることはなかった。

 日が完全に沈んでしまうと、まだ寒さに震えてしまう季節だった。吐く息が白くなったりはしないが、薄着をしていると鳥肌が立ってしまう。タマラが灯りを消してしまってから、どれぐらいの時が経ったのかわからない。月はまだ出ていない。眠れずにずっと暗闇で目を見開いていたリージャには、窓枠やカーテン、自分とタマラのベッド、出入り口のドアノブの輪郭が、うっすらとだが目に入った。規則正しいタマラの寝息が聞こえてくる。慎重に、音を立てないようにベッドから降りる。眠れず落ち着かない気分になるのはリージャにとって珍しいことではなかった。だがここ最近は、アンドゥールの怪我のことや、イルヴィルの帰還のこと、唐突に島での辛い出来事を思い出してしまったことなど、自分を眠りから遠ざける理由がはっきりと自覚できていた。なのに今夜は、どうしてだかわけがわからないまま、胸の内がそわそわとして、横になっているのも苦痛なぐらいなのだった。シーツの擦れる音と、床のわずかに軋む音がしたが、タマラが目覚める気配はなかった。それだけを確認してから、リージャはそっと窓際に歩み寄る。布団から抜けると急に肌寒く思わず震える。二の腕を軽くさすりながら、カーテンをそっと開けた。窓の外は一面の黒の世界だった。夜目のきいたリージャにも、窓の外の暗闇の中にあるものの輪郭は捉えることができなかった。リージャは何もない無であり黒の世界を、ただ漫然と眺めていた。乱れのないタマラの寝息だけが、そこにはっきりと存在している。時が流れているという事実すら忘れて、どこかに連れ去られそうな気分だった。

 そのとき、突然、視界にちらと何かが目に入った。かすかな、灯りだ。橙の小さなそれは、母屋の窓から漏れていた。イルヴィルの部屋の窓のような気がした。ふわりと動いて、遠ざかり、消えた。部屋の灯りではなく、足下を照らすための灯りだ。イルヴィルが部屋から出たのだ。そう思った瞬間、リージャは何を考える間もなく部屋を飛び出した。音を立てないように細心の注意を払って、しかしできるだけ、速く、母屋へ通じる渡り廊下へ走る。走って、連絡用通路の扉を開けようとして、その向こうから響いてきた音に、イルヴィルが館の外に出たことに気付いた。リージャは引き返し、勝手口から外に出る。夜の空気がリージャの頬をかすめた。走っていると、部屋でただ突っ立っていたときよりも寒さを感じなかったが、竜小屋が見えてきたときに立ち止まると、やはり深夜の風は冷たく、身震いした。まだ蒸気パイプは一晩中暖められている季節で、就寝前に馬丁たちの誰かがありったけの竈に石炭を放り込んで行っているはずだった。

 ゆっくりと竜小屋の前まで歩いてきたイルヴィルが、扉の前で立ち止まった。暗闇の中で、イルヴィルの手にしている橙の小さな炎だけが光っている。それにわずかに照らされているイルヴィルの白い面が、ちらとこちらに視線をやって、目を見開いた。

「リージャ? 何をやっているんだ」

 イルヴィルを追ってここまで飛び出して来たというのに、いざ見つけられてこんな風に驚かれると、何故だか来た道を引き返して今すぐ逃げ出したい気分になった。リージャは戸惑いながらその場に立ち尽くす。何の反応も示さないリージャを数秒静かに眺めたあと、ゆっくりとイルヴィルがこちらに歩いてきた。ちらちらと、イルヴィルの右手から下がったカンテラの中で炎が揺れている。近づいてくるほどに、イルヴィルの姿が暗がりの中ではっきりと浮かび上がってくる。眉間に皺の痕があるような気がする。そこに視線をやると同時に、イルヴィルが突然、リージャの頬に手を伸ばしてきて、その動きに気をとられた。そっと優しく接触したイルヴィルの手のひらは、冷え切ったリージャの頬よりほんの少しだけ温かった。

「こんな夜中に、こんな薄着で外に出ては風邪をひいてしまう」

 細められたイルヴィルの切れ長の双眸に合間にある小さな皺に、黙ってもう一度目をやった。それと同時にため息が頭上から降ってきた。

「まったく」

 イルヴィルの皮のコートが眼前でふわりと広がった。肩を軽く後ろから抱かれ、引き寄せられる。すっぽりとコートの中に入ると、急激に体が温まった反動で背筋が一度震えた。思わずスカートの裾を両手で握った。

「……辛い思いをさせたな」

 ぽつりと呟かれた言葉に、リージャは顔を上げた。リージャに対して発した言葉であるようなのに、イルヴィルの視線はどこか遠いところに向けられているような気もした。横顔を黙って見つめていると、イルヴィルの口元がほんの少しだけ緩められたような気がした。再び、肩を軽く抱かれた。促されて歩き出す。そっと、音を立てないように、イルヴィルが竜小屋の扉を開けた。これまでも何度か竜小屋に忍び込んだことはあったが、深夜に来るのは初めてだった。蒸気パイプは常に小屋の中を暖めているはずだったが、それでも、暖炉の火を入れた客間や厨房の竈の傍に比べればずいぶんと寒かった。

 カンテラの光でわずかに照らされた二頭の竜は、眠っていた。タマラのようにはっきりと聞き取れるような寝息は立ててはいなかった。蒸気パイプの音だけが不規則に小屋の中に鳴り響いている。扉を閉める音がわずかに響いたと同時に、ゆっくりと藁の擦れる鈍い音がした。子竜が寝返りを打ったのだ。リージャは妙に懐かしいような気分になった。雛が生まれる前の、無気力に眠ってばかりいた子竜は、リージャが小屋に忍び込んだときによくこんな音を立てていたものだと思う。それっきり何の音もしなくなったので、二頭とも目覚めてはいないようだった。目が覚めたら、少なくとも雛は黙っていないだろう。

 イルヴィルがその場に腰を下ろしたので、リージャもそれに倣った。藁もやはり冷え切っていた。カンテラがそっと、藁の上に置かれた。

 何も言わず、イルヴィルは黙って、蒸気パイプの傍らで眠り続ける二頭をじっと見つめている。リージャも膝を抱えて同じものを見つめた。

 子竜も雛竜も、いつもと何ら変わりのない様子だった。熟睡している。彼らには、自分のように胸の内に何かそわそわしたものが生まれて眠れない夜などあるのだろうか、と、リージャは思う。あるいは過去の悲しい事を思い出して震えたり、何かを待って胸の内で数を数えるような夜だ。

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