第四章

第四章 -1

 王都からイルヴィルの荷物が送られてきた日は、とてもよく晴れていた。青空の下でじっと日光を受けていると、じわじわと皮膚が暖まってくるような、陽気な心地だった。島育ちのリージャにとってはまだまだ肌寒いと感じる気温ではあったが、体が芯から冷えるような日はあまりなくなった。春が近づいているのだという予感が、リージャにもようやく訪れた。

「いやー、最近は良いこと続きだな」

 屋内に運び込まれたのは大量の書類だった。それをリージャとケスリーはイルヴィルの書斎へ移している。黙って自分を見つめるリージャに、ケスリーは屈託のない笑顔を向けて続ける。

「アンドゥールさんも目を覚ましたし、旦那様も無事に戻ってくるし、おまけに今日はこんなに暖かい! 春って良い季節だろ、リージャ」

 リージャは曖昧に頷いた。リージャの微妙な心境など露ほども気づかぬ様子で、ケスリーは陽気に階段を上っていく。その背中を慌てて追った。両手が重い荷物でふさがっているリージャはケスリーほど軽快な足つきでは階段を上がれなかった。

 アンドゥールが目覚めた姿を他の使用人たちに見せたのは、ヴォルブがこの邸にイルヴィルの代わりに滞在して一週間ほどが過ぎた頃だった。ヴォルブが懇意にしている王都帰りの医者という者を連れてきて、その治療の甲斐あって意識を取り戻した、という、体にしてあった。真実を知っているのはヴォルブとリージャだけだ。アンドゥールはまだ絶対安静を言いつけられて、ベッドに縛られている。こうしてアンドゥールの回復を心から喜んでいるようなケスリーの様子に、リージャは複雑な心境になる。ケスリーにも、フュラスにも、ザルフにも、アンドゥールは疑いをかけている。リージャには三人のうちの誰かがアンドゥールを傷つけたりイルヴィルを裏切ろうとしたことが未だに信じがたい気持ちでいるが、その一方でアンドゥールが出した結論について、リージャが疑う余地などないという思いもあった。

 島では、人間の悪意が沢山あった。竜への憎しみ、白い悪魔への憎しみ、そして白い悪魔に孕まされた女の子供への憎しみ。それらは常に目に見える形を伴って存在していて、誰かが何かに対して憤怒や憎悪を抱くことがあれば、島の誰もがそれを知っていた。

 だがこの屋敷には、少なくともリージャの目には映らない、誰かの憎しみや悪意があるのかもしれない。それはリージャにとって未知の世界であり、しかし、不思議ではないような気もした。イルヴィルに出会ってから、リージャはいつも、島での教えや慣習とは違う多くのものに遭遇してきた。

「おーい、リージャ、そっちじゃないぞー!」

 ケスリーの声が背後から呼んできて、リージャは肩を震わせ、反射的に振り返った。その拍子に、腕の中から紙の束がぱらぱらと滑り落ちた。

「あーあ、なにやってんだか」

 気が散っていていつの間にかケスリーの背後を離れ、違う場所に向かっていたらしい。リージャは慌てて、腕の中に残った荷物を脇に置いて、散らばった白い紙を集める。大きさや紙の種類はばらばらで、その上に、リージャには理解のできない不可思議な文様がインクで描かれている。

「旦那様が戻ってくるのがうれしくて上の空か、リージャ?」

 からかうようにそう言うケスリーに駆け寄りながら、リージャは首を振った。否定したつもりだったのだが、ケスリーは否定の仕草だと思ってはくれなかったようだ。

「まあ、良いじゃないか。旦那さまが戻ってきて嬉しいのはみんな一緒なんだからさ。むしろリージャは、もっと嬉しそうにした方がいいぐらいだぜ」

 リージャは首を傾げる。

「お前っていっつも無表情なんだもんよ。旦那さまが帰ってきたときぐらい、嬉しそうな顔して迎えてあげたらどーよ? 笑顔、笑顔。旦那さまも喜ぶぜ」

 そう言うだけ言うと、ケスリーはさっさと廊下を歩いていく。

 笑顔を作ることが誰かを喜ばせる、というケスリーの発想が、リージャにはよくわからなかった。笑顔はリージャにとって、あまり見慣れないものだった。島の人々は滅多に笑わないし、イルヴィルもそうだった。この屋敷でも、よく笑うのはケスリーやフュラス、時折アンドゥールが微笑むぐらいだ。屈託のなさすぎるケスリーの態度に、最初の頃、リージャは喜ぶどころかひどく警戒していたことを思い出す。だが、ある程度ケスリーと打ち解けられるようになってからは、その朗らかさにはどこか安心感を覚えている部部があるのも確かだった。自分が笑うと、同じように、イルヴィルが安心するだろうか、と思う。考えたが、リージャには結論が出せなかった。

「おお、これがイルヴィルから送られてきた日記か? 案外沢山あるな」

 館の中をうろついていたらしいヴォルブが、ケスリーの腕の中の書類の束をのぞき込んだ。

「これ、日記ってやつなんですか?」

「ああ、まあ、マメなあいつのことだから島での生活や竜の飼育の記録もつけてるんじゃねえか」

「うへえ、大変だなあ。俺なんか字も読めもしないから、毎日文字を書かなきゃなんない生活なんて、想像もつかないですよ」

 肩をすくめると、ケスリーは他にも運び込む荷物があるからと、書棚に紙束を置くとそそくさと書斎を出ていった。リージャはその隣に、自分の持ってきた分を並べる。

 ケスリーの、誰に対しても変わらない態度は、時折タマラやアンドゥールにたしなめられていた。使用人は本来、こんな風に主人やその客人に対して気軽に口を聞くことは許されない立場にある。イルヴィルはそういったことにこだわらない、特別な人なのだと、リージャは聞かされていた。

 ヴィートトクの一族は家系図をたどると王族につながるような本来の貴族とは違い、祖先は平民であるのに加え、イルヴィル自身があまり社交的でなく用事がなければ滅多にこの屋敷から出ない性格であるため、長く仕える使用人たちと距離が近いのだと、以前アンドゥールはリージャに説明した。

「ですから、外からお客人がいらした際には、お客人の前に姿を見せてはなりませんよ。顔を見せて良い使用人は決まっているので」

 商人であるヴォルブは、時折屋敷を訪れる貴族の客に比べると身分は低いということになってはいるが、タマラやフュラスたちは少なからず遠慮をしている。当のヴォルブは気にしないで良い、と言っている。

「俺は貴族さまと違って、堅苦しいのが苦手だからよ」

 ケスリーの後を追って部屋を出ようとする前に、リージャは勝手にイルヴィルの書斎に入り込んで運び込んだ書類を手にとっているヴォルブを見上げた。視線に気付いて振り向いたヴォルブと目が合う。

「ほんとに竜の記録が混じってるぞ。かなり詳細に記してある。よく王都で取り上げられなかったな」

 その言葉の意味がよくわからず、リージャは思わず首を傾げた。竜の記録の書類であるはずだとヴォルブ自身が言ったのではなかったか。ヴォルブが軽くため息をつく。

「もしも内通者があいつなら、この書類の束の存在を知っていて放っておくはずがないだろうよ。そうじゃないなら、まあ、あいつの性格上、この書類が何であるかなんて一々他の誰かに吹聴するとも思えねぇし、何も起こらねえんじゃねぇか」

 暫くの間その言葉の意味を考えて、リージャはようやく理解がいき、小さく息を呑んだ。ヴォルブはケスリーを試したのだった。

「……そんな顔すんなよ。正直、俺もイルヴィルと付き合いが長い分この屋敷の連中とも親しいし、疑いたくねえ気持ちのが強い。でもアンドゥールがああ言うんだ……あいつがそう言うなら、そうなんだろうし、調べないわけにはいかねえだろ」

 リージャは頷いた。元より、アンドゥールの疑念やそれに伴ってヴォルブがしようとしている調査を否定するつもりはなかった。ただ、それをわかっているつもりでも、こうして目の前でケスリーに具体的なかまかけが行われるのを目にすると、戸惑いが出てしまうだけだった。

「しかし、それにしてもすごい量だな。さすがというか、なんというか……貴重な資料だから本当に盗まれたら大損失だ。まああいつのことだから自分で記したことは殆ど頭の中に入っているんだろうが……」

 ヴォルブは手早く紙の一枚一枚に目を通していく。紙は様々な種類のものがあり不揃いだったが、そこに並んでいる文字はどれも細かくみっちりと隙間なく配されていた。

 リージャは島でのイルヴィルのことをぼんやりと思い出していた。リージャの仕事は村人たちが担う仕事の中でも一番下っ端の作業で、白い悪魔から直接なにがしかの指示を受けたりすることは殆どなかったので、白い肌の人々の言動に注意を払ったことはあまりなかったから、イルヴィルがいつ島に来て、どんな働きをしていたのかについて、細かいことをあまり知らなかった。鞭や武器を持って脅しながら島民の労働を監視する役割以外で、白い人が村人たちの作業場まで足繁く通っていることはあまりなかったような気がするが、イルヴィルは時折労働者たちの傍までやってきていたように記憶している。だからこそ、イルヴィルは村人から虐げられていたリージャの存在に気付いたのだった。イルヴィルは村人の労働の様子を見ていたのではなく、竜を飼育するにあたっての情報を収集したり記録していたのかもしれない、と今になって気付いた。

「まあ、とにかくお前は、仕事に戻れ、何かおかしなことが――とくにこの書類に関して、何かおかしなことがあったら、すぐに知らせてくれ」

 リージャは静かに頷くと、ヴォルブに背を向け書斎を後にした。

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