第三章 -6

「部屋の外に誰もいないか」

 タマラの言いつけで湯桶を持ってアンドゥールの部屋に入るとヴォルブがいたので、リージャは思わず目を見開いた。

 初めて入るアンドゥールの部屋は、リージャがタマラと共有している寝室よりもわずかに広く、化粧台やデスクもしつらえてある、幾分か小綺麗な部屋だった。カーテンは閉められていて随分薄暗いが、ベッドに敷かれている布団やシーツは清潔感のある白であるのがわかった。その傍らで、ヴォルブは丸椅子に腰掛けている。

 リージャはついさっき、タマラから客人用のベッドメイキングも命じられてはいた。だが、てっきりアンドゥールを看てくれる医者でも来るのかと思っていたのだ。

 予想外の事に驚きながらも、リージャは頷いた。まだ朝の早い時間で、フュラスたちはそれぞれの持ち場で仕事を始めたばかりだ。タマラは厨房にいる。

 リージャの返事を確認すると、ヴォルブはベッドの方へ振り向いた。

「アンドゥール、大丈夫だ」

 その言葉に、再びリージャは息を飲んだ。あれから更に数週間が経ち、アンドゥールは一度も意識がないままだと聞かされていた。ベッドでかすかにアンドゥールが身じろぎでもするような気配が、確かに、あった。

「無理して動くな、そのままでいい」

「ヴォルブ、さま……申し訳、ありません」

「謝るのは俺の方だ、自分でなんとかするなんて大口叩いておいて、お前たちをこんな目に遭わせてしまった」

「いいえ、ヴォルブさまのせいではないのです」

 切れ切れだが、確かにアンドゥールの声だ、とリージャは思った。何を言っているのかリージャには理解できなかったが、しかし、この口振りは、今初めて目覚めた様子ではないことだけは確かだ。狼狽して、リージャはベッドとヴォルブの横顔を交互に見やる。その様子に気づいたヴォルブが、ちらりと一瞬だけリージャを見やり、小さく頷いた。

「竜小屋に不審者が闖入した日から、時折、領内の見回りをするようにしていました。あの不審者たちが、どこからこの屋敷に侵入したのかも調べるつもりでした。それであの日も畑の方の様子を見に行っていました」

「そこでまた竜泥棒に出くわしたってわけか」

「いえ……あの日の侵入者と同じ人物であったかはわからないのですが……」

 そこまで言い掛けて、アンドゥールは急に咳込んだ。年老いてはいるがこれまでは健康であったアンドゥールの随分と苦しそうなその音に、リージャは理由がわからないまま身をすくめた。

「無理をするな、辛いなら今日はこれで……」

「いいえ、ヴォルブさま、これだけは何としてもお伝えしなければ」

 掠れた、吐息混じりの、しかし有無を言わさぬ気迫の込められた声に、ヴォルブが思わず押し黙った。

「この屋敷内に、内通者がいるのです」

 再び軽くアンドゥールが咳込むのと、ヴォルブが息を飲む音が重なった。

「それはつまり……この屋敷にいる誰かが、竜泥棒の侵入を手引きして、あまつさえお前をこんな目に遭わせたっていうのか」

「畑の裏道に沿った塀には、水や土を運ぶ時のための通用口があるのです。今は畑を休めていますから、そこはずっと施錠がされていたはずなのです。数日前にも施錠を確認しています。なのにあの日、閂が明らかに人の手によって抜かれて、そしてちょうどそこから、男が二人、入ってきたのです」

 アンドゥールが説明を続ける中、リージャはその直前のヴォルブの言葉の意味を反芻し、遅れて理解し、そしてその事実に愕然としていた。

「それでずっと、意識がないふりをしていたんだな?」

「畏れ多いことではございますが、ヴォルブさま以外にこうして頼ることができませんでした……」

「それはいい、留守中のこの屋敷ことをイルヴィルから頼まれているんだ。それにやはり、あの日に闖入者をわざわざ見逃した俺の失策だ」

「いいえ、ヴォルブさま」

 振り絞るような声音で、アンドゥールがヴォルブの言葉を遮る。

「未だ信じがたい思いでおりますが……私の判断で雇用しこの屋敷に残した使用人の中から、内通者が出たのです。主人であるイルヴィルさまに仇なし国からの命で預かっている竜を横流ししようと企んだ不忠者が……これはひとえに私の責任です」

「あまり自分を責めるな……責任の所在を追求してる場合でもねえしな……」

 一つ、ほんの小さなため息をついて、数秒、ヴォルブは考え込むようにうつむいた。

「とにかく、お前の身の安全を確保しなけりゃならねえ。とは言え俺の私兵をここに連れてくるわけにもいかねえし……俺がここに滞在してる間は多少の牽制にはなると思うが……」

「ヴォルブさま、どうか、リージャさんのことをお守り下さい」

 突然、自分の名前が出てきて、リージャは弾かれるように顔を上げた。

「最初の闖入者を一番に目撃したのはリージャさんです。今回も倒れている私を見つけたのはリージャさんでした。下手人に顔は見られていないとは思いますが、ともすれば狙われてしまう可能性もあります」

「……考えたくはないが、危険はあるな」

「旦那様の留守中にリージャさんに何かあれば、申し訳が立ちません」

 再び数秒の沈黙があった後、ヴォルブは顔を上げ、何かを決意したように小さく頷いた。

「俺はしばらく、イルヴィルの代理という体でここに滞在する。アンドゥール、お前はもうしばらくこのままの状態で眠り続けろ。内通者が誰か引き続き調べる必要があるが、取り急ぎイルヴィルには早馬で知らせるぞ」

「旦那さまのお戻りの日程が決まったのですか」

「島を立つのは予定より早くなりそうだと連絡が来ている。だがもしかしたら、王都で足止めを食らうかもしれねぇな……」

「島でのお仕事に何か問題があったのでしょうか」

「いや……ちょっとな……とにかくお前は絶対安静にして怪我を直すことと身を守ることだけ考えろ。それからリージャ」

 自分の方にゆっくりと向き直ったヴォルブの真剣な目を、リージャも黙って見つめ返した。

「お前も、しばらくはあまり館から出ないようにしろ。竜の散歩以外で外に出る用はあまりないだろう」

 リージャが頷くと、ずっと気の張った顔をしていたヴォルブの口元が、ほんの少しだけゆるんだような気がした。そして、ごくごく自然な動きで、腕が伸びてくる。頭をなでられて、それがヴォルブにとっては軽い動作のつもりなのだろうが、しかし随分と強く頭を揺さぶられているような気がして、リージャは唐突に、イルヴィルのことを思い出した。リージャの顔をのぞき込みながら、時折頭に乗せるその手の平は暖かく、そして、多少の遠慮があるかのような優しい撫で方だった。石を並べ新月の数を数えてその帰りをまっていたのに、結局はその数えた数とは関係のない日に、イルヴィルは帰ってくるようだった。

「もうすぐイルヴィルが帰ってくるぞ」

 囁くようにそう言われ、リージャは衝動的に、力強く頷いた。

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