第三章 -5

 一晩降り続いた雨はまるで嘘だったのかと思うぐらい翌朝にはあっさり晴れ渡り、翌日、翌々日と日が経つにつれ、ずぶ濡れだった地面もまた元のように乾いていった。だがアンドゥールの意識は戻らないままだった。医師の指導に従ってタマラが主だって看病にあたっているため、屋敷の掃除や、厨房に火を入れる仕事はリージャ一人で行っている。急激に増えた仕事量に追われて最初の数日は竜小屋に向かうことすらままならなかった。その日、薄暗く、屋外の空気よりはわずかに蒸気で暖められた、パイプの音のうるさい小屋に入り込んだ時、リージャは随分と久々にやってきたような奇妙な気分になった。久々であったにも関わらず、あの竜小屋特有の生臭さは以前ほど強烈な圧迫感を伴わないことにも気付いた。すっかり忘れていた過去のケスリーの指摘をぼんやりと思い出して不思議な心地になっていた。その日の竜小屋の当番はザルフで、黙々と汚物を吐き出していた。突然やってきたリージャの姿に、片方の眉を器用につり上げていたが、相変わらずの無表情は何を考えているのか、リージャにははかりかねた。きゅう、と雛が鳴いた。

「散歩に行くのか。あまり遠くへ行かないように気をつけろ」

 珍しくザルフが話しかけてきたことに、リージャは一瞬、たじろいだ。その間に喜んでいる様子の雛がリージャに駆け寄ってきた。子竜は動かない。リージャは少し躊躇ったあと、後ろ手で小屋の扉を閉め、ゆっくりとザルフに歩み寄った。またザルフの目線ががわずかに動き、それを見やりながら、リージャは唾を飲み込んだ。

「どうした」

「ぅ、ザルフ、ザルフ」

 ザルフの名前もやはり発音が難しい。異国の言葉を話すには、本来なら十分な発話の練習が必要なのだろうと、リージャは思う。

 リージャが声を発したことに、先日のようにザルフはあからさまに驚いたりはしなかった。

「ザルフ、ぃ、わない、な、ぜ、なぜ」

「言わない? 何を」

「リー、ジャ、しゃべる、しゃべれる、ザルフ、言わない、なぜ」

 ザルフがわずかに目を見開いた。

「お前が喋れることを、誰かに言ってほしいのか」

 その言葉に思わずリージャは激しく頭を振って否定した。目をそらしたその隙にザルフが軽く、耳を澄まさなければ聞こえないほどのため息をついている。直後にパイプのカンとなる音が響いた。

「知られたくないから今まで黙っていたんだろう。なら、誰にも言わない」

 当然のことのようにそう言い放つザルフに、今度はリージャが目を見開く番だった。ヴォルブとの事があったので、そんな風にザルフが思って、頼んでもいないのに黙っていてくれるとは思ってもみなかったのだ。

「あ、あ、あり、ありが、と、ありがとう……」

「お前はアンドゥールさんを助けるために頑張った」

 ただアンドゥールが倒れていることを知らせただけだ。しかも、犯人に関係するかもしれない情報に心当たりがあるのに、如何ともし難く誰にも伝えていない。それを思って、リージャは若干の後ろめたさを感じ力なく首を振ったが、それにはザルフは反応しなかった。

「ところで、お前は最近具合でも悪いのか」

 ザルフの突然の問いかけに、リージャは思わず顔を上げた。具合が悪いというのは、風邪を引くことを指すのだろうか、と思う。その定義が未だによくわかっていないが、いつもタマラに叱責されるときのような兆候は特に今は感じていなかった。首を横に振ると、ザルフが小さく首を傾げた。

「なら、良い。最近、少し歩き方がおかしい気がしたから」

 その言葉に、リージャははっとして、どう反応するべきか困り果てた。最近ずっと内股が痛んでいて、かばうような歩き方になっていた自覚はあった。じっとしているときは我慢できないほどの痛みではないが、歩くと痛む部分が擦れ合って、余計に苦痛を感じるのだ。

「……やっぱり何か困っているのか」

 ためらいながら、リージャは小さく頷く。

「足が痛むのか?」

 もう一度頷く。

「どこだ。足首か? 膝か?」

 リージャは痛んでいる内腿を、スカートごしに指さした。それを見て、ザルフがわずかに顔をしかめる。

「それは……そこか……。タマラさんに相談してないのか」

 リージャは首を振った。タマラはずっとアンドゥールに付きっきりで、リージャは自分のことで煩わせることに引け目を感じたし、実際にこのことをどう伝えればいいのかもよくわからなかった。

「……どんな風に痛む? 説明できるか」

 リージャは考えた。何か適切な言葉はないかと思いを巡らせたが何も浮かばなかった。しばらく考えた後、リージャはその場にしゃがみ込んだ。ザルフと、雛がリージャの様子を注視している。藁をかき分けて固い地面を掘り当てると、リージャは左手の手の平をそこに押し当て、そのまま前後に引きずった。それを見たザルフが、小さく唸った。

「皮膚が擦れるような痛さか。打ち身や打撲のような痛みではないんだな。いつから痛むか思い出せるか」

 リージャは立ち上がりながら思いを巡らせた。立ち上がった時にもまたひりひりと内腿が痛む。

「アンドゥール、さん、たおれた、日」

「あの、雨の日か」

 はっきりと言い切れる自信はなかった。だがあの日より前は少なくとも痛くはなかったと思う。ザルフがほんの数秒考え込んで、それから、ひらめいたように軽く口を開けた。

「お前、あの日、竜に乗っていたな。その格好で」

 リージャは首を傾げる。その格好、というのが何を指しているのかがよくわからなかった。今日と全く同じ服ではなかったと思う。同じような、薄い木綿生地のワンピースであったことは確かだが。だがリージャの反応にはかまわず、ザルフはため息をついた。

「女性の貴族だって馬に乗るときはトラウザーズを履くのに、あの固そうな竜の鱗に素肌で跨がったら……それは痛いだろう……」

 ザルフの言葉にリージャは困惑しながら首を傾げた。自分の内股が痛んでいる理由を、ザルフは把握したらしいが、リージャにはよくわからないままだった。

「タマラさんに伝えておくから、後で見てもらえ。それから、しばらく竜には乗るな」

 リージャは曖昧に頷いた。そもそもあの日は特別で、リージャは二度と子竜に乗るつもりはなかったのだが、ザルフはそれだけ言うとふいと目をそらしたので、そこで会話は終わってしまった。

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