第三章 -4

 庭仕事や馬の世話をするための荷台にアンドゥールが乗せられて戻ってきたとき、すっかり天気は崩れていて、土砂降りの中、アンドゥールも、荷台を引くザルフとフュラスもずぶ濡れになっていた。

 アンドゥールはすでに意識を完全に失っていた。ケスリーが医者を呼びに馬を走らせ、館ではその戻りを待つしかなかった。

 気温はますます下がり、外の景色は陰鬱な灰色で、雨音ばかりが耳につく。

「最初にアンドゥールさんを見つけたのはリージャだったんだよね」

 使用人用の食堂で、フュラスがリージャにそう問いかけた。

 夕刻になっていたが、太陽が出ていないせいで正確にはどれぐらいの時間なのかがリージャにはよくわからなかった。タマラがアンドゥールに付き添っているため、フュラスが有り合わせのものを軽く煮込んだスープとパンを三人で食している。厨房の世話のできる使用人はイルヴィルが島に向かってからタマラ以外は皆暇を出されていたのだった。

 フュラスの問いかけに、リージャは小さく頷いた。フュラスの作ったスープは不味くはなかったが、タマラのものに比べると随分と味が濃かった。

「どうしてあんなところに彼が倒れているのを知っていたの」

 リージャは困ったようにうつむいた。散歩の途中に丘の上に立った竜が見つけて知らせたのだが、それを言葉に出さずにフュラス達に説明するのは極めて難儀だった。この数ヶ月の間に、やむを得ず何度か言葉を発したが、それでもこの状況でそうするのにはどうしても抵抗があった。緊張で、膝の上で握り拳が震える。そのとき、ザルフが口を開いた。

「リージャは竜を連れて俺に知らせに来たんだ。散歩の途中だったんだろう。丘の上からだと畑の方まで見渡せるし、リージャは特別に目がいいと前々からタマラさんも言っていた」

 リージャは目を見開いて思わずザルフを見つめた。ザルフはリージャが、本当は言葉を話せないわけではない事をつい先ほど知ったはずだった。自分の口で説明しろと言われるかと思ったのに、ザルフは推測を口にすることでリージャが声を出さなければいけない状況を回避させてくれたのだ。リージャの視線に気付いているのかいないのか、いつも通りの無表情でザルフはフュラスの方を見ている。

「そうなの? リージャ」

 フュラスが確認するので、リージャは慌ててそちらに向き直って頷いた。

「丘の上からアンドゥールさんが倒れているのを見つけて、すぐにザルフに知らせに来た?」

 フュラスの質問の形が、いつもの首を縦横に振るだけで良いものになったことにほっとしながら、リージャは首を横に振った。丘の上からでは倒れているのが本当に人なのかすらわからなかったので、一度そこへ向かったのだ。

「じゃあ、一度アンドゥールさんの傍まで行っているんだね。その時、まだアンドゥールさんには意識があった?」

 リージャは頷く。

「そのとき、アンドゥールさんは何かリージャに言った?」

 リージャは即座に首を縦にも横にも振りかねて視線をさまよわせた。アンドゥールは確かに言葉を発したが、人を呼んでほしいという以外にリージャに言った言葉の意味と理由が、いまいちリージャにはよくわからず、それをフュラスたちに説明する術が思いつかなかった。

「例えば、誰がアンドゥールさんにあんな怪我をさせたか、言っていた?」

 リージャはこの質問には即座に首を振った。そんな話はアンドゥールはまったくしていなかった。この質問で、リージャははじめて、あの怪我が誰か他人に負わされたものなのだという考えに至った。動転していて、今の今まで何故アンドゥールがあんな怪我をしていたのかなど考えていなかったのだ。それに、リージャの経験と知識では何があるとあんな怪我をするのかもよくわからなかった。だがザルフとフュラスは最初から、誰かがアンドゥールを襲ったという予測をしているようだった。

「リージャが駆けつけた時にはアンドゥールさんはもう意識が朦朧としていたのかな」

 リージャはほんの少しだけ躊躇って頷いた。多分体力の限界だったのだろう。何か伝えたいことがあった様子だが、それがかなわなかったのだ。リージャのその反応を見て、フュラスがテーブルにひじを突き手を組んだ。何かを考えるように沈黙する。珍しく、ザルフが先に口を開いた。

「やはり、もう外に逃げたんじゃないのか。中に侵入してしまったなら……多少でも意識があったアンドゥールさんをそのままにはしないだろう。何度も見回ったが屋敷にも厩舎にも竜小屋にも荒らされた形跡はない」

「通用口にも鍵がかかっていなかったしね。中にいるなら工作のために内側から鍵をかけただろうけど。侵入しようとしたらアンドゥールさんに出くわして動転して……刺した。そしてそのまま逃走した……といった具合か……」

「しかし、どうやって敷地の中に入ったのか……」

「もしかしたらアンドゥールさんが敷地の外に出ていて、命辛々通用口から中に入って倒れたのかもしれない……雨で血の痕が流れていなかったらその辺ははっきりするんだけれども……いずれにせよ、何故アンドゥールさんがあそこにいたのかはよくわからないな。今朝、何か言っていた?」

「俺は聞いていない。多分ケスリーもだと思う」

 二人の会話を、リージャは黙って聞いていた。屋敷に部外者が侵入したのはこれが初めてではなく、先日の闖入者は竜小屋にまで迫っていたのだ。そしてそれを知っているのは、屋敷の中ではアンドゥールとリージャだけだった。今日の一件と、アンドゥールが誰にも言わず畑の周辺を一人で歩いていたのは何か関係があるのかもしれない、という考えがリージャの頭の中に浮かんだが、同時に、闖入者のことはヴォルブから固く口止めされていることを思った。

「とにかく、アンドゥールさんが目を覚ましてくれるのを祈るしかないな」

 フュラスの言葉に、リージャははっとする。アンドゥールさえ全快してくれれば、すべてが解決するような気がした。

「だが……もし、しばらくアンドゥールさんが目覚めなかったら……」

「ザルフ、滅多なことを言わないでくれよ」

「だがあの怪我だ。しかも目が覚めたからといってすぐに仕事に戻れるわけでもない。今日のこの一件、このままにしておいていいのか」

「誰かに報告すべきだと言いたいのかい? でも、じゃあ、誰に? ヴィートトクの本家に? それともまさか王宮に? 僕たちだけじゃ何もできやしないよ」

 リージャは不安な気持ちで二人を見つめた。執事以外の使用人たちは、身分が低くとても遠方にいるイルヴィルの親類や、まして王宮などに直接連絡を取る方法など持ち合わせていない。こういった緊急時に何か屋敷の外に向けて行動を起こす権利があるのはアンドゥールだけだった。そのアンドゥールが倒れた今、為すべきことはなにもないのだ。

「そんな顔しないで、リージャ」

 フュラスが、急にリージャの顔を見つめて微笑んだ。いつもの、穏やかな笑みだった。

「大丈夫、アンドゥールさんはきっとよくなるよ。リージャが心を込めてお祈りしたらね」

 リージャは曖昧に頷いた。「祈り」というのは、フュラスたち大陸の人間が信仰している宗教上の行為のことらしいが、リージャはこれについて理解できていなかった。しかし、今は形はどうあれ、アンドゥールが立ち直るのを待つしかないことだけはわかった。不安な気持ちを拭えないまま、リージャは目を伏せた。

 窓の外はすっかり暗くなっていて、一向に弱まらない、窓を叩く雨音だけがいつまでも屋敷を包んでいた。

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