第三章 -3

 どん、どん、と、足を踏み出す度に、振動が伝わって、股が擦れ腰の骨がわずかに打ち付けられるような痛みを覚える。しかしそれはなんとか堪え、体勢を崩して転落しないように気をつけることに意識を集中した。滑り落ちないのに丁度いい姿勢を見つけたところで、徐々に子竜が走る速度を上げていく。

 子竜は、来た道を引き返すのではなく、屋敷に向かうのに最短で、坂のない道を迷いなく選んで駆け抜けていた。冬の乾いた冷たい風が頬をかすめていく。今まで遠くから見ていた庭の風景が、信じられない早さでリージャの視界を通り過ぎていく。あっという間に館が目前に迫っていた。子竜が足を止める。左右を見回しながらどうしようか考えたリージャが何かを思いつくよりも先に、子竜が再びゆっくりと歩き出した。小屋に向かっているのだとすぐにリージャは気付いた。確かに、竜小屋か、馬小屋、どちらかなら必ず、馬丁の誰かがいるはずだった。この生き物の賢さに改めてリージャが驚くと同時に、何かが頬をかすめた。冷たい。一筋、濡れた。リージャは空を見上げる。灰色の雲はいつの間にか気配を濃くして、ほのかに薄暗くなっていた。雨だ。遠くで倒れたまま動けないアンドゥールを思って、リージャは焦った。

 もう一度、ぽつりと一筋リージャの頬が濡れたと同時に、ザルフが目の前に現れた。それを認めた子竜が足を止める。厩舎から戻るところだったらしく、鋤と桶を両手に持っていたザルフは、子竜とそれに乗るリージャの姿を見て、声は出さないが、目を見開いた。いつも無表情なザルフには珍しく、驚いたという感情の露わになった顔だった。

「リージャ、お前、一体……」

 困惑した様子で小さくそう漏らすザルフの前で、ゆっくりと子竜が腰を下ろした。その時に子竜の体は前後に大きく揺れ、慌ててリージャは首にしっかりと捕まり直した。慎重な速度で下降する竜の胴体の上で、リージャはアンドゥールのことをどう伝えればいいのか考えていた。ザルフをあの場所まで無理矢理袖を引っ張って連れていくのは無理である気がした。仮にそうしたとしても、もしザルフが一人でアンドゥールを担げなければ、またこの館まで無駄に往復する必要が発生する。子竜が完全に腰を下ろしたところで、リージャはその胴体から体を離した。地面が雨粒で濡らされ徐々に水玉模様を作り始めている。

 緊張で体が震えたが、リージャは意を決した。

「ふ、あ、は、はた、け、はたけ」

 最後に声を発したのはヴォルブと馬車に乗った数週間前のことだ。慣れていないせいで未だ喉は震えづらい。自分の発音が、この大陸の発話者のものとは乖離があることはわかるが、しかしずっと口にしたことのなかった異国語を、いきなり正確に再現することができなかった。

 ザルフは息をのんでいた。先日のヴォルブと同じ反応だった。それから、ゆっくりと注意深く、リージャの傍に歩み寄ってくる。リージャに声量がないせいかもしれない。

「畑、き、き、きて」

「畑?」

 確認するように、ザルフが問いかけた。リージャは頷いた。元々寡黙なザルフとこんな風に会話をする日が来るとは思わなかった。

「アン、ォ、アンォ、アン、ゥール」

「アンドゥールさんが、どうした」

「う、う、」

 頭の中で適切な言葉を探すが、焦る気持ちが生まれるほど考えがまとまらない。沈黙するわずかな間に、ぽつり、ぽつりと頬をかすめる雨量が増えていく。急に気温が下がったような感覚がした。

 ザルフがリージャの目の前で腰を下ろし、目線を合わせた。

「畑に、アンドゥールさんがいるんだな。助けが必要なんだな?」

 リージャは大きく数度頷いた。視界の端で自分の髪が降り乱れているのがわかる。

「どういう状況だ、具合が悪くなったのか」

「ち、ち、ち……」

 首を横に振りながらそう言うと、ザルフがしばらく考え込むように沈黙してから確認した。

「血? 怪我をしていて動けないのか」

 リージャが再び大きく頷くと、ザルフも大きく頷き返した。

「わかった、畑の方だな? フュラスさんに知らせてからすぐに向かう。お前は、竜たちを小屋に戻して館に戻れ。雨に濡れる」

 リージャは頷いた。それを確認したザルフは、小走りで厩舎の方へ戻っていた。そこにフュラスがいるのだろう。

 腕の中で雛が身じろぎをした。背後で子竜の立ち上がる音がする。リージャは黙って、その瞳を見つめた。物静かで、無表情で、いつもと変わらない目に思えた。先ほどまでこれに乗ってこの屋敷の庭を駆け抜けたことが、まるで夢だったのかと思うほどだった。だがそこから目を離して歩きだそうとしたところで、内股が妙にひりひりと痛む感覚がした。何事かと一瞬足を止め、それから、しばらく考えて、この子竜の背に乗っていた間に固い鱗と擦れていた部分が痛むのだと気付いた。リージャは振り返るが、もはや子竜はリージャの方を見ず、小屋に向かって歩き始めていた。それと同時に、雨足が急激に強くなっていく。リージャは慌てて子竜の尾を追った。

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