第三章 -2

「リージャさん、必ず、竜と一緒に、戻って下さい。まだこの辺りに、……がいるかも、しれ……」

 アンドゥールの声は、だんだんと小さくなっていく。最後の言葉の意味がよくわからず、リージャは首をひねったが、もはやアンドゥールは脂汗をかいたまま目を閉じかけている。竜と共に館へ急がなければならない。リージャは傍らで疲れきっている雛を抱き上げた。膝を伸ばすと、自分も全身が疲労しているのを自覚した。いつもなら雛を抱えるのは造作もないのに、随分と腕が重い気がする。

 駆け出そうとしたリージャは、後ろから何かに引っぱられるような感覚がしたと共に、よろけた。地面にそのまま倒れ込みそうになったのを、何とか踏ん張ってこらえる。それから慌てて振り向き、自分の服の裾を子竜が食んでいるのを認めた。思わず目を見開いた。子竜がリージャの行動を気にかけたり、静かに寄り添ってくる事はこれまでにも稀にあったが、こうやって身体的な接触を、しかもリージャの行動を制限するような行為を働いた事は一度もなかった。困惑したリージャと、落ち着いた様子の子竜の視線が絡み合う。

 リージャは、いつも雛がごねるように、子竜もこの距離を全力で走ってきた疲労でもう歩きたくないのだと主張しているのかと思った。それでも、リージャはアンドゥールの言いつけに従って、二頭を館に連れ帰らなければいけなかった。リージャは裾から子竜を振り払おうとする。だが子竜は更に強い力でリージャを引っ張った。明らかな意志で、リージャをこのまま走らせまいとしていた。理由がわからず棒立ちするリージャの様子を見て、自分に注意を払っていると認識したのか、子竜はくわえていたリージャの服の裾をそっと放すと、そのままその場にゆっくりと座りこんだのだった。戸惑いながら、リージャは一歩、子竜に歩み寄って、静かにその目を見つめる。この、人間にとっては十分大きいと言えるがまだ子供であるはずの生き物は、いつも静かな目をして、声も一切発しない。対して不必要とも言える頻度で騒ぎ立てる赤ん坊は、リージャの腕の中でぐったりとしている。子竜は数秒リージャの目を見つめ返した後、長い首をくい、と反らした。リージャの視線はそれにつられて動き回る。思えばこの生き物は時折、こうして声を出さずにリージャの気を引く事が何度もあった。それは、リージャ自身が、屋敷の大人たちに意思を伝える時の形に似ているような気もした。子竜は何度か、頭を大きく降った。数度それを繰り返されて、リージャは、子竜が自分の背中をリージャに示したいのではないかと思いついた。そうすることによって何を伝えたいのかはまだ不明だったが、リージャはとりあえず、座り込んでいる子竜の隣にしゃがみ込んだ。それを見て、子竜は首を振るのを止める。ぴたりと止まったまま、しばらく動かない。途方に暮れて、リージャも沈黙した。ただのわがままではないとは思う。この子竜はかなり賢いのではないだろうかと、リージャは薄々思っていた。例えばヴォルブが竜小屋にやってきて雛が興奮していた時、困惑するリージャにその理由を示したことがあったし、今日も、遠くで倒れているアンドゥールをリージャに知らせ、リージャがそう命じたわけでもないのに、リージャよりも先にアンドゥールの元へ駆けていったのだ。だがこの行為はどうしてもリージャには理解ができなかった。

 そのとき、ずっと静かにしていた雛が、突然、リージャの腕の中で動き始めた。もがいて腕の間から脱出しようとしている。虚を突かれたリージャはそれを押しとどめる事ができず、雛はあっという間に抜け出し、そして、子竜の背中によじ登った。それと同時に、子竜が再び、先ほどと同じように首をそらす。それを見て、リージャは頭の中に一つの考えが浮かび、息をのんだ。

 ヴィートトク邸には馬が何頭もいるが、殆どが馬小屋の中でずっと閉じこめられている。だがそれは本来、人を乗せて走るものだというのをリージャは知っている。馬ほどの広さはないが、この子竜の背中はリージャがまたがるには十分な大きさであったし、先日ヴォルブに聞いた話を総合すれば、この大陸の上層部の人々は、この子竜をもっと大きく成長させて、そのように使役することを最終的な目的としているのだ。リージャは馬という生き物に今まで縁がなかったし、竜を白い人々が欲している理由もよく理解していなかったので、今の今まで自分がそれに乗るということなど考えたこともなかったのだった。だが、もしかしたら、この子竜の行動の意味は。

 一刻も早く館に戻らなければならない今、疲れ切っているリージャの足と、この距離では、時間がかかりそうだった。子竜はここに来るまでも、リージャよりずっと速く走っていたし、今もリージャや雛のように特別に疲れている様子はなかった。もしもこの生き物が人間一人と雛竜一頭を乗せて走ることができるのであれば、リージャが自分の足で走るよりもずっと効率よく、今為すべきことを成すことができるかもしれない。

 確信は持てなかったが、自分の勘にかけてみようかと、リージャは思った。今まで一度も触れたことのないこの生き物に、体を預けるのは、やはりまだ恐ろしい。だが、脅かさないように慎重にすれば、子竜が意図してリージャを傷つけるような行為を働くようなことはない、とも思った。

 すでに子竜の背中によじ登った雛竜は大人しくしていた。リージャはまず、触りなれた雛竜の頭にそっとふれ、それからその背中、そしてそのまま、子竜の背に触れた。ずっとリージャの腕の中にいた雛の鱗がわずかに温かかったのに対して、子竜の背の鱗はひどく冷たかった。鱗の一枚一枚も、雛よりずっと堅く、大きい。初めて触れるそれに、なぜだか胸が昂ぶった。子竜は何の反応もしない。それから意を決し、リージャは大股を開き片足を振り上げ、その背中にまたがった。いつの間にかまた成長していた子竜は、座っていても、その背中はリージャの臍ほどの高さがあった。おそるおそる、そこに腰を下ろす。そうすると、固くて分厚いと思っていた鱗群の下に、太い背骨が通っているのを感じた。固すぎて座り心地は余り良くなかった。リージャが腰を完全に落としたと思ったと同時、子竜が身じろぎをした。リージャは緊張で身を固くした。その瞬間、突然体がぐらりと激しく揺れて、リージャは反射的に、目の前にあった子竜の首にしがみついた。雛が悲鳴をあげ、リージャの服の裾に爪を立ててしがみついている。思わず固く目を瞑り、その間に何か、体がふわりと上昇するような感覚に包まれた。

 気付くと、リージャの視界は見慣れないものになっていた。今のリージャの目線は、直立したイルヴィルやヴォルブと同じぐらいか、もしかしたらそれよりも高いかもしれなかった。足下にいる倒れたままのアンドゥールが随分と遠くに見える。子竜はリージャを背中に乗せ立ち上がったのだ。リージャは唾を飲み込み、おそるおそるしがみついていた子竜の首から右手を離すと、腕がないせいでどこにも掴まれずに不安定な状態でいる雛を片腕で抱く。首に回したままの左手の指先で喉元をさすってやると、子竜はゆっくりと走り出した。

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