第三章

第三章 -1

 日を数える石の数は六十を過ぎて、二度目の新月の日も過ぎ去っていた。春が近づいているとアンドゥールは言っていたが、リージャにとっては未だ慣れない寒さに耐えなければいけない季節に変わりなかった。

 その日、空の殆どが灰色の雲に覆われていた。午後には雨が降りそうだ、と早朝からケスリーが予測していた。正午が過ぎても降り始めてはいなかったが、青い空は全く見えず、真昼だというのに薄暗い。

 雨が降る日は、竜たちの散歩はしないことになっていた。

「リージャも竜も、雨に濡れたら風邪をひいてしまうかもしれないからね。特に子竜は、最近はだいぶ元気そうに見えるけど、ずっと病弱だったし、こじらせてしまったらどうなるかわからないよ。旦那さまが留守の間に何かあったら大変だ」

 フュラスのその言葉でそういう決まりになったのだった。

 この日の竜小屋の担当もフュラスだった。ケスリーが予想した午後になっても雨はまだ降っていなかったが、真昼なのに空が薄暗いのには変わりがなかった。リージャは雨が本当に降るのか、降るならいつからなのか予想がつかなかったし、今日は藁を敷き替える日ではないから必ずしも竜たちを外に出す必要もなかったので、散歩は中止にするつもりだった。

 だが一度小屋に顔を出してそのまま立ち去ろうとしたリージャに、雛が猛烈に怒りだした。きゅうきゅうと甲高い叫び声を上げ、小屋の中を跳ね回っている。その興奮した様子に、いつものように蒸気パイプの傍で暖をとりながらうとうと眠っていたらしい子竜もゆっくりと体を起こし始めた。

 日課の散歩が始まるのだと思って小屋を出た二頭はどんどんといつもの順路を突き進んだ。子竜の足取りは軽く、徐々に体が大きくなり体力もついてきた雛もそれにぴったりとくっついていく。慌ててそれを追ううちに背後で小屋が遠ざかっていく。子竜の歩みを止めるべきかリージャは一度迷って、それから、自分は竜たちと意思の疎通を図ろうとしたことがないことに気付いた。二頭の竜、特に雛の方に何らかの感情があり、リージャに何かを訴えようとしていることがあるのはわかっているが、リージャの方から何かを働きかけたことはないのだ。子竜の首を押さえて歩みを無理矢理止めれば、おそらくは諦めて小屋に戻るだろうが、リージャは未だ、子竜の鱗には直接は触れたことがなかった。その事実にたった今気付いたのだった。雛竜はいつもリージャに甘えてきたり、時には暴れるため、しばしば抱き上げる必要があったが、子竜はこれまでずっと非常に大人しく、そんなことをする必要がなかったのだ。

 ヴィートトク邸の庭は広く、見晴らしが良い。真冬でもまだ緑色を失っていない芝生はなだらかな丘に似た斜面を作っている。最近のこの二頭はそれを登るのを好んでいるようだった。子竜の小さく鈍い足音が、耳を澄ますと聞こえる。規則的で軽快な拍子を刻みながらゆるやかに走り出す兄貴分を追う雛の足取りも、最近では随分としっかりと安定してきて、もはや途中でリージャがそれを抱き上げなければいけないこともほとんどなくなっていた。トカゲのような尻尾を、歩調に合わせ左右にしなやかに振る二頭の後ろ姿をリージャはゆっくりと追う。竜は本来山に住んでいる動物だった。坂道を上りたがるのは本能なのかもしれない、と、先日のヴォルブとの会話を思い出しながら、リージャは推測した。急斜面ではないものの、坂道を歩きなれていないリージャの足では、この丘を二頭のように易々とは上れなかった。 すっかり十歩分以上の差がついてしまったところで、一番高いところへ上り詰めた子竜が、ふと足を止めた。それ自体はいつものことだったので、リージャは気に止めなかった。ただ、いつもなら後ろからついてくるリージャの様子を気にして振り向いて待っているのに、子竜は別の坂の上から別の、遠くの場所を凝視しているように見える。不思議に思って、少し小走りに残りの坂を駆け上がると同時に、雛が小さく、きゅうと鳴いた。

 ようやく追いついたリージャが丘の上で二頭の隣に立つと同時に、子竜が長い首を軽く、くるりとひねった。リージャの視線はそれにつられるように辺りをさまよい、子竜の遠い視線の先に目をやる。子竜が見ているのはずっと遠くの、屋敷の庭のはずれにある、畑だった。今は休んでいて荒地になっているが、広さとしては、島でリージャたちが耕していたのと同じぐらいの広さがあった。高い塀に囲まれたヴィートトク邸の庭の隅にあるそれは、随分と遠くにあり、リージャの目には、伸び放題になっている草や枯れ枝がまばらに散っているのが辛うじて見えるだけだった。戸惑いながら、リージャは目を凝らした。

 畑の一番奥、高い塀のすぐ傍に、見慣れない物陰があるような気がした。ややあって、リージャはそれが地面に倒れ込んだ人間である可能性に気付いた。この距離では確信が持てないが、地面に横たえている黒いそれがもし人間の背中だとしたら、決して放っておくわけにはいかない事態だ。

 いつもなら散歩はここまで来たら引き返して終わりだった。だがリージャはその先の下り坂を駆け下りた。底の薄い靴で斜面を駆けると、摩擦と、普段使わない足の筋肉を使うことで、じくじくと痛むような気がした。後ろから二頭がついてくるが、苦心しながら走るリージャに比べると軽快で、随分と慣れたような気配がする。すぐに子竜はリージャを追い越した。そのまま、リージャが目指している場所まで減速せずに走っていく。リージャを背後に取り残して子竜が走って行くのは初めてのことだった。雛はリージャと同程度に、斜面を走ることに苦労しているようで、リージャが一度振り向いたときに丁度、蹴躓いていた。それでも俊敏な動きですぐに体勢を整えると、再び走り出す。

 長距離を走り続けることに慣れていないリージャと雛が塀までたどり着いた時、子竜は倒れているアンドゥールの傍で静かに佇んでいた。リージャは息を飲み、その黒い背中に駆け寄る。動けないが意識はあるようで、やってきたリージャにすぐに気付いた。腹部をかばうよう背中を丸めている。

「リージャさん……」

 息が荒く顔面が蒼白だ。リージャはアンドゥールの傍にしゃがみ込む。今までに嗅いだことのないような臭いが鼻腔をついた。反射的に辺りを見回してから視線をアンドゥールの体に向け、その正体がすぐにわかった。アンドゥールがかばっている腹部は、ひどく血で汚れていた。黒らしゃを着ていたために、一目ではわからなかったのだ。よく見るとそれはかなり広範囲に渡って染みを作っていた。襟から覗いている白いシャツにも、細かい血しぶきのような痕が数か所ついていた。

 明らかに、アンドゥール自身が負傷して流している血だ。リージャは自分の体を傷つけられたことは度々あったが、こんな大量の、しかも他人の血を見るのは初めてだった。初めてだったが、これが放っておいてはいけない出血量であることは本能でわかった。狼狽して視線をさまよわせるリージャを落ち着かせようと、眉間に皺を寄せながら、ぎこちなくアンドゥールが微笑もうとする。いつもの穏やかな笑みの中に、苦痛を堪えるような強ばりが見える。

「リージャさん、申し訳ありませんが、館に戻って、人を呼んで、頂けますか」

 リージャは大きく頷いた。すぐに立ち上がろうとしたリージャに、絞り出すようにアンドゥールが再び口を開いた。

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