幕間
イルヴィル ー5
風が一筋吹いた。なま温い心地のする風だ。それでも体中にまとわりついた熱気が一瞬でも霧散すると、まるで見えない何かに縛られていたのかと思うぐらいに重く感じていた身体が、解放されるような心地になった。
それと同時に、頭上から落ちた木漏れ日が、揺れた。真昼の鋭い日光がイルヴィルの顔面を不規則に刺しては消える。思わず目を細め、手の甲を額にかざしながら、光の方角に目をやった。この島で最もよく見られる常緑樹は、大陸では見たことのない形をしている。高さ、幹の太さ、形、樹皮、枝の張り方、葉の形。
突然強い光が目に入ったことで、眼底が痛み、めまいに似た気持ちの悪さを感じた。
――睡眠が不足している。
目を閉じ、眼前が暗くなると同時に、どこからともなく、竜の雄叫びが聞こえてくるような錯覚に陥る。空耳だ、とイルヴィルは、自身に言い聞かせる。この三日ほど、ずっと心身が疲弊している。
島の夜が、無音であることはほとんどない。西からは波の音が、北の森、あるいは竜小屋からは、竜の遠吠えが聞こえてくる。それも、慣れてしまえば眠りを妨げるものではないはずだった。
四年ぶりの竜狩りが行われたのが三日前、そして、激しい戦闘になったのがその日の夕刻だった。
竜狩りは数日かけて行われる。探索の範囲を決め、周回し、遭遇した竜を捕らえる。数日に一度、一個体に遭遇できれば幸運な方であり、捕獲の方法はこの十年を越える開拓の中でほぼ確立されていた。四年ぶりの竜狩りとはいえ、動員された者たちは慣れた作業と心得て気構えていなかった。
その日、捜索を切り上げて集落へ帰る道中に遭遇したのは、小さな子竜を連れた母体だった。
子がいたからなのかはわからない。捕獲を試みたその成竜個体は未だかつてなく激しく抵抗した。突然の遭遇と、予想を超える暴れ方に、竜狩り隊は混乱を極めた。
「ラウナス、捕獲は諦める、大人の個体は殺してもいいと伝えろ」
そう指示した時に、わずかに自分の声が震えてしまったことをイルヴィルは何度も思い出す。
いつもよりも自国の兵も多めに動員していたことが幸いし、乱闘の末に成竜をし止め、その背後で狼狽していた未だ小さな――四年前にここから持ち帰ったときの子竜と、同じぐらいの大きさだ――三頭の捕獲に成功した。
島人に数人、大陸人にも数人、負傷者が出た。このことでここ三日、島人との関係が悪化しているのが悩みの種だった。不幸なことに、大陸人の負傷者には、ラウナスが含まれた。足を負傷し自由に動けなくなった彼の代わりに別の通訳を連れ出したが、ラウナスがこの島にいる大陸人の中で特別に自分に協力的な部類であったことを思い知らされた。
十六年も本国から離れた未開の島で暮らす者には様々な理由がある。形式上の所属は王宮だ。今はこの島で最も身分の高いシーゼルに、内心良い思いを抱いていない者がいても当然だった。ラウナスは彼の思惑や打算でイルヴィルに協力しているだけだ。
心身の疲弊に起因するものだろう。
そう自分に言い聞かせても、夜中に遠くから竜の鳴き声が聞こえてくる度に、睡眠が妨げられる。
林の奥の、開けた場所にたどり着いたとき、先客がいると思いもしていなかったイルヴィルは、思わず息を飲んだ。すぅ、という小さな音に、男が反応し、ゆっくりと振り向いた。
村長の義理の息子である男は、平均して大陸人よりは小柄である島の人々の中では、やや背が高く、筋肉質な体つきをしている。開拓前は漁に出ており、その腕を見込まれて娘の婿にと選ばれたのではないか、とイルヴィルは予測している。
漁は、支配層が許可を出した時にしか行わない。その腕は専ら竜の飼育に充てられている。そして、彼もまた三日前の竜狩りで負傷したため、この数日、労働を免除していた。
男は、先日、村長の家の前で話したときとは違い、イルヴィルの目をまっすぐに見つめてきた。無表情だった。男は一人で、イルヴィルも一人だった。
無視をしても良い状況だ。これが、大陸の、ヴィートトクの敷地内で、相手が身分の違う存在であれば、そうしていた。ここは大陸から遠く離れた島で、違う秩序が存在しており、あるいは秩序もなく、相手は明らかにイルヴィルの存在を意識して目を見ていた。しかし、イルヴィルには男に話しかける言葉も言語もなかった。戸惑いで沈黙するしかなかった。男の目は、先日の村長のような、明らかな強い敵意を感じさせるものとはまた違うようにも感じられたが、そこに何があるのかはわからなかった。
息が詰まるような気分を随分と長い間味わった末に、男が口を開いた。
「おまえ、なに、しに、きた」
イルヴィルは目を見開いた。
「……大陸の言葉が、わかるのか」
男は答えなかった。ただ、イルヴィルの目をじっと見ていた。
イルヴィルと違い、この十六年、ずっと大陸の人間と濃厚に接している。元々、母語の他に群島の言葉も嗜んでいる者だ。多少なら、わかるのも不思議ではないのかもしれなかった。
何をしに来たと問われ、適切な返答が思いつかない。頭の整理をするために、一人になりたかったというのが本当のところだ。竜の死体を捨て、埋めている林の奥に、島の人間がいるとは思わなかったのだ。
「……様子を見に来た」
男は答えなかった。息の詰まる沈黙が再び流れた。しばらくしてから、イルヴィルが問うた。
「お前も、見に来たのか」
男の顔面の筋肉はひとつも動かなかった。相変わらず何も読みとれない表情のまま、一度男は目をそらした。自身の前方に目を落とした。海野近い平野部の、粒子の細かい土だ。しかし、木々によって太陽の光が遮られているから、浜辺の砂よりは水分を含んでいる。色はどこも同じに見えた。そこが、三日前に死んだ竜を埋めた場所なのか、イルヴィルにははっきりとはわからない。
数秒の沈黙の後、男が、イルヴィルには視線を戻さないまま、口を開いた。
「おまえ、みえるか」
問いの意味がわからず、イルヴィルはしばし逡巡した。
様子を見る、という自分の言い方が適切でなかったことに気づいた。具体的に何かを観測しようとしたわけではない。ここは竜の墓場だった。大陸では、死んだ人間が姿を現すという伝説の類もある。この島の死生観はわからないが、そういったことを指していることに思い当たった。
「いや……」
咄嗟に否定しながら、この男が、死んだ竜の霊を見に来たのだとしたら、意外なことであるように思えた。竜の一個体一個体に対し、島の人間が思い入れがあるようには感じられなかったからだ。それは、イルヴィルにとっても同じだった。
ただ、三日前に死んだあの母竜のことは、頭の片隅から離れなかった。子を守るために獰猛になった母親。狂ったように雄叫びをあげ続けた母親。
「お前もあの母親が忘れられないのか」
「ははおや、ちがう」
イルヴィルの言葉を、男は即座に否定した。意味が飲み込めず、イルヴィルは男の次の言葉を待った。男は、イルヴィルには視線をやらず、目の前の木を見上げた。
「わたしの、つま、ははおや、ちがう」
イルヴィルは目をしばたたいた。
男の妻。
イルヴィルが初めてこの島に訪れたとき、この男はすでに男やもめだった。村長の婿、と説明されていた。男の死んだ妻とは、村長の娘のことだ。
すなわち、リージャを産んだ女だった。
「ここで、くび」
適切な表現がわからないのか、両手で、自分の首を締め上げる仕草をして見せる。初めて知った事実に、イルヴィルはうろたえる。
しばらく、青青とした木を見上げた後、男はイルヴィルに視線を戻した。やはり、何も読みとれない表情をしていた。何かを言い掛けたように、わずかに口元が動き、すぐに閉じられた。男は歩き出した。すれ違いざまに、何かに急かされるように、唐突に、イルヴィルは言葉を発していた。
「あの娘には」
男が立ち止まった。
「名前があるのだろうか。この島の言葉の、名前だ」
男はイルヴィルをまっすぐ見つめた。
「ない」
島の、湿気と熱気を濃厚に含んだ空気が、あたりを支配している。
「あれは、もう、いない。しま、でていった」
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