第二章 -5

「確認しておきたいんだ。お前がこの三年、イルヴィルや屋敷の他の人間の前で一切喋らないでいた、理由を。お前は、イルヴィルが思っているように、言葉がわからないから話さなかったというわけじゃなかったんだな?」

 おそるおそる、リージャは小さく頷いた。そもそもイルヴィルはリージャが言語という概念すら知らずに生きてきたと思っているが、リージャは生まれ育った島の言葉は他の同年代の子供と同程度に理解できていたし、大陸の言葉も大陸に戻る前からわかっていた。島では通事がイルヴィルの言葉を島の言葉に変えてリージャに話していたので、それはリージャにとって新しい言語を知る助けになっていたのだ。未だに新しい語彙に出くわして面食らうことはあるが、言葉そのものがわからないわけではなかった。

「喉が悪いのか? この前は話した後苦しそうにしていたが……」

 リージャは思わず堅く目を閉じて震えた。思わず喉元に手が行った。折檻が始まるといつも涙と悲鳴を堪えて周囲の人間の気が済むのを待つばかりだったのに、あの日だけはどうすればいいのかわからず、そして解放された後も何が起きたのかがよくわからなかった。おそらく一度気を失ったのだと思っているが、それもはっきりとはしない。声を出すな、と村の十五、六ほどの少年達に取り囲まれて脅されたが、リージャはいつだってそういう時に声を上げたり無駄な抵抗などした覚えがなかったので、どうしてそんなことをわざわざ言うのだと不思議に思ったのだった。そして彼らはそうやって脅してもまだ飽き足りず、リージャの喉を潰したのだった。

「……い、おい、大丈夫か!」

 ヴォルブの声に呼び戻された。ここは立っているだけで汗がにじみ出るような夏の島ではなかった。寒いと思ったがあの日のあの一件の後にした悪寒とは全く違った。誰にも操作できない自然の摂理の寒さだった。

 目を開けると、ヴォルブの顔が思ったよりもずっと近いところにあってリージャは思わず飛び退きそうになった。だが馬車の中は狭く、さほど距離を離すことは適わなかった。

「寒いのか?」

 リージャは首を振る。眼前で、白い顔の男が眉をひそめ、リージャの様子を注視している。

「だが震えているぞ――」

 そこまで言い掛けると、ヴォルブは突然、ゆっくりとリージャの喉元に指を伸ばしてきた。リージャは息を飲む。ヴォルブの眉間の皺はますます強くなった。

「これの、せいか」

 自分の喉元を押さえるリージャの指と指の合間から、ヴォルブの指が入り込んだ。イルヴィルともタマラとも他の誰とも違う、太くてかさついた指をしていた。何のことを言っているか、すぐにわかった。よくよく見ないとわからないほどの傷痕だ。今まで誰にも気付かれてはいなかった。だが指で触れると、皮膚が不自然に寄って歪んでいるのがはっきりと認識できる。三年経っても消えなかった。リージャの指の関節二つ分ほどの大きさの傷痕だ。それをヴォルブがそっと、触れるか触れないかほどの優しさで、なぞった。

「島の連中にやられて、声が出なくなったのか」

 リージャはうつむいた。声が全く出なくなったわけではない。それはヴォルブもわかっているはずだ。子細ははっきりと理解はできないが、嘘をつくのは自分のためにもイルヴィルのためにもならないのだと思うと、首を横に振るしかなかった。ヴォルブの指がそっと離れた。それほど密着していたわけでもないのに、それが遠ざかると急に外気に晒されたような心地になって、寒さと心細さに似た不安な気持ちになる。小さなため息が聞こえる。

「わかった、嫌なことを思い出させてすまなかったな。もう大丈夫だ。忘れちまえ、嫌なことは忘れちまえ」

 何の反応もせずにうつむいたままのリージャに、戸惑うようなヴォルブの息づかいが聞こえる。それから、再び腕が伸びてきて、リージャの頭をくしゃりとなでた。島にいた時は、こんな風に突然体の一部に触れられることにひどく怯えていた。だが今は、驚くことはあってもあの頃ほど体を硬直させることはない。三年間、イルヴィルや、時折タマラと触れ合ってきて、この屋敷にいる限りは、体に触れることが肉体的苦痛を与えられる前触れではないということを心身が学んだからだ。忘れられるのかはわからないが、新しい世界で覚えたものがリージャの恐怖を和らげている気がする。

「だが、イルヴィルにだけは報告するぞ。あいつは、お前が言葉を覚えられないんだと思って心配していたからな。本当はわかってたし多少は喋られると知ったら安心する――」

 その言葉に、リージャは大きく息をのんだ。勢いよく入り込んだ空気が喉をわずかに鳴らした。跳ねるようにして顔を上げると、驚いてリージャの頭部から手を離したヴォルブの見開かれた目と視線がかち合った。

 リージャは腕を伸ばした。ヴォルブの膝が案外近いところにあって、すぐに触れられた。指先に力が入ったが、ヴォルブの腿とトラウザーズには隙間がないらしく、以前に裾を握った時のように、その布をつかむことはできなかった。小さな手の平でヴォルブの膝を押した。人肌の温もりが分厚い布越しに伝わってくる。

「どうした?」

 強く首を振る。

「……どうして」

 リージャはもう一度頭を振った。髪が振り乱され摩擦するわずかな音が、馬車の振動音の合間にかすかに聞こえた気がした。それから顔を上げて、ヴォルブの目を真っ直ぐに見つめる。困惑したように目尻が下がっていた。

「イルヴィルは多分、喜ぶぞ。お前と会話できると知ったら」

「ぁ、……」

 ヴォルブの膝に触れていた指先に更に力が入った。

「うん、なんだ?」

 リージャが何かを言おうとしていると思ったのだろう、促すようにそう言うと、ヴォルブは口を噤んでリージャの目を静かに見つめた。

「だ、だめ、イルヴィル、に、言う、だめ、いや……」

 ひゅうひゅう、と、声帯を鳴らさないまま喉を素通りして唇から大量の息が吐き出されていく。あまりに小さな声にならない声だった。ヴォルブが聞き逃さぬように真剣な表情で聞き耳を立てている。

「イルヴィルに知られるのが嫌なのか。なんでだ? イルヴィルと話したくないのか?」

 リージャは目を瞑る。

「ぅ、ぃ、りー、リー、ジャ、リージャ、こえ、こえ、」

 続けようとして、リージャは自分の頭の中に、言うべき大陸の言葉がすぐに見つからず、困惑した。島ではリージャのつぶれた喉を侮辱する言葉を散々聞かされたが、それをそのまま大陸の言葉でなんと言うのかがわからなかったのだ。それに相当する言葉をこの国に聞いてから一度も聞かなかった。必死に、これまで覚えてきた言葉の中から、それに近いものを探す。誰かが、怒っているとき。タマラが自分を叱っている状況を思い出す。そう言うとき、彼女がよく発する言葉――

「うん、お前の、声が、どうした」

「きたない、リージャ、こえ、きたない……」

 それは、島で聞かされてきた言葉とは少し違った。汚いというのはリージャが掃除や洗い物で掃き残しや拭き残しがあるときにタマラがよく言う言葉であって、誰かを貶すための言葉ではない。自分の内にある気持ちを正確に表現できたわけではないのに、自分のその言葉を自分で耳にした途端、視界が急激に歪んで何も見えなくなった。眼球が熱を持つ感覚がして、そのまま何かが頬を伝い始める。八年の間、散々と雑言をぶつけられてきたが、それを自分で口にしたことは今まで一度もなかった。

「リージャ……」

 ヴォルブの声が頭上から降ってきて、リージャは肩を震わせて、その膝に乗せていた両手を引っ込めた。顔を上げる勇気がなかった。誰かに涙を見せるのはいつだって悪いことが起こるきっかけでしかなかった。どうして我慢ができなかったのだろうと思うと心臓が冷え込んだ。そう思った瞬間、突然、ヴォルブがリージャを抱き寄せた。分厚いヴォルブのコートに顔を押しつけられる。困惑するリージャの背を、ヴォルブはゆっくりと軽くさすった。

「汚くなんかねえ。それに、上手く声が出せないのは、お前のせいじゃねえんだ」

 強く顔を胸に押しつけられ、両耳にヴォルブの腕が当てられているせいで、その声はずいぶんとくぐもって聞こえた。

「だが、わかったよ、お前がイルヴィルに自分の声を聞かせたくないなら、それでいい、俺からは何も言わねえ」

 息ができないのが、顔を押しつけられているせいなのか、自分が泣いているせいなのか、わからなかった。まだヴォルブはリージャの背中をなで続けていた。だんだんと、そこが暖かくなってくる気がした。

「だからよ、もしいつか、気が向いたら、イルヴィルにも打ち明けてやってくれよ。お前も、イルヴィルに伝えたいことがあるだろ?」

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