第二章 -2

 石は十の列が四つ、一の列が三つになっていた。


 竜の臭いが少なくなった原因について、推測できる要素はフュラスとアンドゥールが中心になって情報をまとめ、イルヴィルが戻ってきたときに報告する準備を進めているらしく、リージャはその進捗については詳しくは把握していなかった。だがあの一夜以降、あまり興味のなかった竜の生態について、リージャもなんとなく気にかかるようになってきたのだった。

 散歩中に子竜や雛の体にそっと触れると、時折、鱗の剥がれることがあるのに気付いた。堅く乾燥したそれは、体に張り付いている時は黒く見えるが、剥がれ落ちるととても薄く小さいもので、しばらく風にさらしていると徐々に白っぽくなっていった。体表にでている鱗が、古いものなのか、今表面が剥がれて露出したばかりの新しいものなのかは、見た目では区別がつかなかった。ただそっと触れると、古いものより新しいもののほうが柔らかい感触がする。子竜はそれに触れられると少し不快そうに身をよじるのだった。

 最近では雛も急に大きくなって、リージャの膝丈ほどしかなかったのが、背伸びをすると腰ほどまでになった。対して子竜の成長はあくまで緩やかで、この四十三日の間に、リージャの目ではっきりとわかるほどの変化はないような気がする。ただ正常に成長するとすれば、もう少し大きくなるはずだ。リージャの記憶する成竜は、ヴィートトク家で飼われている馬と同じぐらいの大きさがあった。


 その日も空は晴れていた。色の薄い青色に所々薄い雲が白く彩っている。からっ風の中、いつものように屋敷の掃除を終えて竜小屋に向かおうとしていた。勝手口から出てすぐに、リージャは異変に気付いた。雛竜の興奮したような叫び声が遠くから聞こえてきたのだった。きゅう、きゅう、という甲高い声が絶え間なく聞こえてくる。雛は子竜に比べると頻繁に声を上げてはいたが、いつもよりも声高で、張り裂けんばかりの大声だった。何か尋常ではないことが起こっている予感がして、リージャは走り出した。

 竜小屋が視界に入ってすぐに、雛竜が興奮している理由がわかった。リージャの予想の範疇を越えた、明らかな異常が起こっていた。見知らぬ大男が二人、竜小屋から子竜と雛を連れだそうとしていたのだった。ケスリーたちのような、身分のそんなに高くない使用人たちと似たような、多少くつろいだ感じのシャツとトラウザーを着た、リージャの見たことのない男たちだった。縄を掛けられた子竜が力づくで引っ張られ、必死に踏ん張って抵抗している。雛はすでに一人の男に抱き抱えられ、その腕の中で手足をばたつかせていた。以前にヴォルブと小屋の前で遭遇したときも激しくリージャの腕で暴れたことがあったが、その時の比ではない。金切り声をあげながら必死に両手足で自分を抱える男の腕や胸をひっかこうとしている。

 いつもなら馬丁の一人がこの辺りにいるはずなのに、今日は誰もいないようだった。これだけ雛が大声を出しているのに来ないところをみると、ザルフもケスリーもフュラスもここからかなり離れたところにいるのかもしれない。

 今日、誰か客人がくるという話は誰にも聞いていなかった。仮にリージャが聞いていないだけで、彼らが招待客なのだとしても、アンドゥールも馬丁の誰かもいない状況で、竜たちを連れ出すというのは考えにくい。これは異常事態だ、とリージャは確信したが、大柄の男二人を相手に、立ち向かえるとは思えなかった。二人はまだこちらに気付いていない。重い体を盾に抵抗している子竜に悪態をついているようだ。

 リージャは来た道を全力で引き返した。雛の叫び声が背後で段々と遠くなる。すぐに息があがり動悸がしてきた。誰でもいいから館に住む大人に知らせなければいけない。牧舎のそばにいるはずの馬丁たちが何故かその場にいなかった理由はわからないが、館の中にいるとも思えなかった。タマラは使用人用の宿舎で厨房の手入れをしているかもしれない。ここから近い場所に確実にいそうなのはアンドゥールだった。おそらくはイルヴィルの寝室にいるのではないだろうか。

 正面玄関が見えてきた。本当なら使用人が出入りしていい扉ではなかったが、ここから入るのが一番近いことをリージャは知っていた。滅多に通らない玄関への道を更に駆けようとしたとき、そこへ別の人間が向かってくるのが見えた。リージャは息を飲んだ。すでに呼吸が苦しいぐらいになっていて、心臓が激しく音を立てていた。滅多に全力で長距離を走ったりしないせいで、足が痛かった。リージャが駆け寄るより先に、ヴォルブがこちらに気付いて手をあげた。

「おう、リージャ、元気にしてたか。丁度よかった、アンドゥールに取り次いでくれねえか」

 今日は客人が来るとは聞いていなかったが、ヴォルブが来る時はそういったことも珍しくはなかった。悠長な様子でそう言うヴォルブは、今来たばかりのようだ。あの小屋にいる二人の男とは関係ない、とリージャは判断した。早くあの場に戻らないと二頭はどこかへ連れ去られてしまうのかもしれない。立ち止まったヴォルブに駆け寄り、コートの裾を握り、引いた。

「あっ!? なんだ、どうした?」

 リージャはもう一度引き、今来た道を指差した。そこをまっすぐ行けば、竜小屋につながることはヴォルブも知っているはずだ。

「なんだ? 竜の様子を見せたいのか?」

 リージャは思い切り頭を振った。束ねていない茶の髪が激しく乱れる。こんな風に強い動作をしたのは初めてだった。

「じゃあなんだ、数の石のことでなんか聞きたいのか? とりあえずアンドゥールに用があるから先に会わせてくれよ、それから相手してやっから――」

 リージャはもう一度頭を振り、ヴォルブの袖を引っ張った。だがヴォルブは屈託なく笑うだけだ。リージャの肩に軽く手を置いた。いつものリージャなら怯えてしまうような行為だった。

「わかったから、用が済んだらすぐに行くからよ、先に行って待ってろ、な?」

 もうだめだ、と思った。このままではヴォルブは取り合ってくれない。リージャは震えながら息を吸った。口から入った息が喉に入る瞬間、ひどく冷たく感じた。一度出して、それからもう一度吸った。

「ォ……」

 この大陸の名前はあまり島にない音が多く、リージャは一度も発音したことがなかった。咄嗟に喉を震わせても、他の人々と同じようにヴォルブの名の最初の音節を発する事ができなかった。ただ引きつったような醜い、声とも言い難い何かが、掠れたヒューヒューという音に混じって出ただけだった。だがそれだけでも、ヴォルブの注意を引くには十分だったようだった。目を丸くして動きを止めている。リージャは必死に、今伝えるべき言葉を考える。こんなことが必要になる日が、永遠に来ないことをずっと祈ってきた。だからどれだけこの大陸の言葉を聞き取り理解することを覚えても、それを自分の中で組み合わせて外に出す用意などできていなかった。今ここにいるのがタマラなら、フュラスなら、ケスリーなら、どういう言葉を発するだろう。これまでに聞き取ってきた無数の言葉が頭の中に沸いては消える。

「ォ、ルウ、う、くる」

 もう一度ヴォルブの袖を引きながら、何かが違うような気がして、考え直した。

「きて。お、お、こ、こや。こや、に、しら、ない、い、いる」

「おい、リージャ、大丈夫か!?」

 ぐらりと視界が傾いだ。息が詰まって立っていられない気分だった。喉が焼け付くように痛い。もうずっと使っていなかったのだということを実感した。つぶれた蛙のような耳障りな音がいつまでも耳について頭の中でこだましているようだった。

「わかった、何かあったんだな、今すぐ行くから、しっかりしろ!」

 顔色を変えたヴォルブが、走り出した。走り出してすぐにこちらを振り返った。

「お前は、具合が悪そうだから、無理するな、そこにいろ、できればアンドゥールを呼んでこい」

 辛うじて頷くと、背を向けてヴォルブは走り出した。大柄の男の足は速く、その背中はすぐに遠ざかっていく。ふらふらとしながら、リージャはそのまま正面玄関の扉を押し開けた。初めて触るドアノブは鉄製で、ひんやりとしていた。男性の使用人しか開けることのないそれは高い位置にあって引きづらい。加えて扉自体も非常に重かった。必死に腰を落とし踏ん張りそれを引こうとする。それと同時に、内側から別の力に押される感覚がして、リージャは思わずよろめき、尻をついた。打ち付けた腰が痛い。扉の向こうから顔を出したのはアンドゥールだった。

「リージャさん!? こんなところをで何をしているのです」

 リージャは即座に立ち上がり、まだ扉に手を添えたままのアンドゥールに駆け寄った。先ほどと同じように、アンドゥールの袖をつかんで強く引いた。アンドゥールはいつもリージャに優しく親切にしたが、身体的な接触をしたことは一度もなかった。自分やタマラが着ているような服とは違う生地であることに気付いた。アンドゥールの顔色が変わる。リージャはこの三年間、言いつけを破ったり、禁じられたことをわざと犯すような子供ではなかった。少なくともアンドゥールはそう認識してくれていたのだろう。使用人が出入りしてはならないはずの正面玄関からやってきてアンドゥールにすがりつくリージャに、ただごとではない何かが起きているのだと悟ったようだ。

「どうしたのです」

 リージャはヴォルブが走り去っていった方角を指さした。アンドゥールがそれを目視したのを確認すると、走り出す。先ほどは動揺で息があがってしまったが、アンドゥールを捕まえることができたことで、ほんの少しだけ気持ちに余裕ができていた。年老いたアンドゥールはリージャよりは体が大きいが走りはできないらしい。背後で距離が開いていることにすぐに気付いたが、リージャは走り出した。

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