第二章 -3

 雛の叫び声が聞こえてきて、まだ彼らが連れ去られずにそこにいることにリージャはほんの少しだけ安堵した。ヴォルブの後ろ姿が見え、リージャは足をゆるめた。心臓がばくばくと激しくなり、肺が痛く呼吸が難しくなっていた。見知らぬ男二人とヴォルブは、リージャの足で五十歩ほど先にいた。

「おまえたち、一体何をしている!」

 絶え間ない、金切り声に近い雛の悲鳴を打ち消すほどの怒声が、あたりに響いた。その迫力に、リージャは思わず身がすくんで立ち止まった。ヴォルブの声は元々大きいとは思っていたが、こんなに鋭く厳しい声は初めて聞いた。それからヴォルブの背中ごしに闖入者二人の姿に目をやる。彼らもまた顔を強ばらせていた。その一人の腕の中で、ずっと暴れながら叫び声をあげていた雛も、動きを止めている。

「――さま」

 雛を抱いている方の男の、唇が動いているのが見えた。かすれた声は辛うじて聞こえるが、口にしたその言葉がリージャにはよく聞き取れなかった。リージャはその場から動かずに遠巻きに三人の様子を注視した。

 二人の男はヴォルブに比べるとやや小柄だった。年の頃は同じだろうか。最初に見たときはこの屋敷の馬丁たちに似た格好をしていると思ったが、日がな一日屋外で力仕事を担っている彼らに比べると、どこか生白いような、貧相なような印象を受けなくもなかった。

「今すぐそいつらを離せ。ヴィートトクの家でこんなことをして、ただで済むと思っているのか」

「しかし、我々は」

「しかし、なんだ」

 消え入るような声で、何か闖入者がヴォルブに言おうとしたが、それをヴォルブは厳しい声音で封じた。

「語るに落ちている。俺の顔を知っている時点で、お前たちの素性はおおかた推測できるぞ。悪足掻きはやめてとっとと失せろ」

 三人とも、リージャがこの様子を見ていることにまだ気付いていなかった。リージャはそっと物陰に隠れた。闖入者たちは沈黙している。その一人の腕の中で、もぞもぞと雛が動いた。その次の瞬間、ヴォルブは男の胸ぐらを唐突につかんだ。長身のヴォルブに、男は半ば吊られるような格好になる。雛が再び悲鳴を上げ始めた。ヴォルブは相当の力があるのだろう。成人男性一人の動きを左手だけでしっかり押さえると、右手で男の胸ポケットの中をおもむろにまさぐり始めた。そうして何かを取り出したヴォルブは、男を突き放す。尻餅をつくと同時に、解放された雛がこっちに向かって駆けだした。雛の行く先にもはや三人は気を向けてはいない。

 ヴォルブが男から奪ったのはエンブレムのようなものだった。小さなそれを、一瞬太陽の光にかざして確認すると、鼻でため息をついた。

「なるほどな、やっぱりそうか。こいつは俺が預かっておく。次はねえとあいつに伝えとけ」

 固い地面に腰を落としている男は気圧されながらも何か言いたげにしばらくヴォルブをにらみ返していたが、子竜に縄をかけていた男の方は不安げに視線をさまよわせた後、何事かを小声で隣の男に囁いた後、すごすごと子竜の縄を解いた。ずっとおとなしかった子竜が軽く頭を振った。二人は軽くヴォルブに頭を下げると館の裏手の方へ走り去っていった。その姿が見えなくなってから、ヴォルブはゆっくりとこちらに向かって振り返った。

「すまねえな、アンドゥール」

 ヴォルブの視線はリージャの背後に向いていた。思わずそれを追うと、リージャのすぐ後ろにアンドゥールがいつの間にか立っていた。アンドゥールはゆっくりと頭を下げた。

「どういうことなのか伺ってもよろしいでしょうか、ヴォルブさま」

「盗人を逃がしたことは、俺に免じて許してほしい。こんなことは二度とないように俺からも手を回す。イルヴィルには俺の口から全部説明しておく」

 そう言いながら、ヴォルブはこちらへゆっくりと歩み寄ってきた。リージャのヴォルブがこちらにたどり着くのと、雛がリージャの足下にたどり着くのはほぼ同時になった。

「それと、これはお前が預かっておいてくれ。まあ、人質みたいなもんだ」

 そう言うと、さきほど男から奪い取ったエンブレムのようなものを、アンドゥールに渡す。アンドゥールは両手を差しだしてそれを受け取った。もう一度、それは太陽の光を鋭く跳ね返した。雛がキュウ、と足下で鳴いた。あれだけひっきりなしに大声で叫んでいて全く声が枯れていないことに、ほんの少し驚いた。あんなに恐怖を感じた闖入者があっけなく消え去ったことに、リージャはどこか拍子抜けしていた。アンドゥールが受け取ったものを見て、わずかに眉を潜めている。それをみとめて首を傾げるリージャの背後で、ゆっくりと土を踏みしめる足音がする。人間のものではない、解放された子竜がこちらにやってきたのだった。

「これは……まさか」

「そういうことだ、なので、この件は他言無用にしてほしい」

 その言葉にアンドゥールは少し考え込むように沈黙した。その返事を待たず、ヴォルブはリージャに視線を向ける。

「リージャもだぞ、イルヴィル以外には、このことは報告するな」

 突然話に巻き込まれたリージャは驚いて目を丸くした。報告する以前に、リージャは眼前で行われている二人のやりとりが理解できなかった。館に入り込んで竜小屋を荒そうとした部外者を、ヴォルブが追い出してくれたのだから、もうことは済んだのだと思っていたのだ。真剣な表情で見つめられ、リージャは気圧される。アンドゥールがいつもの穏やかな様子に戻って小さく笑った。

「大丈夫ですよ、リージャさんは――」

 ねえ、と微笑みを向けられ、リージャが頷きかけるのを、軽く眉を潜めたヴォルブの言葉が制した。

「お前たちはよ、なんでリージャが言葉をわからない、喋れないって思ってんだ? 本当は――」

 思わず、ひゅう、っと息を飲んで、喉が凍り付きそうになった。ヴォルブが何を告げようとしているのかわかったリージャは、慌てて彼に駆け寄り、その袖を引いた。

「あ?」

 驚いたような顔で見下ろされ、それを真っ直ぐ見つめ返しながら、リージャはもう一度ヴォルブの袖を引いた。強く、握りしめながら。人に何かをこんな風に懇願するのは初めてだった。どれだけ見つめても、ヴォルブが何を考えているのかを読みとることはできなかった。だがしばらくして、ヴォルブは何かを考えるように視線をさまよわせてから、リージャの頭をぽん、と軽く叩いた。

「確かに、お前がそんなこと話すわけ、ないわな」

 リージャは強く頷いた。頷きながら握っていたヴォルブの袖を離し、離した時に、自分の手がひどく震えていたことに気付いた。

「しかし、彼らはどうやって入ってきたのでしょうか。小屋の周りにリージャさんしかいなかったのもなんだか……」

 ぽつりとアンドゥールが呟いてから、はっとして、ヴォルブに向き直り頭を下げた。

「失礼いたしました、今の言葉は……忘れてください。ヴォルブさま、この度は屋敷の危機をお助けいただいてありがとうございました。旦那さまの留守中に竜に何かがあっては、大変なことになるところでございました」

「竜になんかあったら困るのは俺も同じだからよ。とにかく、無事でよかった。リージャ、お手柄だぞ」

 もう一度、ヴォルブがリージャの頭を軽く叩いた。親愛の感情を示されているのだと、わかっていたが、その言葉に含みがあるような気がして、落ち着かない気分でリージャは立ち尽くしていた。

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