第二章

第二章 -1

 はじめにそれに気付いて口にしたのはケスリーだった。

 その日、いつものようにリージャは竜小屋へ行った。リージャの顔を見た雛と子竜が立ち上がり、小屋の外へ出てきた。小屋の掃除をするために戸口で待っていたケスリーは、竜とすれ違いざま、呟いたのだった。

「気のせいかなあ」

 リージャが首を傾げた。リージャが動かないので二頭はその背後で立ち尽くした。ケスリーも首をひねっていた。

「どう思う、リージャ。こいつら、ここに来たときより、あんまり臭わなくなってる気がしないか?」

 こいつら、と右の人差し指でケスリーは二頭を差した。雛が足下で落ち着きなく動き出した。子竜は身じろぎ一つせずリージャを見つめている。その目を見つめ返しながら、リージャはケスリーの指摘に思いを巡らせた。この子竜と共にこの屋敷にやってくる前から、リージャにとって竜とはひどく悪臭のする生き物で、それは島民に竜が忌まれている理由の一つでもあったし、三年の間リージャはしばしば竜小屋に潜り込んではいいたが、その生臭さは常に不快で好きになれるものでないのは確かだった。竜小屋に入ってしばらくすると鼻が麻痺したが、次の日に小屋に入るとまた臭いにむせかえった。しかし今改めて考えると、最近はその臭いに悩まされた記憶がない。とはいえ、リージャはケスリーの言葉に即座には頷きかねた。竜たちを散歩させるようになってから、リージャはあまり小屋のような狭い空間で竜と接する機会が減っていた。屋外にいると臭いがこもらず気にならないだけかもしれない。

「やっぱそう思うよな!?」

 返事ができず困っているリージャの横顔を見て、何故か自分に賛同したと思ったらしいケスリーが声を上げた。

「いつの間にか臭いが薄くなってる気がするんだよな。急にじゃなくて段々と消えてってるから気付かなかったんだよ。なんでだろうなあ、竜ってのは大人になると臭わなくなるもんなのか?」

 この子竜たちが臭わなくなっているのかどうかには未だ結論が出せずにいたが、リージャはとりあえず、ケスリーの最後の問いには首を振った。島で飼育されていた竜は、子供も大人もひどく臭っていた。一日中竜の世話をしていた島民は家に帰る頃にはその臭いが体に移っていて、家人がその仕事をする役目を負わされると、その一家はひどく憂鬱になったものだ。島民は大きく分けて、狩ってきた竜の世話をする者、開拓した畑の面倒をみる者、新たな竜を捕らえたり野生の竜の生態について調べるために白い悪魔達を山の中へ案内する者に分けられたが、特に男は竜小屋の出入りをさせられる者が一番多く、そして仕事が終わった後も家族を巻き込んで苦痛を強いられるのはその仕事だけだった。

「違うのか。まあそうだよな、よく考えりゃ。大人になったら臭わなくなるんだったらチビの方はまだ臭いはずだもんな」

 いつまでも出発できないことに苛立ったらしい雛が、きゅう、とひと鳴きする。だがリージャも子竜もそちらにちらと目をやっただけで動かない。しびれを切らし、小さな足で、いつも向かう庭への道を歩き出した。以前まではリージャのそばから離れることをいやがっていた雛だが、最近は動きたい衝動の方が勝つらしく、こうやってひとりで遠くまでいくことが多くなった。とは言え、体力はまだ子竜にも及ばないらしく、途中で力つきてしまうので、心配するほど離れていってしまうことはなかった。ケスリーもわかっているのか、それには構わずリージャに話を続けた。

「じゃあなんだろう、食い物か? でもずっと同じ飼い葉をやってるだけだしなあ。季節的なもんなわけでもないし……」

 その言葉に、リージャも考えてみたが、結局のところ、いつから臭いがなくなったのかもわからなければ、そもそも本当に臭いがなくなっているのかどうかも確信が持てない状況で、原因を推察するのは難しく、結局ケスリーとリージャの会話はそこで終わったのだった。


 リージャはそれから半日経って、そんな会話の内容すら忘れかけていた。ケスリーがその日の食卓で再びこの話題を口にした時まで覚えていなかったのだった。

「さっきリージャとも話したんだけどな、」

 突然、自分の名前が出たことに驚いたリージャは緊張で体を強ばらせ、思わずスープをすくおうとしていたスプーンをスープ皿に落とした。隣でタマラが何か小言を言いかけたが、それよりも興奮したようなケスリーの声が食堂に響いてタマラを制する形になった。

「最近、竜のあの生臭いにおいが、あんまりしなくなったと思わないか?」

 問いかけは主に、ザルフとフュラスに向けられていた。この二人以外の人間は、あまり竜と日常的に触れる機会がないのだった。

「そうかな? ……うーん、そう言われてみれば、そんなような気もするね?」

 記憶をたどっているのか、考え込むような沈黙の後にケスリーに賛同したのはフュラスだった。フォークを一度テーブルに置き、顎に右手を添えている。ザルフはいつものように無表情に沈黙していた。

「やっぱりそうだろ! あれだけうんざりするぐらい臭かったのに、最近は全然なんだよ」

「ほお、そうなのですか」

 穏やかにアンドゥールが口を開いた。

「それは朗報かもしれませんね。竜の人工孵化に成功しても、あまりに臭ければ家畜としての価値は低いかもしれないと、旦那さまは悩んでいらっしゃいましたから」

「そうなのか!」

 リージャが思わず顔を上げるのとケスリーが身を乗り出すようにして声を張り上げたのは同時だった。ケスリーのこの竜の臭いに関する指摘が、イルヴィルの仕事に何か大きく関わることだったということをリージャは今初めて知ったのだが、妙に熱心に語っていたケスリー自身もそのことは知らなかったらしい。

「旦那さまが帰ったら真っ先にご報告しなければなりませんね」

「でもなあ、なんで臭わなくなったのかがわからないんだよなあ。そもそもいつから臭わなくなったのかもよくわかんないしなあ」

「関係あるのかはわからないが」

 唐突に、静かな声が食堂に響いた。こういった場で滅多に口を開かないザルフの声であることに、リージャは一瞬気付くのが遅れた。

「二週間……ほど前から、小屋の中に落ちてる鱗の量が増えてきた。臭いも、消えてきたのは少なくともそれ以降だと思う」

「ザルフ、それってつまり、君は前々から臭いのことには気付いていたってことなの?」

 眉を潜めて、フュラスがザルフに問いかけた。

「……いや、なんとなく……確証はなかったが……」

「なんだそれー、じゃあ俺が最初に気付いたわけじゃなかったのか」

 小さなザルフの語尾に、唇を尖らせたケスリーの脳天気な声が重なった。

「鱗かあ、そういや藁を吐き出す時、妙に白い変なゴミが紛れてる気がしてたけど、あれのことか?」

「多分……鱗が剥がれてるんだと思う」

 静かに返すザルフは相変わらず無表情だ。竜にあまり関わりのないタマラが疑問に思ったらしく口を挟んだ。

「鱗が剥がれるってどういうことだい、病気じゃないのかい」

「どうでしょうねえ、蛇やヤモリが脱皮するようなものかもしれませんよ。人間だって何もしなくても毎日髪の毛が抜けていますからね」

「でもさあ、蛇の脱皮っていったら春とかが多いんじゃないか? 今は冬だぜ」

「まあ、竜と蛇が同じ種類の生き物なのかもよくわかりませんしね。四季のない島の生き物ですから、元々季節的な感覚もないのでは?」

「はあ、なんだか随分とわからないことにめんどくさいことだらけねえ。余所の土地の動物をこの大陸で家畜にして育てようなんて、王さまの命令はさ。旦那さまも大変だよ、やれやれ。さあ、食事が済んだならとっとと部屋に戻んな、あんたたち!」

 ケスリーとアンドゥールの会話を、タマラが乱暴に終わらせた。フュラス達が黙って立ち上がる。ケスリーはまだ話し足りないのか唇を尖らせアンドゥールやリージャに意味ありげな視線を送ってきた。リージャはそれに気付かないふりをして皆の食器を集め始めた。このままでは皆の前でまた島での記憶や経験を問われそうで、内心びくびくしていたのだった。島のことを思い出すのはリージャにとって心地よい行為では決してなかったし、実際、思い返したところでケスリーたちの推測を補足できそうな情報は何も持っていなかった。

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