幕間
イルヴィル -2
満月が昇り始めていた。
窓ガラス越しに、イルヴィルは、その欠けも陰りもない黄金の円を見つめた。
十四年ほど前に島に建てられた「白い人の家」には、大陸から船で運び込まれてきたガラスが使われている。大陸の貴族の屋敷と違い、手入れにいそしむ使用人のいない家屋にはめ込まれたガラスは、砂埃が付着してまんべんなく濁っていた。
「イルヴィル」
嗄れ、震えた声に名を呼ばれ、物思いに耽っていたイルヴィルは我に返った。
薄暗い部屋は、大陸でイルヴィルが暮らす屋敷の、客間と同じぐらいの広さがあった。調度品も日用品もほとんど何も配置できない南の果ての島の建て屋には不要な広さだ。部屋の中央にある小さなテーブルと、イルヴィルの立つ窓辺の間には大人の足で十歩ほどの距離があった。銀の燭台は、叔父が大陸からここに渡る時に持参した物だろうか。その灯りが、持ち主の濡れた頬を照らしている。
「よくやった」
緩慢な動きで男の上体が傾いだ。イルヴィルは慌てて駆け寄る。
椅子から立ち上がり、イルヴィルの方へ歩み寄ろうとした父の弟は、よろめきかけていた。支えようと延ばした手を、強く掴まれる。
「よくやった」
四十になる叔父のシーゼルが、イルヴィルの上着にしがみつき、体重を預け、至近距離で顔を見上げながら、唇を震わせている。
顔色は悪く、皺も多く、頭髪は灰色混じりで、ひどく衰えて見えた。二年前に会ったきりの実父のことを同時に思い出した。二人の兄弟は十ほど年が離れており、顔立ちはよく似ていた。離島で長く辛酸を舐めた叔父はひどく老け込み、まるで十年先の父の姿を見せられているかのようだった。
そのくたびれた顔面の中で、目だけが強烈な光を放っている。それに見つめられると、イルヴィルの呼吸は止まりかけた。
ゆっくりと息を吐き出し、自分の手を掴んでいるシーゼルの手の甲を、イルヴィルはもう片方の手でそっと包んだ。やんわりとそれを押し、椅子に座るよう促す。埃と手垢のついた背もたれに掴まりながら、シーゼルはゆっくりと腰を下ろした。
「ようやく、ようやく、俺のこの十四年が報われる」
シーゼルは両手で顔を覆った。
「叔父上、まだ、そこまでお喜びになるのは」
「イルヴィル、お前は、この俺がどんな思いでこの島に十四年、いたと思う」
イルヴィルは言葉に詰まった。
シーゼルが島に向かう直前に、ヴィートトクの本家に立ち寄った時、イルヴィルはまだ王宮学校で学ぶ若い少年だった。若き叔父は生命力と野心に満ち、眩しいぐらいの存在感を放っていた。
四年前、十年ぶりにこの島で再会したときの、あまりの変わり果てた叔父の姿に、イルヴィルは驚きを隠すことができなかったのを覚えている。
「先代の王が亡くなり、この島の開拓を王宮が見放した時の、俺の絶望がわかるか。多くのふぬけた連中が逃げだした。だが、俺は諦めはしなかったぞ」
「叔父上のご苦労は察するにあまりあります」
「竜を捕まえろ、イルヴィル」
顔を上げ、シーゼルは再びイルヴィルの腕を掴んだ。細く老いた体からは想像のできない力の強さだった。
「子どもの竜を、卵を、大陸へどんどん持ち帰れ、育てろ。ようやく陛下が我々に目を向けてくださった。この機を逃してはならんぞ。竜を、国の軍事力にするのだ。ヴィートトクの家は蘇る。兄上ではなく、この俺の力で」
「叔父上、落ち着いてください」
膝を折り、イルヴィルはシーゼルに目線を合わせる。
「確かに、このたびの報告により、今上の陛下がこの島に関心をお寄せくださいました。竜の家畜化、それを本国でも行える可能性。その調査を行い、今後の計画を立案せよと。それにはまず、この島の現状を知らなければなりません。どれぐらいの竜が生息するのか、それをどれぐらい我々の支配下におけるのか。排卵や孵化を我々の飼育環境下で安定して行わせることは可能か。まずは現状、この島で集められる情報を収集しようと考えています」
「そんな悠長なことをしていられるか」
「竜についても、我々は知らないことが多すぎる」
「また私は見放されてしまう!」
上着の袖の上から、爪を立てられ、痛みに思わずイルヴィルは眉をひそめる。
「叔父上」
努めて低く、囁く声でイルヴィルは語りかける。
「竜の卵が、大陸で孵化したのです。都では大きく関心を集めております
。大規模な家畜化がすぐにはできないとしても、すでにこの南の島での叔父上のご活躍は人々の知るところとなっております」
イルヴィルはシーゼルの目をまっすぐに見つめた。叔父は老いていた。そして疲れていた。
「……竜の力で、必ずや、ヴィートトクの復興を果たせましょう。他でもない、叔父上の名で」
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