第一章 -10
「しかしなあ、九十きっかり数えても、イルヴィルは帰ってこないかもしれないぞ」
リージャが慌てて並べた九十九を表す石の列を、再び二十に戻しながら、ヴォルブは呟くようにそう言った。聞き捨てならない言葉に、リージャは目を見開いて視線をヴォルブに戻す。その瞬間、急激に背筋に寒気が走り、全身が一瞬激しく痙攣した。続いて、鼻にむずがゆさを覚え、くしゃみが出る。
「ああ、しまった。お前、なんて薄着してやがるんだ。冬のこんな時間に、寝間着のまま外に出たのか」
言うや否や、急にヴォルブが立ち上がり、コートをさっと脱いだ。長身のヴォルブが立ち上がるのを、しゃがんだまま見上げていると、随分と圧倒される。それをぼんやり見ていると同時に、突然ヴォルブが脱いだそのコートをリージャの肩にかけてきた。革製のものだ。その素材は、この大陸に来てから初めて見たもので、リージャは触ったことがなかった。初めて着たそれは、大きさのせいもあるのだろうが、随分と重く感じた。困惑しながらヴォルブを見上げると同時に、立て、と身振りで促された。
「早く部屋に戻れ。風邪引いちまうぞ」
風邪、という言葉に、つい先日もタマラに軽く悪態をつかれたことを思い出して落ち着かない気分になったが、リージャはそれよりも先にヴォルブの呟いた言葉の方が気になって仕方がなかった。
リージャは促されても立ち上がらずに、素早く石を九十の形にした。裾の長いコートが後ろで地面とこすれる音がする。それからヴォルブを見上げると、ややあってリージャの意図を察したらしく、呆れたように小さく笑う声がした。
「三ヶ月っていうのはあくまで、予定だよ。島での作業が手間取るかもしれないし、島を出てからの船旅に予定より時間がかかることだってある。お前も船でここまで来たんだからわかるだろ? 簡単な道のりじゃねえってことぐらいは。それに、国に戻ってきても都でお上に挨拶だの報告だのもしなきゃなんねえから、そこでまた足止め食らうかもしれないわけだ。運が良ければ九十日より早く戻ってくるかも知れないし、もっと長くかかる可能性だってあり得る」
わかるようなわからないような気がして、リージャは視線をヴォルブから石の列へ移した。ならばどうして九十日だとタマラ達はリージャに説明したのだろう。何を目安にイルヴィルの帰還を待てばいいのだろうか。しかしヴォルブに再び促され、リージャは渋々立ち上がった。コートが重くてほんの少しだけふらつき、地面に目線が行った。そのとき、長い影がすうっと、建物の方へ延びていくのが目に入って、いよいよ太陽が顔を出してきたのだということに、リージャはようやく気付いた。そろそろ屋敷の人間が皆起きていなければいけない時間だった。タマラの元へ戻っていないと大事になってしまうかもしれない。そわそわしながら隣を見ると、ヴォルブは東の方角を眺めていた。地平線を隠してる森がほんのりと橙色を帯び始めている。
「今日は新月だったんだな」
ぽつりと呟かれた言葉に、リージャは首を傾げた。ヴォルブが振り返る。
「新月は、わかるか。月が出ない夜だ」
リージャは曖昧に頷いた。新月という言葉は初めて耳にしたが、月の満ち欠けについては島にいる頃から親しんでいた。大陸に着たばかりの頃は眠れない夜が多く、寝息をたてているタマラを起こさないようにそっと夜に窓の外を眺め、島と違う季節であっても月はおおむね似たような周期で巡るのだということにすぐに気付いたのだった。
「今日が新月だったら、次に新月になるのがだいたい三十日ぐらいだろ。そうしたら、あと三回新月の日が来たら、だいたい九十日だ。まあ、それぐらいしたら、そろそろイルヴィルが帰ってくるかも知れない、ぐらいの気持ちでいればいいってことよ。わかったか? そろそろ屋敷ん中に戻れって。俺のせいで風邪を引いたなんてことになったら、またイルヴィルに怒られちまう。ただでさえこの前も不機嫌にさせちまったのに」
軽く、ヴォルブの分厚いコートごしに背中を叩かれて、驚いて一瞬体を固くしながら、リージャは隣に並んだヴォルブを見上げた。苦笑している男と目が会った。
「悪かったな、あんときは」
リージャは首を傾げる。
「嫌なことを思い出させちまったんだろ、俺の言葉で。イルヴィルが島から小さい娘を連れてきたって話は聞いてたんだが、事情があったとは知らなかったからよ」
初めて会った日のことを言っているのだとすぐに思い至って、それから忘れていた感覚が呼び覚まされて、胸が押しつぶされるような気分になった。寒いのに汗が出そうだった。
お前は汚らわしい、と多くの者がリージャを罵った。まだリージャがリージャという名を戴いていなかった頃だ。島の男は大陸の白い人々に比べると小柄だ。一番大柄の男、リージャを産んだ女の夫でも、ザルフほどの身長しかなかった。それでも子供のリージャにとっては随分と大きく恐ろしい存在だった。お前は汚れている。生まれてくる前から汚れていた。汚れた存在だから姿を現したのだ、その色の薄い肌、色の薄い毛、薄い唇、ふたかわの目。その邪なる姿。
「気にしなくっても良いと思うけどよ」
急激に遠くへ飛びそうになったリージャの意識を、ヴォルブの呟きが呼び戻した。
「お前が悪いわけじゃねえんだからよ。ひどい目に遭ったことや、ひどい目に遭わされたことなんか、もう忘れちまえば良いんだよ。イルヴィルや、屋敷の連中は良くしてくれるだろ? ここにいれば、お前は自由だ」
さあ、もう屋内へ戻れ、とまたヴォルブは促した。それにつられて歩きだそうとしながら、リージャはヴォルブの言葉を咀嚼しようとした。自分は自由だろうか。島での日々を忘れることができるのだろうか。そんなことは到底無理であるような気がした。この館にいる人々は、島の人々のようにリージャの存在を貶めるようなことを口にしたり、肉体的な苦痛を与えることは決してしない。だがどう見ても、リージャは館の人々とは違う人間だった。肌の色が濃く、鼻が低く平坦な顔立ちで、言葉を話さない。どうしてそんな異質な存在が、この館に住み着いているのだ? それは、リージャが呪われて生まれてきた存在であるからに他ならなかった。そうでなければイルヴィルはリージャを気にかけて大陸に連れて帰ったりなどしなかったのだ。
再びリージャの思考に割って入ったのは、第三者の声だった。
「リージャ! まったくお前は、そんなところにいたのかい!」
怒鳴り声が響いて、リージャは思わず肩を震わせた。その拍子に、不安定に肩に乗せられていたヴォルブのコートが地面に滑り落ちた。
タマラは大股で歩み寄って来た。紅色の明かりが厳しくつり上がった目を照らしていた。出できたばかりの太陽のせいで随分と長くなっているリージャの影を踏んだところでようやく、リージャばかりを睨みつけていたタマラは、その隣にいるヴォルブの存在に気付いたようだった。はっと息をのむ音が聞こえた。
「ヴォ、ヴォルブさま、こんなところで何をしていらっしゃるんですか」
リージャはこの屋敷に来て初めてタマラがあからさまに狼狽し、声を上ずらせているのを見た。自分も初めてヴォルブを見たときは萎縮したものだが、タマラもそうなのだろうか。そう疑問に思うのと同時に、タマラが再びこちらに目を向けた。今度はさきほどよりも更に強い怒声だ。
「リージャ! お前は、こんな夜更けに寝間着のままお客人の前に出るなんて、なんて失礼なことをしているんだい!」
「あー、いい、いい、タマラ。眠れなくて勝手にこの辺を歩いてたら、この娘が来たから付き合わせたんだ。それより早く中に入れてやってくれ」
言いながら、ヴォルブがリージャの背後でかがみこむ気配がした。リージャが肩から落としてしまったコートを拾っているのだろう。それを見てまたタマラが何かを言おうとして、ヴォルブが手を振って留めた。いつでも言いたいことは何でも口にするタマラだが、客人の前では多少遠慮をしたり我慢をするのだというのを、この日リージャは初めて知った。ヴォルブのように、屋敷の外からやってきた人間と触れ合うことが、これまでなかったからだ。リージャはこの三年、屋敷の中でしか生きて来なかったのだということを、漠然と自覚した。
「まったく、こんな寒い中、こんな薄着で!」
いつの間にかリージャの目の前にやってきていたタマラが、リージャの肩をさすった。薄い寝間着越しに、タマラの手のひらの熱を感じた。
「また風邪を引いちまうよ。どうしてお前はそう、考えが足りないんだい。さあ、早く中へ入りな!」
背中を、とんと押され、それはタマラにとっては軽い仕草のつもりだったのだろうが、不意を突かれたリージャはわずかによろけた。よろけて、うつむいたときに、先ほどまでヴォルブといじっていた石の列が見えた。二十を示す二つの石と、これから九十まで数え続けるために必要な残りの石、そして余りになった最後の一つ。リージャは歩き出す前に、その最後の一つをかがんでさっと手中に収めた。ちょうどその時ヴォルブの様子をちらと伺っていたタマラは、それには気付かなかったようだった。早朝の地面の上ですっかり冷え切ったそれを懐に入れると、体の芯が冷えてしまうようで、リージャは一瞬身震いをした。
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