第一章 -9

「よぉ、随分と早起きなんだな」

 囁くようにヴォルブが言った。この館にいるどの男よりも太い声は何度かリージャを萎縮させたが、小さく絞り出すようにして発せられたそれはあまり怖いとは感じさせなかった。また白い息が空中に広がっていった。

 リージャはどう反応すればよいのかわからずに視線をちらちらとヴォルブにやっては戻した。こんな時間に館を抜け出して外をうろついたのは初めてだったし、早起きと称されるのは正しくないような気がした。リージャだけでなく、他の使用人だって、決して屋外を出歩くような時間ではない。まして、イルヴィルの館を訪ねている客人がこんな時間に外にいるのはおかしいのではないだろうか。

 ヴォルブはイルヴィルと取引をしている商人だと、タマラから聞かされていた。島には通貨もなければ商売らしい商売などなかったも同然なので、リージャには具体的にこの男の生業がどんなものなのか、いまいち想像がつかなかった。ただ、貴族であるイルヴィルよりは身分が下らしいこと、それでもあくまで屋敷の客人であることは、言い聞かされてわかっているつもりだった。

 ヴォルブの視線が、黙ったまま立ち尽くすリージャの手元へ移った。

「それを、置きにきたのか?」

 リージャはヴォルブの視線を追い、自分の体温と同じぐらいに温まっていた丸い石に気付いた。それからヴォルブの足下に目をやった。昨日の昼下がりには乱れたはずの石の列が、その直前と同じぐらいに、整然としていた。顔を上げると、こちらを見ているヴォルブと目が合った。

「すまなかったな」

 ほんの少し困ったように眉尻を下げて、ヴォルブは頭をかいた。

「ザルフから聞いたんだが、石を並べて日数を数えているんだってな」

 食堂で皆にばれた時に初めて気まずい気持ちが生まれてしまったことを咄嗟に思い出して、リージャの体は強ばった。少しのためらいの後、リージャは首を横に振った。

「違うのか?」

 ほんの少しヴォルブが首を傾げ、眉を潜めた。そうやって問われると、首を縦に振るのも躊躇われる気分になった。伏し目がちになっているリージャから視線を外すと、ヴォルブは急にその場にしゃがみ込んだ。長身の男がしゃがむと、目線が、リージャの胸の辺りになった。

「どっちにしろ、何かを数えているって聞いたぜ」

 ヴォルブの言葉と視線の動きにつられるようにして、リージャは並んでいた石に目をやった。それを目にすると、つい癖で数えてしまう。一、二、三……と胸の内で数を数えると同時に、急にヴォルブが声を上げた。

「一、二、三……」

 自分の胸の内で唱えていた数とそれが重なって、リージャは目を丸くした。ヴォルブは石を一つ一つ触って確認しながら数えていた。

「八、九、十」

 そこまで数えるとヴォルブは、十個目の石を列から外して手前に置いた。それを見て首を傾げたリージャに振り向き、突然手の平を上に向けて右手をを差し出す。

「それが、今日の分の石か?」

 リージャは首を振った。本来なら昨日置くはずだったものだ。ヴォルブは唇を尖らせると同時に、差し出した指をくい、と曲げた。一瞬遅れて、とにかくそれをこちらに渡せ、という意味だと言うことに思い至って、おずおずとそれをヴォルブの手の平に置いた。ずっと握っていたものが手の内から不在になると心細いような気持ちが生まれた。ヴォルブはそれを列の一番端に置くと、再び数え始めた。

「十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、昨日でちょうど十九日か。そうしたら、今日は二十日目ってわけだ」

 そう言いながら、ヴォルブは一番最初の石を一つ、十九個目の石の隣に移動させた。それからすぐに、それを先ほどと同じように列からはずし、十個目だった石の隣に置き、リージャの方へ再び振り返った。

「いいか、石が十個集まったら、十個の固まりを数える石を一つここに置く。これが、十個目の石、これが二十個目の石だ」

 確認するように、手前に新たに並べた二つの石を指さしながら、ヴォルブはリージャに振り返った。突然ヴォルブが始めた行為と、その意図が理解できず、リージャは何の困惑した顔のままヴォルブと新しい並び方をしている石群を交互に見る。ヴォルブは説明を続けた。

「今日が二十日目だから、明日は二十一日目になるな。だから、明日はこっちに一個石を置く」

 そう言いながら、リージャが最初に並べていた石の列から一つ小振りなものを拾い上げ、二つの石の更に手前にそっと置いた。それをじっと見つめながら、リージャはヴォルブの説明を胸の内で反芻した。真ん中に並べられた二つの石は、それぞれ十という数字の代わりを意味している。十が二つだから、二十だ。その手前にある一個の石は、そのまま一を示している。つまり、二十と一で、今日は二十一日。そう思いついたとき、リージャの小さな胸の内に急激に高揚感が生まれた。思わずリージャはヴォルブの隣にしゃがみ込んで、食い入るように新しい石の列を見つめた。

「おっ、理解できたか?」

 弾かれるように顔を上げ、薄く笑うヴォルブと至近距離で目が会った。何も考えずよく知らない客人と距離を詰めていたことに気づいて、リージャは動揺したが、ヴォルブは使用人風情の無礼に対して何も思うところはないようだった。

「じゃあ、もし明後日だったら、どうなる?」

 そう問われると、もはやリージャの意識は石群に舞い戻るしかなくなる。この新しい閃きを理解できた興奮ですべてが満たされてしまった。

 リージャは一番奥の、自分が集めてきた石の列から一つをつまみ上げて、先ほどヴォルブが並べた石の隣に置いた。十の石が二つと、一の石が二つで、明後日は二十一日だ。満足げにヴォルブが頷く。

「それじゃあ、たとえば、だ。再来週になって、三十三日目だったら、この石がどうなるかわかるか?」

 リージャは手早く、石を二つ手にとって、十の列と一の列にそれぞれ一つずつを加えた。視界の隅で、ヴォルブが大きく頷いている。

「なるほど、確かに、賢いなあ、お前。理解が早い」

 ヴォルブの声は随分楽しそうだった。そう言いながら、リージャが新たに加えた三つの石を元に戻し、石の表示は今日の本来の日数である二十になった。

「しかし、お前、九十個も石を並べるつもりだったのか? 今はまだ良いが、九十も石を集めたら、とんでもないことになっちまってたぞ。九十ってどんな数か、見たことあるか?」

 リージャは首を振った。数字を数えたことはあったが、実際に形のある何かを九十、数えたことはなかった。なんだか途方もなく大きな数であるような気が、今更になってしてきた。

「その点、この方法だったら、お前が昨日まで集めた十九個だけで数えられるぞ。この石全部使ったらいくつまで数えられるか、わかるか?」

 リージャは地面に並んだ石を見つめながらしばらく考えた。明日からまた一の列に一つずつ加えていくとすると、十個並んだところで三十になって、一の列は再びゼロになる。つまり一の列は最大で九個までしか並ばない。仮に一の列に九個の石が並んでいるとき、残りの石は全部で十個だ。それを全部十の列に並べると……。そこまで考えてリージャは微かに首をひねった。十の列が九であるときの数は九十九だが、十の列が十になるとどうなのだろうか。十の列は一の列と同様に九までしか並ばないのではないか。しかし確信が持てず、リージャは悩んだ末、とりあえず十八個の石だけを使って、九十九という数字を作って示した。

「ふむ」

 ヴォルブが頷いた。

「九十九だな。九十九の次の数字は何か知ってるか? 百だ。まあ最後の一個を百の石にして百一、百二と数えてってたら百九十九までは数えられることになるが……半端だな。まあこの石は余りってことにしとくか。九十まで数えたかったんだろ」

 そう言ってヴォルブが隅に避けたのは、リージャが一晩ベッドの中で暖めていた丸いすべすべの石だった。明るい色をしているその石の、縞模様が先ほどよりもはっきり見えていることに気付いて、リージャは夜明けが近づいているのを予感した。顔を上げて辺りを見回す。ほんの少し、空が白く染まり始めている。

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