第一章 -8

 翌朝、リージャはまだあまりにも暗い時間に目が覚めた。当然タマラも目覚めていなかった。鳥すら鳴いていない、とても静かな夜明け前だ。肌の泡立つような寒さに布団の中で縮こまりながら微かに身じろぎすると、タマラに見つからないように枕元に忍ばせた石が頬に当たった。

 昨日、竜の散歩の途中に見つけた石は、リージャの拳よりもふた周りほど小さな石だった。楕円型で、随分と表面がすべすべしている石だった。海辺に落ちていそうだ、と、拾ったときにリージャは思った。この三年、リージャは海を見ていなかった。この大陸に初めてやってきた日が最後だ。大陸の海辺は港町だった。白い壁と橙色の屋根の色合いがとても鮮やかな、頑丈そうな家が沢山並んでいた。随分と圧倒されたことをリージャは覚えている。集落というものを見たのも、三年前のそれが最後だった。今は広大な森の奥に壮大な家と庭があるだけの場所に住み着いている。

 丸くすべすべした石が落ちているのは大陸の港町ではなく、南の島の浜辺だ。リージャはあまり村から出る用事がなかったので、滅多に行く機会もなかったが、小さいころはよく村の子供達に追い回されて逃げ回り、浜辺にたどり着いたことがあった。そこで時折、丸く、綺麗な渦模様が表面に浮き出ている石を見かけた。その頃は石を拾って収集するような習慣はなく、ちらと眺めるだけだったが、昨日それを庭で拾ったとき、ふと島の浜辺のことを思い出した。寄せては返す波は、嵐が来る時期以外はいつも穏やかでおおらかで、常に変わらぬものだった。抜けるような深い青の空と、それよりも緑の混じったような明るい色をしていた。ここしばらく思い返すことを忘れていた景色が急に脳裏を過ぎって、リージャは気分が塞いだものだった。

 石の表面を撫でる。布団に潜り込ませていたから、リージャの体温でほんの少し暖かくなっていた。ぬるく滑らかな表面は、暗がりの中ではっきりとは見えないが、記憶の中では確か薄い灰色をしていて、渦を巻くような模様があった気がする。庭で見つける石は、ほとんどのものが大きくごつごつと表面が歪つだったので、こういう石を見つけるのは珍しかった。

 昨日、本当なら散歩から戻ってきたときにあの中に加えるはずだった。突然現れた、ヴォルブという名らしい男との遭遇で、それをせずにその場を去って、それっきりになってしまったのだった。今日は、数え初めてから何日目なのだろう。確か、一昨日に石を数えたときは十九日目であったような気がする。でも確信はない。数が増えるにつれて、石を数えるのに多少の困難を伴うようになっていた。数の数え方はタマラから教わって、理解をしているつもりだったが、十を超える数は日常の生活ではあまり関わる機会がなかった。十九まで苦労しながら数えたのは一昨日のことのようにも、その前の日のことのようにも思えて、どちらなのか思い出す手がかりが頭の中になかった。正確に日数を把握するには、この石をあの場所に起き、今日の分も加えて、一から数え直すしかなかった。そう思ってから、昨日の、列の乱れ土に汚れた石ころ達を思い出して、リージャは陰鬱な気持ちになった。

 フュラス達に正体を暴かれてからというもの、あの石の群はリージャを落ち着かない気分にさせた。誰にも明かさずにいられたはずの自分の胸の内を、日の光の下にさらけ出してしまったような、いたたまれなさだった。いっそそれが崩れてしまったのを見て、心の中でリージャはどこかほっとしている気もした。しかし、毎日数え続けてきたものが突然途切れてしまう、ということに、正体のない不安もまた感じた。今日は何日目なのだろうか。イルヴィルの帰ってくる九十日目まではまだ果てしなく遠い。いいや、果てしなく遠い、という、その事実だけがわかっていれば、それでいいのではないか。そうして、いつまでもただ漫然と待っていれば、果てしない日常に繰り返しの末に、イルヴィルは必ず帰ってくる――永遠に続くかと思われた島での日々の果てに、彼が現れたように。そう自分に言い聞かせようとしたところで、リージャの胸は唐突に押しつぶされるように苦しくなったのだった。本当に、イルヴィルは帰ってくるのだろうか。

 体はだるく意識も夢うつつだったはずなのに、唐突に居ても立ってもいられなくなり、リージャはそっとベッドから抜け出した。今は夜のどれぐらいなのだろうか。カーテンの向こうは光が全くない。星や月の様子を見れば時間帯の把握は出来そうだが、部屋の中で下手に動くとタマラを起こしてしまいそうだった。細心の注意を払って扉を開いた。微かに木の軋む音がしたが、タマラの寝息は規則的に続いていた。そっと扉を閉じる。廊下に出ると、真っ暗だが、ほんの少しだけ、青白い光の気配を感じた。過剰に早くに目が覚めたと思いこんでいたが、思ったほどではなかったかもしれない。夜目の効いてきた視界には静まりかえった廊下の様子がはっきりと見えた。リージャは悪寒に一瞬震えたが、我慢して歩き出した。屋敷につながる道ではなく、勝手口を目指す。朝を待つ外の空気は湿って重かった。裏道を通り抜けると牧舎が見えてくる。昼間なら馬の嘶きが微かに聞こえてくることもあったが、それすらない静けさだった。だからそこにたどり着いて初めて人が立っていたことに、リージャは驚いて思わず大きく息を吸った。ただ息を吸っただけなのに、静寂に包まれていた空間に響きわたった。

 ヴォルブは、ほんの少しだけ目を丸くして、しかしリージャほどは驚いた様子もなく、静かに立っていた。間近で見下ろされると威圧感があった。こんな時間、こんな場所に人が立っていると思わず、無防備に駆けてきてしまったために、驚くほど距離が近かった。白い息が二人の間にある視界を微かに塞ぐ。

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