第一章 -7

 長身の男は、寄りかかっていた竜小屋の壁から背中を離して、こちらに向き直った。リージャは立ちすくみ、子竜も動かなかった。雛だけがリージャの腕の中でもがこうとしている。今日はザルフが小屋の掃除をしているはずだった。せめてケスリーかフュラスがこの場にいればなんとかとりなしてくれたかもしれないのに。リージャはこの部外者を前にどう行動すべきなのかがわからなかった。

 客人というのはイルヴィルに用があるもので、そういう時は事前に応接間や客室を掃除するようにタマラを通して命じられることはあったが、実際にリージャが客人本人と接することはあり得なかったし、だからこれまでリージャは屋敷の人間ではない者を目にしたことがほとんどなかった。だが、この男は明らかにリージャに対して話しかけている。正確には興味の対象は二頭の竜なのだろう、そちらに視線が向けられているが、竜に人間の言葉を話しかけて通じたり、答えが返ってくるなどと思っているはずがない。それに散歩を「させている」のはリージャだ。

 何の反応もないリージャに向かって男がゆっくりと歩き始めた。子竜は何の動きも見せなかったが、リージャは緊張と動揺で肩が震えてしまった。それが伝染したのか、腕の中の雛が更に激しく暴れたので、リージャはその勢いに一瞬よろけた。雛竜の半身が完全に宙を切っているのを見て観念したリージャは、仕方なく一度腰を屈め、そっとそれを地面に降ろした。解放された雛は、いつものようにリージャの足下にまとわりつくかと思われたが、予測に反して一目散に見知らぬ男の方へ駆けていった。

 仰天したのはリージャだけではなく、男もそうであるようだった。目を見開き、小さな生き物が短い足で自分に向かって走ってくるのを見留め、歩みを止める。つい先ほどまで歩くのが嫌になってリージャに抱えられていたはずの幼い生き物は、見知らぬ男の足下まで迷いなく辿り着くと、きゅう、と鳴いた。小さな羽を目いっぱい広げ、首を伸ばし、先の長い口を男の顔に向けて白い歯をむき出した。いつもイルヴィルに見せるのと同じ、イルヴィルが推測するところの威嚇行為だ、とリージャは思った。

 雛は男の足下でぴょんぴょんと小さくはねた。いつも竜は歩くとき、常に両足の裏を地面につけ、人間の用に交互に足を前に差し出して歩行しているのだが、今はつま先立ちになってその場で両足を宙に浮かせることを繰り返している。

「あっ? なんだ? 何か怒ってんのか!?」

 きゅうきゅう、と繰り返し鳴きながら小さく飛び跳ね続ける雛竜の奇怪な行動に、男が戸惑ったように叫んだ。その声に、呆然としていたリージャは我に返り、慌てて雛竜に駆け寄ってしゃがみ込んだ。雛は歯が生えてはいるが、誰かに噛みつくなどして危害を加えたことはない。しかしいずれにせよ、客人に失礼を働いていることは確かだった。イルヴィルがいるときにいつもそうしていたように、首を後ろから軽く押さえ、もう片方の腕で胴体を押さえ込むと、抱き上げる。背後からゆっくりと土を踏みしめる音がした。子竜がリージャの背後まで歩み寄ってきたのだ。リージャの肩の傍まで、子竜が首を伸ばし、くいっと傾げるような仕草をした。それにつられるようにして目をやる。子竜の視線の先は、男の足下にあった。それを目にして、リージャは雛が何を訴えようとしていたのかにようやく気付いた。人のあまり歩きそうにない場所を選んだつもりだったのに、何故この男はここを通ったのだろう。いや、気をつけていたつもりだったが、数が増えるにつれて石を並べる面積が増えていて、人の通るような道にはみ出していたせいなのかもしれない。整然としていたはずの列が乱れ、土がついてしまった一部の石を見つめながら、リージャは沈黙した。それと同時に、頭上で男が息を吸う気配がした。何かを話そうとしたのかもしれない。しかしそれよりも先に、第三者の声が割って入った。

「ヴォルブさま、どうかなさいましたか」

 滅多に耳にすることのない、ザルフの、まだ若さの残る掠れた声が遠くから響いてきた。リージャは思わず雛竜を抱いたまま立ち上がった。立ち上がると、ちょうど男の陰になっていて見えなかった、ザルフの姿が見えた。いつも無表情なザルフが、いつも通りの無表情な顔で、振り返った男とリージャの顔を交互に見やっている。ヴォルブというのが男の名前なのだろう。ザルフが名前を呼ぶような関係性ということだ、つまりこの場はザルフに任せればいい、とリージャは判断して、竜小屋の方へ駆けだした。ややあって子竜がついてくる足音が背後から聞こえた。ザルフが微かに首を傾げたような気配がしたが、何も言わなかった。その脇を通り抜け、掃除が終わったらしい竜小屋に雛を放つ。まだ雛竜は興奮している様子だったが、続いて子竜が小屋に入ってくると同時にリージャは手早く小屋の扉を閉めた。いつもリージャには無関心なように見えるザルフが、珍しく何か言いたげにこちらを見ていたが、結局何も言わなかった。リージャは駆けだした。

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