第一章

第一章 -1

 イルヴィルの家で働くようになってから、リージャは数を数えることを覚えた。それは使用人の仕事をこなすためには必須の行為であるため、早いうちにタマラが教えようとしたのだった。

 タマラはとにかく声が大きく口調が乱暴で、恰幅が良い上にあまり笑わないきつい表情をしているので、リージャは初め、島でのことを思い出してこの中年の女性にひどく怯えたものだったが、タマラは決して手はあげなかったし、食べ物を食べるリージャを執拗に急かしたり、眠りを妨げたりするようなこともなく、体調を崩せばそれを慮ってくれる、世話好きの女性だった。時間をかけてタマラへの警戒心を解いてからは、リージャはタマラに与えられたものを出来うる限り早く、正確に覚え理解しようと努めた。

 数の概念や勘定をすることをリージャが覚えるのは早かった。タマラは仕事の中でそれを教えており、例えば、今日は客人がくるからいつもより何枚多めに皿が必要で、合計何枚の皿を戸棚から出さなければならない、だとか、そういった雑務を何度か繰り返すと、リージャは自然とタマラが細かく指示を出す前に必要なものを間違いなく用意することができた。言葉も喋らないと思っていた娘の想定以上の飲み込みの早さに感心して、タマラは珍しく大仰に褒めながらリージャの頭を激しく撫でた。その時、リージャは滅多に身体的な接触をしてこなかったタマラの突然の行為に驚いてその場を逃げ出してしまったし、その時はタマラの言葉をすぐに理解し飲み込むことができなかった。それから数日、数週間、数ヶ月と経ってから、ふとリージャはその時のことを思い出し、反芻し、ようやく理解がいったのだった。

「お前は、賢い娘じゃないか、リージャ」

 それはリージャの能力をタマラが評価し賞賛したのであり、それを理解したとき、リージャは急激に誇らしく嬉しい気持ちがわいてきた。そんなことはリージャの人生で初めての経験だった。だがその時にはタマラがリージャの能力を褒めたその瞬間から遙かに時が流れていて、タマラはそのときにリージャが頭を撫でられて驚き逃げてしまったという事実をぼんやりと覚えているだけだった。誰も、リージャが今更になって、数を数え簡単な足し算が出来ることを誇りに思い始めていることになど気づいていないのだった。


 イルヴィルが南の島に向かっていってしまってから、リージャは初めて自分が、日数を数えることができないのだということを知った。

 初めのうちは誰も気づいていなかった。リージャは毎日イルヴィルの部屋に埃がたまらないように掃除をしなければならなかったが、イルヴィルが不在の日は暖炉に火は入れなくてもよかった。だが、その「暖炉に火を入れなくても良い日」がいつまでなのか、リージャには理解できなかった。イルヴィルがいなくなって幾日かが経って、リージャは書斎に火種を持って行くべきか否かがわからなくなり、それを手にしたままタマラの前にやってきて首を傾げた。その様子を見て、タマラは豪快に笑ったのだった。

「まったく、お前はもう旦那さまが恋しくてたまらなくなったのかい、お帰りになるのは三ヶ月後だと、旅立つ前におっしゃっていただろう、まだまだだよ、まだまだ」

 タマラの言ったその言葉が理解できず、リージャはわずかに眉根を潜めて、タマラを黙って見つめた。それを見て、今度はタマラが真顔になって眉をぴくりと動かした。タマラはこの三年間リージャと共に寝起きをしていて、今ではすっかりイルヴィルよりも、寡黙なリージャの心の機微を敏感に読みとることができる。

「ああ、リージャもしかしてお前……そうか、日数を数えることができないのかい」

 その言葉に、リージャは突然、頭を重たいもので殴られたかのような、衝撃を受けた。日数を数えることができない、というタマラの指摘が、具体的にリージャの何の欠落を示しているのかリージャにはわからなかった。しかし、自分が唯一誇りに思っていた「何かを数える」という能力に未だ不足があったという事実に、ひどく動揺したのだった。わずかに顔色の悪くなったリージャの様子にめざとく気づいたタマラが、大きく息を吐き出した。

「いいかい、一日っていうのは、日が昇って日が沈むまでの間のことだよ。それが三十日続くと一ヶ月になるんだ。それが、さらに三回巡ったら、三ヶ月。旦那さまが帰ってくるのは三ヶ月後だよ」

 リージャは早口のタマラから唐突に浴びせられた大量の情報に困惑していた。棒立ちしているリージャの背後から、柔らかな男性の声がする。

「リージャさんはかけ算はまだ難しいかもしれませんね。三十日が三倍だから、九十日。九十日ほど数えたら、旦那さまは帰って来られますよ」

 振り返ると、アンドゥールがリージャに穏やかに微笑みかけた。初老の執事は、せっかちなタマラに比べるとゆっくりと、言い聞かせるような話し方をするのだった。タマラともイルヴィルとも違う口調は、いつもなら努力しなくてもすっとリージャの頭へ入り込んでくる。だが今日は聞き馴染みのない言葉が多く含まれていて、そうもいかなかった。リージャは早急に理解すべき最低限の数字をなんとか心に留めた。九十日。日が昇り沈むのを九十回。それを数え続けると、イルヴィルは帰ってくると、タマラとアンドゥールは言った。九十回。その数字を胸の内で何度も何度も繰り返しながら、リージャはイルヴィルの部屋を掃除し、廊下と窓を磨き上げ、朝食を食べ終えると、いつもの日課の如く、竜小屋へ向かったのだった。

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