序章-4

 清い者は目に見えず、悪しき者は姿を持っている。だから島に白い肌の人々がやってきたとき、島の人々は悪魔がやって来たのだと震え上がり、武器になりそうなものをかき集めてこれに立ち向かったという。だが大陸からやってきた文明人たちは未開の島民の反抗などいとも簡単にねじ伏せた。小さな島では長らく人間同士の争いもなく、戦うということを知らなかった。あっという間に島は異邦人の支配下に置かれ、開拓され、生活を変えられ、島民らの怨嗟はますます募った。

 竜の島はこの大陸よりもずっと南にある群島の呼称だ。リージャの生まれた島は連なる小さな島々のうちの一つだった。リージャは小さな村の中で育ったので、その島が島の言葉で何というのかを知らない。

 一年中太陽の照りつける南の島には竜が住んでいた。鱗に包まれ、空を飛ぶことのない小さな翼を携えた、二本足の巨大な生き物だ。島の中央の山奥に住むその生き物を島民は島の守護神として信仰してきた。年に数度の祭事以外では目にすることのないその生き物は、姿の見えぬ清いものだった。それを、大陸からやってきた白い悪魔たちは文明の利器を持って狩りだした。銃器で傷つけられ縄を掛けられ人の集落に引きずり降ろされた竜たちは、島の人々にとってもはや清いものではなくなった。

 白い人々の目的は、頑丈な鱗に包まれた大きな体を持つこの生き物を家畜化することだった。村の一角に家畜小屋を建て、人の手でこの生き物を飼育するための試行錯誤が行われた。それらは全て白い悪魔に支配された村人たちが強制されて行った。小屋を建て、汚物の世話をし、餌となる作物を作るために村の畑を何倍にも拡張させられた。多少の農業はするがほとんどが漁と採集で成り立っていた村の生活は一変した。日の出から日没まで休むことなく労働に従事する。日差しの強く暑い島でのそれは過酷なものであった。

 住み慣れた山から引き離された竜は度々体を弱らせて死んだ。死んだ竜は白い人々にとってはもはや無用だった。数日に一度の頻度で、村の男たちは、大きく重く冷たい死骸を山の麓に捨てに行かされた。目に見えて軟弱な生き物は尚のこと清いものでなどあり得なかった。ひどく不快で陰鬱な臭気を放つそれを引きずりながら、島民らは、彼らに屈辱と苦しみをもたらす根元でしかなくなったそれらに憎しみを募らせた。

 島の人々はあらゆるものを憎んでいた。白い人々、それに付随して自分たちに苦役を強いるようになった竜、そんな生活から自分たちを逃がすまいと島を囲む広い海。発散し難かった鬱屈は、肌の白い娘が生まれると同時に、一斉にそこへ向けられた。


 子竜の臭気が圧迫感を持ってリージャの鼻腔に入り込んだ。胸が詰まりそうになりながら、リージャは蒸気パイプのそばに寝転がった。目を覚ました小さな赤ん坊が、こちらに歩み寄って来た。かさかさ、と藁と体のこすれる音が耳元でうるさい。

 卵から孵ったばかりの頃のように、もはや鱗はぬめってはいなかった。成竜よりは柔らかく色素が薄いが、それでも日々堅さを得ている。孵化からひと月が経ち、おぼつかない足取りながらも自分の意思で歩けるようになった幼子は、リージャが小屋に姿を見せる度にこうして近寄り、姿が見えない日は悲しげに鳴いた。

「鳥の雛は最初に見たものを親と認識すると言うが、竜も、ともすればそうなのかもしれない。リージャを親竜と想っているのかもな」

 以前にイルヴィルがそう呟いたのを、リージャはこのか弱い生き物がこうして歩き出す度に思い出す。その言葉を聞いたときも、リージャは何の反応も返せず、イルヴィルはそんなリージャの様子を見て自分の言葉が理解できなかったのだと思って、笑った。しかしそれは苦笑ではなく、どこか満たされたような、そんな笑みだった。

「こんなに小さな体で母親とは、おかしなことだな、リージャ。この子供はお前を慕っているんだ。かわいがってやりなさい」

 リージャの絹のような茶色い髪をくしゃりと撫でながらイルヴィルはそう言った。リージャは小さく首を傾げることしかできなかった。

 確かにリージャはイルヴィルの言わんとすることが理解できなかったのだった。

 この小さな生き物は何故、親と認識したものに向かってこんな風に歩み寄ってくるのだろうか。姿が見えないと鳴くのだろうか。

 リージャは親の姿をめがけて駆け寄ったり、そばにいないことを嘆いたことなど一度もなかった。

 リージャの母は、リージャを産んだことを嘆いて自らの命を絶ったと聞かされている。リージャの母の夫はリージャの父ではなかった。彼は島の人間で、島の他の人間と同じように肌の色が黒かった。リージャの母は村長の娘であり、無論、肌の黒い島の人間であったはずだった。リージャの肌の色が薄いのは、リージャの種父が白い悪魔だからであった。何故そのようなことになったのか、リージャの知る由もない。ただ物心ついたときには、日毎それをののしられ、いたぶられたのだった。村の人々の怒りや憎しみは、島にあるあらゆる全てに向けられていた。しかし、それを肉体の痛みとして受け止めなければならないのはリージャ一人なのだった。

 その日、十歳になったリージャは、畑に捲くための水を入れた水瓶を石に蹴躓いてこぼしてしまった。その年の夏はひどく暑かった。ろくに食事もできずろくに眠れもしていなかった少女は、まともにまっすぐ歩くこともかなわなかった。作業でへまをしたことを口実に、いつものように周囲からの折檻が始まったとき、そこを通りかかったのが、島に来たばかりだったイルヴィルだった。事情を察したイルヴィルはそれを止めに入り、意識が酩酊していたリージャを自分の屋敷に連れて帰った。

「こんな稚い子供に」

 リージャの傷に自ら手当をしながら、イルヴィルは呟いた。その時、リージャはまだイルヴィルの話す大陸の言葉を理解できなかった。どこかぼんやりとした視界の隅で、きつく眉根を潜め、何事かを吐き捨てる白い悪魔にひどく怯えた。

「お前は、村に戻らなくて、良い。イルヴィルさまが、ここに置いてくださる」

 島の言葉を話すイルヴィルの部下が、リージャにそう説明した。多少たどたどしく、訛りがあったが、リージャは告げられた言葉の内容は理解することができた。しかし、それが何を意味するのかはわからなかった。村に戻らず、この、白い悪魔の家にいるという意味が。村に戻れば、再び暴力と飢えに耐え忍ぶ日々が再開するだけだろう。それは容易に想像ができた。ではここにいると、何が起こるのだろう。ここには今まで、ずっとおびえ続けてきた白い人々しかいなかった。リージャは身を固くして、目を伏せ、沈黙した。

 イルヴィルが通詞の男に尋ねた。

「この娘は言葉が話せないのか?」

「そうではないと思いますが……」

 その後もリージャはずっと沈黙を貫いた。数日、数週間、数か月が経ったとき、ようやく、この屋敷では何にも怯えず食事をし睡眠をとることができるのだとリージャは気付いた。そうしてようやく伏せ続けてきた顔を上げた頃には、イルヴィルたち大陸の人々が使う言葉も僅かながら聞き取り、理解ができるようになっていた。そしてその頃には、イルヴィルはずっと何の反応も示さないリージャが、島民からの虐待の末に言語という概念そのものすら知らないまま生きてきた娘なのだと思い込んでいることを知ったのだった。

「名前がないままでは、不便だな」

 その日、リージャにあてがわれた部屋にやってきたイルヴィルは、通詞を介してリージャに唐突に、そう言った。

「私が名前を付けよう。今日から、お前は、リージャだ。リー、ジャ。良いか」

 その言葉に驚いて、リージャはしっかりと顔を上げ、初めてイルヴィルの目を真正面から真っ直ぐに見つめた。イルヴィルの姿は、これまでリージャが目にしてきたどんなものよりも、美しい姿をしていた。その美しさは、神々しく、圧倒的で、そして同時に、リージャをひどく悲しくさせた。リージャはイルヴィルの前で、決して声は出さないのだと、きつく決意した。

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