序章-3

 冬が深まるにつれて空気はより乾燥してきた。水仕事をしていると、ひび割れた指にひどく凍みる。布を絞ると、そこから落ちた水が盥の中で跳ね返り、腕にかかった。三度目の冬になってもリージャはこの冷たさには慣れることができない。指先に力が入らず感覚が失われていく。わずかに残った指の腹の神経が布の水を絞り切れていないことを伝えてくる。濡れたままの布で床を拭くとどんな恐ろしいことになるのかタマラが厳しく説いていたことを思い出して、リージャは必死に手首をひねった。ぽたり、と、一滴だけ水が布から滴った。

 少し前に暖炉に火を入れたばかりだった。イルヴィルの書斎は窓際に書き物をするためのデスクが一つと、中央に小さなテーブルと椅子が二つ置いてある以外は、何の家具や調度品もない狭い部屋だ。もうしばらくすれば多少は暖かくなるだろう。それでも常夏の島に生まれたリージャにとっては厳しい寒さだ。日が昇っても、炎が燃えさかっても、体の芯が常に悲鳴をあげている。

 今年の冬からタマラは書斎の掃除をリージャ一人に任せるようになった。あんたも一人前だから、と突然言われたのだった。隣でタマラに小言ばかり言われながらする仕事も緊張するが、一人でいると、逸る気持ちと、仕事の切り上げ時の見極めができない葛藤で今まで以上に気疲れするようになった。日の昇らないうちにカーテンを開け、暖炉に火を入れてから戸棚の埃を落としテーブルを拭き床を磨く。デスクに積まれている書類や本には触れない。イルヴィルは寝室で食事をとった後、たいていはすぐにここへやってきて、一日の大半をここで過ごしている。

 窓から入り込む光が、青白いものから徐々に赤色みを帯びてきた。

 布を膝元に一度おいて、悴んで力はいらない指先にふっと息を吹きかけた。唇から出た空気が白くなり、あっという間に消えていく。指には力は戻らなかった。それをこすり合わせようとしたと同時に、背後で突然、乱暴に扉の開く音がした。澄み切った朝の空気の中でそれはよく響いた。この屋敷にこのように扉を開けるような人間はいないはずだった。

 イルヴィルの屋敷の扉はどれも櫟で出来ていて、分厚く重い。村の家のもののどれとも違うのに、その荒々しい物音が突然に常夏の故郷の過去を思い出させて、リージャの体は強ばった。

「なんだ、イルヴィルはいないのか」

 聞いたことのない男の声がした。ゆっくりと振り返ると、そこには見たことのない男が一人で立っていた。

 年齢は、イルヴィルと同じ、二十歳半ばほどだろうか。背は高く、厚手のコートを着ているために体のラインはあまりはっきり見えないが、イルヴィルよりもややがっちりと筋肉質な体つきであるような印象を受けた。そのコートの質から、リージャと共に寝起きしているような使用人たちとは身分が異なることが知れたが、頭髪には無防備に寝癖がついており、横柄に柱によりかかる様子も礼儀を欠いており、イルヴィルともまた違う類の人間であるような印象を、リージャは持った。

 見知らぬ人間と二人きりになってしまったことに、リージャの心臓は跳ね上がった。客人の対応は使用人たちの中でも決められた者しか関わらないことだった。朝一番に書斎にいて、こんな事態に遭遇する機会はないはずだった。どうすればいいのかわからない。

「ん? 見ない顔だな」

 硬直するリージャに気づいた男が、微かに右眉を動かした。まっすぐな視線は、いつものイルヴィルの柔和なものとは明らかに違った。

「ああ、なるほど……これが噂の」

「応接間で待っているように伝えたと思ったのだが」

 男の背後からイルヴィルの声がして、リージャの体は天敵から逃げ切れた小動物のように、一気に自由になった。息を吐き出したことで、呼吸が止まりかけていたことに気づいた。

 いつもならこの時間帯のイルヴィルはまだ部屋着のままなのだが、今日は既に仕事着に着替えていた。客人を応対するためだろうか。

「よお、久しぶりだな。顔を見にきてやったぞ」

「人の書斎に勝手に入らないでくれ。リージャが怯えている」

「あれだろう、噂の、竜の卵を孵した女神さまっていうのは」

 イルヴィルが唐突に大きなため息をついた。その音に、イルヴィルから普段は感じない苛立ちのような気配を覚え、リージャは再び落ち着かない気分になった。イルヴィルは軽く目を伏せ、視線を男からリージャへ移した。

「リージャ、ここの掃除は良いからタマラのところへ行っていなさい」

 それはイルヴィルがいつもリージャに声をかけるときの、気遣いのある優しい言葉使いであるのに、どこかいつもと異質なものを感じて、リージャの体は徐々に強ばった。ただ黙って不安げな視線を向けられたイルヴィルが、数瞬の後、いつものように苦笑する。こんな風に、リージャがイルヴィルの言葉にすぐに正しい反応を返せないとき、リージャが言葉を理解できていないせいなのだと、イルヴィルは思っている。それをリージャは知っているが、否定する方法を知らないのだった。

「しかし、あれだな」

 何か言おうとしたイルヴィルより先に、隣にいた男が口を挟んだ。

「竜の島の娘だって聞いてたが、町で見かける島の人間に比べると随分、肌の色が薄いんだな」

 何気ない様子で紡がれた言葉に、リージャの膝が唐突に弾かれた。立ち上がると同時に、忘れていたつま先の冷たさに一瞬だけ意識が向いた。ここは島ではないはずだった。あり得ないぐらい寒い部屋で、長らく聞いていなかった言葉が前触れなく降ってきた。肺が凍ったのかと思うぐらい、呼吸が自然にできなくなった。気付いたときにはリージャは走り出していた。

「リージャ!」

 小柄なリージャは二人の脇を軽々とくぐり抜けることができた。急に身軽に駆けだしたリージャの名を、驚くようにイルヴィルが叫んだが、リージャは振り返らなかった。

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