序章-2
物音がして最初に、全身の倦怠感を自覚した。それから、自分がまどろんでいたことに気付いた。重い瞼をゆっくりと開く。薄暗い部屋の中にいた。懐かしい臭いが鼻についた。腐敗した生魚のような不快な臭いだ。島で村人たちが飼育していた竜の臭いだった。
ヴィートトク邸の敷地の東には、いくつかの牧舎が並んでいる。そのうちの一つの小さな小屋に、イルヴィルが島から連れ帰ってきた竜の子どもが一頭と、未だ孵らない卵が数個、納められていた。本来は養鶏のために作られていた小屋を作り替えたものだ。常夏の島から攫われてきた、冬に慣れないだろう生き物のために、板張りの壁はより隙間を減らし、蒸気を通すパイプを小屋の中に通して、小屋の空気を暖めている。
言いつけを破って部屋を抜け出したことをタマラに咎められることを恐れ、思わず廊下を駆けだしたリージャは、途中で息が切れた上に酷い悪寒を覚えて、その温もりに惹かれるようにして小屋に入り込んだのだった。
小屋は空気が籠もっていて、子竜の体臭が島の家畜小屋以上に強く感じられた。この臭いは島の人々が憎しみ抜いていたものだ。竜は「目に見える穢れたもの」とされていて、リージャも同様に、竜を悪しき者なのだと認識していた。
だが島を出て大陸にやってきて三年が経った今、リージャはむしろこの臭いに安心感を覚えるのだった。刺激が鼻腔を突くと同時に、体から緊張が抜け、様々な葛藤から一時的に放たれた気分になるのだ。肉体的な苦痛から解放され、島とは別の世界を知り、様々なことを考える空白の時間が与えられたとき、リージャは、この生き物と自分はひどく似ているのだということに気付いた。目に見える悪魔として忌み嫌われ、虐げられ、こうして異国の地で、リージャも、竜も、孤独だった。
藁の上に横たわったまま、リージャは軽く身じろぎをした。温もりに引き寄せられてここに来て眠ったはずなのに、目覚めると随分と寒く感じた。体が勝手に震えた。そうすると、なんだか悲しい気持ちになった。今は昼日中で、誰かに水をかけられたわけでもないのにこんなに寒いのは、ここが島から遠くから離れた場所であることを実感させた。
物音がして目覚めたはずだった。リージャはけだるい体をわずかに動かして辺りを見回した。薄暗い小屋は木造で、天井は高いが面積は小さかった。蒸気を通すパイプは小屋の角に、壁に添う形で通っていた。小屋の外で石炭を燃やし、発生した蒸気が、部屋に入り、煙突へ向かって抜けていく。熱されたパイプが常に小屋を暖めている。竜の子供はいつもそのパイプの近くに寄り添って眠っていた。
部屋には人間はいなかった。パイプが膨張する際に鳴る金属音が時折うるさく部屋中に響くが、それはリージャの聞き慣れたものであり、眠りを妨げるものではなかった。自分を目覚めさせたのはもっと聞き慣れない、不思議な音だった。薄く堅いものが割れて粉々になるような、小さな音……
リージャはゆっくりと体を起こした。竜の生臭さが染み着いた藁が体についていた。それがぱらぱらと落ちるのと同時に、またどこからか物音がして、リージャは辺りを見回した。自分と眠りこけている竜の子供以外、何もいない、はずだった。
リージャは、パイプのそばに置かれていた白い、ただの物言わぬ置物のように認識していたものに、目を奪われた。そこで起きている光景が、リージャには理解ができなかった。ただただ、それを黙って見つめることしかできなかった。体のだるさや寒気をすっかり忘れて、リージャはそれから目を離せずにいた。
白い殻はいつの間にかひび割れていた。リージャはそれがとても脆いものであることを、ここへそれを運び込む大人たちの神経質な様子から知っていた。だからいつも触らないように、関わらないように細心の注意を払っていたつもりだった。だがそれは今、目の前で壊れていた。
覚えのない罪を着せられしばしば大人たちになぶられた、島での日々が脳裏をよぎり、リージャは震え上がった。恐怖でその場を動けずにいる間に、またパイプが膨張する鈍い音が小屋に鳴り響く。息を詰めたまま、壊れてしまった卵を見つめていると、また、聞き覚えのない物音が、微かに、した。今度こそ、リージャはそれが、卵からしているのを理解した。そして、卵を見つめながらその音を確認したことで、それが、卵が割れている音なのだということを理解した。
卵は割れていた。誰かに触られたわけではなく、ひとりでに。リージャは不可解な現象に困惑しながら、ずっとそれを見つめていた。竜の子供が身じろぎして、乾いた藁のこすれる音がした。やがて、もう一度卵がひび割れる音がしたと同時に、中から、ぬめりを持った黒い何かが、頭を覗かせた。めりめり、と、それまでより強い音がして、それと同時に、バランスを崩した卵が横倒しになった。
一度頭を出した生き物は、あっという間に卵から這いだした。水のようなものが卵の割れ目からあふれ出す。ずぶぬれになった生き物は、リージャの腕で抱けば、すっぽりと収まるだろうほどの大きさだった。まだ柔らかそうな、しかし明らかに、竜と同じ、鱗で全身を覆った、小さな生き物だった。それは目を閉じたまま、何か本能に突き動かされるようにして、おぼつかない足取りで藁の上を歩き出した。震える二本の足はまだ完全には伸ばせず、己の体を支えるには力が足りないようで、弱々しく震えている。頭をもたげ、短い尾を引きずるようにして這ってきたそれを、リージャは黙って見つめた。リージャの膝元にたどりついた頃には、その生き物の目はわずかに開いていた。目の前に障害物が現れたことに気づいたらしく、ぎこちなく頭を降った。
そして、つぶらな目が、まっすぐにリージャを見つめた。
「リージャ!」
突然、小屋の扉が開き、昼の明るい光が部屋に一気に差し込んだ。まぶしさにリージャは目を細め、生き物も反射的に光源から顔を背けた。硬直していたリージャの体は、術師の呪いから解かれたように、突然自由を取り戻した。
イルヴィルが、リージャの姿を見留め、こちらに歩いてくる。
「こんなところにいたのか、どこへ行ったのかと心配したんだぞ。どうして――」
リージャはいつものように、口を開き、そして何の声も出せなかった。イルヴィルの目を見つめた後、さっと視線を自分の膝元に落とした。その様子に、イルヴィルが首を傾げ、そしてリージャの肩越しに、その膝元をのぞき込んだ。藁と藁のこすれる音が微かにしたのと、イルヴィルの息を飲む小さな音が重なった。
「――まさか」
ずぶぬれの生き物の全身が、入り口から入り込んだわずかな光を鋭く反射した。
「奇跡だ」
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