竜の蹄

序章

序章-1

 清いものは目には見えず、悪しきものばかりが姿を現す、というのが、リージャの生まれた島での言い伝えだった。折につけ、島の大人たちは繰り返しそう口にしていた。だが、リージャが知る唯一の聖なる美しいものは、明瞭な姿を持ってリージャの目の前に現れた。その事実はいつもリージャを苛む。

 リージャの聖なる美しいものは、見目も清く美しい姿をしていて、そのことが余計にリージャをひどく不安にさせた。目に見える美しさに惑わされてはならない。それは邪であり、いつか必ずお前に仇なすと、十年間島で聞いてきた言葉がリージャの胸の中で繰り返される。そうするとリージャは一瞬、不思議な安堵感に包まれる。孤独という殻に閉じこもることで、何者からも解放され自由になる権利を与えられた気分になるのだ。しかしそのすぐ後に、リージャの脳裏には、捨ててきたはずの故郷の島での日々が過ぎる。毎日続く夏と、照り続けて肌を焦がす太陽の強い光、時折訪れて島と海を荒らす嵐。畑の土の臭い、牧舎の生臭い臭い、夜に山から響いてくる野生の竜の鳴き声。忘れようのないそれらは、屈辱と苦痛の日々の象徴であり、永遠に続くかと思われたその地獄の末に、清い者は現れたのだった。

「この島を出て、俺と一緒に、来るか」

 イルヴィルはリージャにそう言った。その時、リージャはその男の目を戸惑いながら見つめ返すことしかできなかった。

 イルヴィルは、毎日肉体労働を強いられている島の男たちよりは随分と細身で華奢ではあったが、それでも彼らに共通して明らかに男性的な体つきであり、そして島の男たちよりはずっと長身で、そうやって見下ろされると、本来ならひどく威圧感があるはずなのに、しかし、リージャは決してそんな風には感じないのだった。

 イルヴィルは、島の者たちが邪なるものとして忌み嫌い、リージャ自身も恐れ続けてきた、白い肌をしていた。だがその時、リージャははっきりと、これは美しいもので、これ以上に美しいものなどこの世にはないのだと確信した。

 その日、島はよく晴れていて、一番高いところに登り切った太陽の光が、イルヴィルの精悍な顔を強く照らしていた。白い肌は明るく透き通り、薄茶の長いまつげに縁取られた切れ長の目、すっと通った鼻筋に、薄い唇は、今まで見てきたどの男とも違った。

 リージャはその時、イルヴィルがリージャに意思を問うていることを理解していたが、しかしリージャはその十年の生涯の中で、何らかの意思を他人に伝えた経験がなく、方法を知らないのだった。ただ黙ってイルヴィルを見つめ返すリージャに、イルヴィルは苦笑した。いつも厳しげにひそめられている目尻が下がって、表情が緩んだ。それをリージャは尚も黙って見つめていた。

「そうか、まだお前は俺の言葉がわからないのか。――なら、俺が決める。島を出ろ、お前はここにいるべきではない」

 そしてイルヴィルはリージャの手を取り、その年、終わらないはずの夏が終わった。


 大陸での夏が終わり、リージャにとって三度目の秋が訪れようとしていた。夏以外の季節の、独特の、湿気を含まない冷たい風は、いつもリージャを不安にさせた。そしていつも、こうして島での日々のことを思い出し、自分が望んでここにきたはずであることを胸の内で反芻し、しかしそれなのに、島で聞かされ続けた言い伝えが、リージャの信じたいものを否定しにやってくる。そうするうちにリージャは、その場にいられない気持ちになって、寝所を飛び出すのだった。

 秋、リージャが目覚めて活動する早朝の時間帯はいつも、空気が日中より湿気を多く孕んでいる。しかし今は既に軽く乾いた肌寒いだけの空気になっていた。今日は一日寝ていろと、同じ部屋で寝起きしているタマラが言ったのだ。

「まったく、お前はまた夏が終わるなり風邪をひいちまったんだよ」

 と、いつものような乱暴な口調でタマラはリージャの額に自分の手のひらを当てながら言った。いつも温かい体をしていると思っていたタマラの手のひらが、今日は何故か自分よりも冷たく感じられて、意識のはっきりとしないまま、リージャはなんだか不安な気持ちになったのだった。

「風邪だよ、風邪。わかるかい。お前は病気になったんだ。だからベッドから出ずに寝てるんだよ。後で粥を持ってくるから、それまで寝ているんだ。わかったかい。わかったら、頷くんだよ、ほら」

 リージャはこの中年のふくよかな女性から三年前に教わったいくつかの意思表示の形の一つをここで示した。そうするといつも不機嫌そうにしているタマラの顔がほんの少しだけ緩むのを、リージャは知っていた。それからリージャは妙に重い体をベッドに横たえ、再び眠りについたのだった。

 廊下に出ると、窓の外ですっかり白くなった太陽が南の方角へ昇り切っていた。使用人用の宿舎には人の気配がまったくなかった。一番忙しい時間帯なのだ。リージャも本当ならタマラの後について、屋敷の掃除や厨房の手伝いをしているはずだった。リージャは廊下を駆け抜けた。連絡用の通路を通り抜けると、母屋にたどり着く。イルヴィル・ヴィートトク邸は、リージャの生まれた島の集落一つ分ほどの広さがある、とても大きな家だが、三年ここに住み着いたリージャは、今はすっかりどこに何があるのかを把握していた。客人など滅多に来ない寂しい屋内を誰にも会わないように注意深く駆け抜けると、すぐにイルヴィルの書斎にたどり着くことが出来た。

「あたしだって、何度もこんなことを言いたくはないんですがね、旦那さま」

 タマラの声が廊下まで聞こえてきて、リージャは足を止めた。

「あの子を、いつまでこの家に留めておく気なんです」

 足音を潜めて、リージャは半開きになっているままの扉に近づいた。タマラの問いかけに答えるイルヴィルの声は、まだ聞こえてこない。

「邪魔だから追い出せと言っているんじゃあないんですよ。ただ、このままじゃあの子はどうなるんです。中央の方じゃあの子みたいによその国や島から連れてこられた子も、ちゃんと働いて給金をもらって生活しているって言うじゃありませんか」

「リージャを都で働かせろっていうのか」

「そうじゃありませんが、いつまでもここで一人ではかわいそうじゃありませんか。他の若いメイドはもらったお給金をためて、いずれは結婚することもあるっていうのに、このままじゃあの子にはそんな選択をする機会もないんですよ」

 少しの沈黙があって、イルヴィルのため息が聞こえてきた。リージャは二人が自分について語り合っていることに気付き、落ち着かない気分になりながら、その場から立ち去るきっかけを失っていた。

「しかし、あの子をこの外で生活させるのは無理だろう。あの子は言葉が話せないんだ」

「あの子は旦那さまが思っているより賢いんですよ。そのうちきっと話せるようになります」

「タマラ、前にも言ったと思うが――」

 リージャは唐突に、その場に立っているのが辛くなってきた。お前は風邪なんだから寝ていろ、と今朝タマラに言われたことを思い出した。風邪の定義を未だに理解ができていないが、しかし、タマラにそう言われるとき、いつもリージャの体は重く、頭は朦朧として、うまく動くことができないのを思い出した。その時、外で小鳥が鳴いているのが聞こえた。ピチチ、と軽やかな声で小さく鳴くと、どこかへ羽ばたいていくのが窓の外に見えた。二人は気付いていないようだった。澄んだ鳴き声がリージャの耳にだけいつまでも残った。

「あの子は両親がおらず、島でろくな目にあっていなかったんだ。自分の島の言葉すらわからなかったんだ。あの歳になるまで言語という概念すらよくわかってはいなかったんだよ。君が辛抱強く面倒を見て最近では多少意志の疎通ははかれるようになったが、会話なんてとても――」

「リージャさん?」

 室内の会話に耳を傾けていたリージャの意識に、突然別の声が割って入った。反射的に振り向くと、アンドゥールという名の初老の執事が不思議そうな目でこちらをみていた。

「どうしたんです、具合が悪くて寝ていたのでは――」

 それと同時に、背後から足音が近づいてくるのを感じた。荒々しいそれがタマラのものであるのがすぐにわかって、リージャは反射的に廊下を駆けだした。いつも落ち着いた紳士的な振る舞いのアンドゥールが軽く声を上げる脇を通り過ぎる。

「リージャ!」

 タマラの怒声が聞こえて、リージャは震え上がりながら必死に逃げた。

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