第11話 ハクセキレイの黄色いほっぺ

 「偽痛風」と「糖尿病」の疑いをかけられ、血液検査をすることとなった私。

 採血室は激混みだった。まず部屋の前の待合室に、座れる椅子がない。番号を呼ばれるまでまだまだ時間がありそうだったので、とりあえずトイレをしとこうと思った。

 個室に入り、用を足そうとしたところで、左膝の異変に気付き、思わず声を上げそうになった。

 左膝の裏側、腱?の上に、ぽこっと、小豆ぐらいの大きさの、ピンク色のできものがひとつ、出来ていたのだ。

 そっと触ってみるが、圧痛はない。立ったり歩いたりしても、右膝のように体重をかけることによる痛みは生じなかった。偽痛風とやらではなさそうだ。だが多分、右膝の腫れと関係があるような気もする。

 まあとりあえず、採血だ。

 トイレから出てもまだ番号を呼ばれる気配がない。

 玄関が見える窓際の通路のベンチに腰掛けた。

 利用者用の歩道と建物の間に、白い石を敷き詰めた小さな庭が作ってあった。よく見ると、その上を、ハクセキレイが一羽歩いていた。

 ハクセキレイというのは、名前を聞いたことがなくても、おそらく日本に住んでいる多くの人が一度は見たことがある鳥だと思う。スズメと同じぐらいの大きさで、白と黒のモノトーンな色合いをしており、長い尻尾をピコピコ振りながら、色んなところを歩いている。この歩く姿がかわいくて、見かけるとついじっと観察したり写真を撮ってしまう。双眼鏡とカメラを持ってくれば良かった、と一瞬思ったが、病院内で首から双眼鏡とカメラを下げている人間がいたら確実に不審者だ。

 ハクセキレイという鳥はいわゆる肉食で、よく虫なんかを食べるために地面を歩いていることが多いのだが、石が敷き詰めてある病院の庭で何をしているのだろうとよく見ると、頬がわずかに黄色かった。今年生まれの幼鳥のようだ。もしかしたら親離れしたばかりで、どういうところに行けば効率よく餌が取れるのかわかっていないのかもしれない。

 歩きづらい石の上をぴこぴこ歩いていると、強い風が一筋吹いて、バランスを崩して転びかけていた。この日は台風が過ぎ去ったばかりだった。

 野鳥の多くは生まれて一年以内に死んでしまうと言われている。この子はどうなるだろう。生き延びられるだろうか。

 もしもこの子のおっぱいと膝が、今の私みたいに激しく痛んだら……狩りも上手くできないし、天敵から上手く逃げることもできないだろう。人間にとっては死ぬような病じゃなくても、野生の生物にとっては死活問題だ。


 番号が呼び出され、採決室に入った。システム化された部屋で、効率よく人が回っている。血液は真空採血管3本分取られた。再び外科の待合室で待たされる。

 待っている間、午前中に先生に見せたJ-stageの記事を自分でも読んでみた。

「結節性紅斑を合併した肉芽腫性乳腺炎の1例」。

 肉芽腫性乳腺炎も聞いたことのない病名だったが、結節性紅斑とやらも初耳だ。どうも足に痣のようなものが出来て痛むという病気らしい。患者の写真(モノクロ)が載っていたが、脛を大量の痣が覆い尽くしているような状態だった。私は今のところ右の膝頭の腫れと、たった今発見した左膝の裏の豆粒しかなく、脛には何もないので、なんだか合致しないような気がする。だが、念のため最初から最後まで読んでみる。

 論文のメインは肉芽腫性乳腺炎なので、結節性紅斑に関して細かく説明はしていなかったが、皮膚科の領域の疾患、免疫疾患の1種で、ステロイドを飲むと治るようだった。そして、肉芽腫性乳腺炎も、ステロイドの服用で治る場合が多いとも書いてあった。

 ステロイドというと、詳しくは知らないが、なんだか自分が子どもの頃、やたら「アンチ・ステロイド」なブームがあったような気がして、「なんとなく危険な薬」っぽいイメージが根拠なく自分の中にあった。でもこれが治療に不可欠ならば、よく調べておいた方が良いな、と思った。

 1時間程度して、名前を呼ばれて診察室に入った。

 扉を開けるなり、私はとりあえず報告した。

「先生! さっきトイレに入ったら、左足にもなんか変なできものが!」

 がばっとスカートをまくり上げて、左膝の裏の小豆を見せた。

「ええー?! なんだこれ? わっかんないよー」

 まあ、そう言われる気はした。

 というわけで、とりあえず血液検査の結果を渡される。

 白血球の値は、Y医院で最初に測ったときは正常値の範囲内だったが、今回は微妙に越えていた。炎症のマーカーである「CRP値」というのも高い。

「まあ、胸も膝も明らかに炎症ではあるからねえ」

 問題の尿酸値・血糖値は正常値の範囲だった。

「まあ、碧さん、見た目も痩せてるし糖尿病っぽくないもんね」

 いやいや、今時太ってるから糖尿病とかそんなステレオタイプある?! まあ、血糖は一度も引っかかったことはないんだけど。

 とりあえず、疑われる内分泌系の疾患は否定されたので、足の件は近所の整形外科で診てもらってくれという結論になった。

 とりあえず、権威先生の次の診療の日までの分の、1日3回服用のロキソニン(+一緒に飲む胃薬。ロキソニンは胃が荒れやすいらしい)を処方してもらい、この日の病院は終わった。

 胸と足の痛みに耐えながら、長い会計待ちを乗り越え、この日は病院の前にある、初めての調剤薬局に処方箋を持って行った。

 薬局では、薬剤師さんから、どういう治療で薬をもらっているのか聞かれるのだが、説明が難しかった。

「胸が痛くて、今検査の結果待ちなんですが、とりあえず痛み止めを処方してもらっている感じです……」

 会計を済ませて車に戻ると、私は大慌てで痛み止めを飲んだ。震える手でミネラルウォーターのペットボトルのキャップを開け、飲んだ後息を切らす様は、B級映画のワンシーンに出てくるヤク中のモブキャラのようだった。

 しばらくすると、歩く時も辛く感じていた足の痛みが、嘘のように消えた。感動すると同時に、この強力な薬の存在に怖さのようなものも感じた。

 とりあえず、これさえあれば、しばらく、日常生活は大丈夫そうだ。

 この謎の足の炎症? でき物? に関しては、新しい病院に行くより、権威先生に一緒に見せた方が良いのではないのか、と思い、来週末まで待とう、と思った。


 翌日、いつも通りに出社した。直属の上司に簡単に報告する。

「昨日は急にお休みいただいてご迷惑おかけしました。ロキソニンを処方してもらって、飲んだら、普通に動けるようになったので、しばらく大丈夫そうです」

「ああ、そう、良かった」

 しばらくは大丈夫そう。本当にこのときはそう思っていたのである。

 いつも通りに仕事をこなし、最近休みがちだったから溜まっていた仕事もこなしたので、この日は調子に乗って多少残業したかもしれない(記憶が曖昧ではあるが)。

 そして帰宅し、飯を食べ、食後の、この日3回目のロキソニンと、共に処方された胃薬を飲み、風呂に入ってから、睡眠導入剤と抗うつ剤を服用して、寝た。


 翌朝、目覚まし時計のアラームで目が覚めた。

 ベッドから手を伸ばして届く範囲にあるので、手探りでそれを止める。朝が苦手なので、少しだけベッドの上でぼーっとしてから、いつものように起き上がろうとした。


「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"」


 私は悲鳴をあげてその場に倒れた。

 立ち上がろうとして右膝に体重をかけた途端、耐えがたい激痛が走ったのだ。


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