第20話 白壁荘の少女 囚われの人形
序章
永い永い眠りから目覚めると、其処は四方を白い壁に囲まれた部屋の中だった。
四隅には蜘蛛が巣を張り、頭上には古い蛍光灯が光もなく二つ並んでいる。薄暗い部屋の中に光をもたらすのは、片方に開いた古びた木製の窓枠から見える遠い遠い青い空から届く光の反射だけだった。
太陽の姿は見えない。すると此処は北向きの部屋なのか? いや、二つある窓のひとつは厚いカーテンで遮られ、もう一つの窓から見える薄汚れた緑色のとんがり帽子が特徴的な屋敷の壁は日が当たっていない。一年中日が当たらないから一面が苔むした壁なのだ。佇まいは立派な屋敷ではあるが、壁が苔で全面緑色に染められ、まったく手入れがされていないことが伺える。すると俺が今観ているとんがり帽子の壁は北向きで、俺はその北西側にある建物にある、東向きの窓からそれを見ているのだろう。そして時刻は夕方、太陽は西に傾き窓の外にある筈だ。カーテンに当たる光の具合でそれがわかる。では、此処は何処だ?
窓から見える外の風景に慣れた目で、薄暗い部屋の中を探索する。テーブルの上には安物の花瓶に花が生けられている。あの赤い花はサザンカだろう。晩秋から冬にかけて咲く花だ。殺風景な壁には、他に何も無い。白いペンキが塗られているだけだ。光沢の具合から、最近塗られたのかもしれない。粗末な作りの建物を尚更、安っぽく見せていた。
そして視界の隅には木製の大きな椅子が一つ。椅子の上にはマイセンの陶器の様な青白い顔をした人形が一つ、硝子玉の青紫の眼を見開き座っている。俺は不健康そうな人形の顔を凝視する。瞬き一つせず見詰める人形からの視線に何かを感じ目を合わせる。すると、人形が突然動いた。
眼を見開き何も出来ずに居る俺を見据えたまま、人形はゆっくりと立ち上がりると俺に向かって歩みはじめた。咄嗟に何か声を出そうとしたが、何故か言葉が出ない。右手を動かそうとするも上手く動かない。ベッドから起き上がろうとするも上手く起き上がれない。
突然、誰かの懐かしい声が聞こえた気がした。『人並みにベッドの上で死ねると思うなよ!』声の主が誰だったのかは思い出せない。何故思い出せないのか? 俺が信頼していた人物だった筈だ。俺の師匠的存在だった男だ。俺を一人前に育てあげた親父の様に慕っていた男の筈なのに――そう、そうだ! ジョーイ! ジョーイだ。本名ではないが、皆ジョーイと呼んでいた。
何故そんな昔の事を、今こんな状況で思い出したのか? 人形はもう俺の目の前に到達しているではないか。瞬き一つしない目で俺を見下ろしているではないか。
第一章
俺が無表情な硝子玉のような眼を驚愕の眼差しで凝視していると、更に意識外の方向から男の声で「意識が戻ったようだな」と呼びかけられ、俺のからだが反射的にビクリと跳ねた。
視界外に居た男は俺の顔を覗き込み、目の反応や痛覚の反応を検査すると「再発さえしなければ大丈夫だろう。暫くは絶対安静だから入院させるのが適切だが、精密検査のできる大きな病院までは此処からは随分と遠いな。どうするかね?」と、言った。
そうか俺は病気なのか、それで体が麻痺して動けないのか。薬の作用で意識が朦朧としているのか。ならば、なぜ早く大きな街の病院に入院させない? こんなみすぼらしい部屋に閉じ込めているんだ!
「でも、この病気は完全には治らないのでしょう? 障害が残る。それに母の介護がありますから、あたしが家を空ける訳にはいきません」
そうか、俺は脳の病気なのか。再発しなければ大丈夫と言う事は、脳卒中か脳梗塞あたりだろう。それも致命傷になる部位ではなかったと言う事だ。
「そうかね。リハビリによって、ある程度の機能改善は期待できるのだがね。それでも時間を掛けて日常生活が問題ない程度になるくらいまでだが……」
「えぇ、長期入院と機能改善には時間とお金が掛かりますから」
「家庭の事情なら致し方あるまい。折角、失踪した父親が帰ってきたというのに、これでは君の負担を増やしに帰ってきた様なもの――。これは失礼」
「いいんです。あたしには父が帰ってきてくれただけで嬉しいのですから」
娘だと? この不気味な少女が俺の血をわけた娘だというのか? いくら朦朧とした取り止めのない思考でも、これだけは確実に言える。俺はこんな女はみた事も無い。断じて俺の娘などでは無い!
人形の様に無表情な少女の眼が、医者らしき男に向かう視線から俺の顔へと見下ろされる。何も出来ない何も言えない俺に対してその眼は、得物を手中に収めた猛禽類の冷たい眼に思えた。
第二章
俺は脳の病気らしい。病気のダメージの所為かクスリの作用なのか、頭がすっきりしない。朦朧とした意識で考えがまとまらない。記憶が定かではない。俺は誰で、少女は何者で、此処は何処だ?
俺は多分左脳に深刻なダメージを受けているようだ。人間の脳は右脳が左半身を、左脳が右半身を支配している。今の俺は利き腕である右手が麻痺して動かない。意識して動かそうとしても小指が僅かに動く程度だ。当然、右足はピクリととてしない。そして言語障害で、頭の中では思っても口から言葉が出てこない。
医者は帰り際、『薬は手配するから買い物に町に出た時にでもいらっしゃい』そういい、部屋から出て行った。少女は相変わらず硝子球の様な無表情な眼で俺の顔を覗き込み、「言いたいことがあるときには何でも言ってね」そう囁きかけ僅かにほくそ笑んだ気がした。
俺は言葉が出せない。それを確認するように。
少女はマリスと名乗った。彼女の話を総合すると、母親と二人で暮らしている。母親は寝たきりで介護が必要な状態にあり、生活は僅かばかりの蓄えと近隣の村でマリスが手伝いをして得ている。父親は彼女が幼い頃に出ていったようだ。母親から聞いた話では放蕩が過ぎ、ぶらりと家を空ける事はしょっちゅうだったのだという。そのうち帰ってくるだろうと高をくくっている間に十数年がすぎていた。
それで俺が父親に間違われたということか。しかし、何故? 何故、何処で間違われた? 俺がこの娘の顔を知らないのは当然として、俺の娘ではないのも確かな事だ。俺に娘など居ない。子供は作らない。結婚などもっての他だ、足手まといになる家族など必要ないからだ。
だから、……なぜ?
目覚めてから俺は順調に回復していたが、病気の後遺症は重かった。普段出来る事が出来なくなるのは辛いことだが、相変わらず無表情で生気のないマリスが手伝ってくれている。
母親の介護で慣れているのだろう、細かい事にもよく気がつく。生理現象も卓上にベルを置き、知らせればすぐに来てくれる。育ちから推測すると、男性の性器を見た事はなかったのだろう。排尿の時にソレを摘み上げる仕草はぎこちない、常に無駄な動きをしない彼女の躊躇いは、人形の様に冷たく冷静な彼女にしては珍しく、人間らしい意識を感じさせた。
マリスは感情を一切表さない。一点を見詰め瞬きを惜しむ様に観察する。その姿は容姿とも相まって人形そのものだ。俺は彼女とコミュニケーションを探ろうとも試みたが、日常生活では必要無かった。彼女は俺の眼球の動き、意識を素早く察知し先回りして意味を読み解く。常に俺を観察して俺の動きの意味を探り、心を読んでいる。
特殊な家庭環境で育つと、この様な人間が出来上がるのだろうか? それとも本人の気質なのか? 人間は特殊な環境下にも適応する能力を持っている。人と滅多に接する事のない
「マリス! なんて気の効かない子だい! 何度言わせれば気が済むんだ、この役立たず!」
一階から漏れ聞こえてくる声。あれがマリスの母親か、この調子では旦那が逃げ出したくなる気持ちも理解できる。逃げ出せるだけまだマシなのだ。『邪魔者は情婦でも始末する。死体は庭に穴でも掘って埋めてしまえばいい』そう。そう言ったのはジョーイだった。思い出したぞ。ジョーイは殺し屋だった。組織に依頼されれば、一国の大統領であっても消す。そんな人間に家族など必要ない。足手まといになるだけだからだ。名前さえも捨てる。生きた証など足をすくわれるだけなのだから。
母親が喚き散らす声が続いている。出て行った父親はきっと何処かで野垂れ死んでいるに違いない。父親などと言いくるめて家に転がり込むような男を引き入れるなんて、お前もあたしを捨てて出て行くつもりなんだろう! と、マリスを
『死体は庭に穴でも掘って埋めてしまえばいい』
第三章
そうだ、『死体は庭に穴でも掘って埋めてしまえばいい』ジョーイは俺に女を殺せと言った。庭に埋めてしまえばいいと、言った。
この頃になると、俺は部屋の中を杖があれば何とか移動できるようになっていた。ベッドから起き出て、簡易トイレで用をたす。窓際に行き、外の景色を眺める。窓から見える風景はありふれた閑散とした田舎の風景だった。牧草地と畑、果樹園が点在する眺めの良い景勝地。絵にするには打って付けの場所だ。ここは人の目につかない場所だ。
視界に小さな土の盛り上がりを見付けた。庭にひとつ。窓の外に見える
そう。死体は目立たない場所に埋め、殺し屋は目立たない場所に潜む。それがセオリーだ。
相変わらず、俺の口から言葉はでない。言語中枢のダメージによるものか。からだの左半身だけは問題なく動いている。俺の症状は重いらしい。右手はリハビリをしても以前の様には動かせないだろう。腕は曲がり固定化されて手は強く握り締められている。小指が僅かに動かせる程度に重度の症状だ。これではもう絵は描けない。
そうだ、俺は絵を描いていた。職業を絵描きと偽っていたからだ。田舎に引き篭もる、人間嫌いで偏屈な画家なら、殺し屋の隠れ蓑には持って来いだからだ。長期間家を空け、突然姿を隠したとしても誰も怪しまない。
窓から見える空の雲行きがあやしい。分厚い雲が空を
外は俺の予想以上に絶望的な風景を見せ付けた。何も無いのだ。建物の西面・南面・北面全て見渡す限り何も無い。隣りの苔生した壁の屋敷まででも数百メートルはある。大きな道路に出れば民家もあるのだろうが、自動車、或いは自転車が必要だ。これでは、徒歩でさえも
庭には何かを焼いた後と、小さな畑、そして南面に土の盛り上がった場所を見付けた。女の手では深く掘り起こす事は困難だろう。何かを埋めて、それを隠す意図が、比較的柔らかい畑の土を掛け盛り上げらせた。生い茂る雑草が不自然な土の盛土を目立たなくさせている。
「そこはお墓よ!」
突然背後から声を掛けられ、不意を突かれ振り向こうとして思わずよろめき転倒しそうになった。危うく俺のからだを支えたのは、何時の間にか帰宅していたマリスだった。
「子供の頃から飼っていた犬が死んだの。あたしのたったひとりのお友達だったの」
あの盛土はマリスの飼っていたゴールデンレトリバーの墓だった。マリスに嘘をつく理由は無い。
隠したいなら目立たない場所へ、深く掘り発見を難しくする。それは俺が実行した事だ。
強い嵐がその日の晩から訪れた。雨は降ったり止んだりを繰り返し、風よりも激しい稲妻の光が地上へ降りそそいで、闇の中に景色を浮かび上がらせている。寝つけない俺は、マリスが買って来てくれたノートと鉛筆で、その不気味な風景をスケッチする。左手で絵を描き文字を書く練習をしなければならない。この牢獄から脱出する為に。
突然に、見慣れたネガの景色に違和感が追加された。誰か居る。
誰かが、風景の中に侵入している。こんな嵐の夜に、何者かがとんがり帽子の屋敷に居る。この数ヶ月間、一度として人影を見る事がなかった屋敷に、稲妻の光が、フラッシュのように照らした人間のシルエットが、確かに眼のフレームに焼きついている。あれは誰だ。
「何処へ行ったんだい、この役立たず! あたしを見捨てて男といちゃついている暇があるなら早く来るんだ!」
鼓膜を揺らす不快な空気の振動よりも更におぞましい、卓上ベルを打ち鳴らす母親の
母親の部屋は一階にある。南向きの日当たりの良い居間の壁際にベッドが据え置かれている。冬は暖かく、夏は風通しの良い大きな窓が二面に開いている。マリスはその部屋に隣接する、小さな窓があるだけの物置部屋を自室として利用していた。何時でも母親に付添えるように。
第四章
嵐の風音が窓を叩き、木々の軋む音が室内にまで達している。隙間風が居間の戸を軋ませながらゆっくりと開いてゆく。
「誰だい! マリスかい? こんな夜中まで何処をほっつき歩いてたんだ、発情した猫じゃあるまいし!」
掠れきった金切り声が憎悪から狂気へと変る。
「誰だ? お前は!」
扉の向うに佇む影は答えない。答えられない。
「お前か! お前がマリスの言っていた父親ってのは! 似ちゃあ居るが、アイツである筈が無い! アイツはだって、アイツはあたしが裏庭に埋めたんだ! 子供も居るのに、あたしを捨てて旅に出るだなんていいやがって! 頭を潰して冷たい日の当たらない場所に埋めてやった! 一生日の当たらない冷たい地獄に堕してやった! 今頃のこのこ出て来やがって! 亡霊なら地獄に帰りやがれ!」
部屋の暗闇が窓に映る雷光に照らされ、老女の狂気を浮かび上がらせた。母親は既に狂っていた。 十数年前マリスの父親を殺し、マリスは心を殺す為に育てた。コイツも殺し屋なのだ。殺し屋は死ぬ運命にある。ジョーイは俺が殺した。仕事を辞めるのに邪魔になる俺を始末しようとしたからだ。そして庭には二つ目の穴が掘られた。俺の愛しのカトリーヌは南向きに埋めてやりたかった。それさえも叶わなかった。だからせめて、ジョーイは北側の、一年中日の当たらない冷たい穴倉に放り込んでやった。何人も殺して来た男だ、その報いは受けなければならない。最愛の女でさえ犠牲にして尽くした俺に情け一つ掛けず消そうとした男は地獄に堕ちて当然なのだ。
「出て行け! この幽霊野郎! 地獄へ帰りやがれ!」
どんな悪態を吐いても、俺に言い返す言葉は無い。俺もあの日、一度死んだのだ。
仕事は全てジョーイが取り仕切っていた。組織は俺の名も存在さえも知らない。俺はジョーイの貯めた金で田舎の別荘を買い、絵描きとして移り住んだ。ジョーイが隠れ家に使っていた白壁荘だ、手入れが行き届かず北側は苔が壁一面を覆い、緑色に変色している、とんがり帽子の屋敷だ。
俺は見た。あの晩、暗闇に潜む俺は、天使が舞い降りた姿を目撃した。天使は悪い魔女に囚われ生活苦から盗みをしていた。人が滅多に居ない苔生したとんがり帽子の屋敷から小物を盗んでいたのだ。ジョーイは言っていた。見付けたら殺せ、『死体は庭に穴でも掘って埋めてしまえばいい』だが、ジョーイの方が先にくたばっちまった。
俺は、盗める物が無いか屋敷内を覗き込む天使に後ろからそっと近付いた。一気に手中に収め自由を奪うと、天使は小鳥の様に硬直し、柔らかい感触と熱を俺のからだに伝えた。まだ子供だ。まるで掌に包みこまれた小鳥の様に、冬の空気に包まれている俺に、生き物の体温を感じさせた。
このまま首を絞めるなり捻れば容易に少女は絶命する。死体は庭に穴でも掘って埋めてしまえばいい。ジョーイの言葉を思い出し、殺したカトリーヌを思い出す。意識が朦朧とし始め、今の自分が危険な状態にある事を悟る。からだがぶるりと震え、咽喉元が苦しくなってくる。全身から
「早く出て行け! あの子はあたしの子だ、お前なんかに渡すものか! あの子はあたしが必要なんだ! あの子は何時までもあたしのものなんだ! お前は地獄へ帰れ!」
地獄へ堕ちるのはお前の方だ! 発せられない言葉が部屋の空気と一体化となる。稲妻の光が、ベッドで喚く女を
「ひっひいぃぃ! と殺し! アンタが悪いんだ! あたしを捨てたアンタに神様の罰が下ったんだ! アンタが――アンタが――」
狂った女はベッドから転がり落ち、床を這いながら意味不明な叫び声を上げ、やがて
最終章
翌朝、母親はマリスに発見され、駆けつけた医者が彼女の死因は心停止であると診断した。何らかの理由でベッドから這い出し、恐怖の末にこと切れていた。歪んだ死に顔は狂人そのものだった。認知症の症状で徘徊する事もあった母親に、医者は「楽に逝けてよかったのかもしれない」と、残された娘を慰めた。
葬儀では、人付き合いの少ないこの家にも幾人かの弔問客があったが、俺の顔を知る者も、ましてやマリスの父親の顔を知る者など居なかった。気難しい女やもめの家に一時期転がり込んだ男の事など、誰も覚えている筈はなかった。
葬儀が終わり、庭の片隅に母親の墓が建てられた。生前の彼女に似つかわしくない、日の当たる墓をマリスは美しい花壇へと変えた。憎まれながらも愛して止まなかった母親に対するマリスの気持ちを表しているのだろう。
俺は、相変わらずマリスに世話を掛けながら、この小さな家に暮らしている。知らない名前で呼ばれても構わない。とうに本当の名前など捨てていたのだ。今の俺は、美しく育った娘を捨てた放蕩三昧の風来坊で構わない。十数年ぶりにぶらりと帰ってきて、娘の重荷になった、駄目な親父で十分なのだ。マリスにとっては、この世にたった一人の肉親なのだから。
〈了〉
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