第5話 陽炎 夏の日の狂詩曲

序章


 写真の四角い空間の中に溶け込む少女が、真新しい学生服に身を包み友人達の笑顔に囲まれている。少しはにかみながらもレンズに向け、精一杯の幸せを届けようと微笑んでいる。


 そして僕は、初夏の訪れを告げる六月の日差しの中で、突然現れ、永遠にこの世から消えてしまったアイツに思いを馳せるのだ。

 

 



第一章


 アイツは六月にやって来た。


若居わかいけい君、帰国子女です。短い期間だけど仲良くしてあげてくださいね」


 学級担任の人吉ひとよし先生に紹介された時期はずれの転校生は、みんなとは何処かしら違う雰囲気を漂わせていた。


 青白い顔に長髪、線が細い如何にも都会っ子の恵が転校してきたのは、夏休みも押し迫った六月も半ばの事だった。


 僕、鈴木すずき知朗ともろう小学六年生が住んでいる鹿児島かごしま伊佐いさ市は総人口二万六千人程の地方都市だ。九州の南部、鹿児島県の北西部に位置する。鹿児島かごしま熊本くまもと宮崎みやざき、三県が隣接し交通が交わる場所、自然豊かで歴史を感じさせる町、その中心部に僕の通う小学校はある。





「こんな時期に転校生なんて珍しいよな!」義男がみんなに聴こえる大きな声で呟いた。


 途端に、クラスのあちらこちらから恵に関する噂話が飛び交い始めた。義男はちょっと苦手な子だ。


 顔に手を当て、困った表情をみせた担任の人吉先生は、恵に自己紹介をうながしながら「親御さんの仕事の関係で引っ越してきたのよ」と、だけ言った。





「若居恵です、前の学校ではケイと呼ばれていました。よろしく!」


 そう爽やかに挨拶した恵は、知朗の隣の空いている席に座った。


「よろしく」と、軽く会釈した恵に知朗も自己紹介をする。


「僕は鈴木知朗、よろしく」


「鈴木君、若居君はわからない事も多いだろうから、仲良くしてあげてね」人吉先生がそう言うのには理由があった。知朗もまた去年、都会からこの伊佐市に時期はずれの転校生として遣って来ていたからだ。





 見た目が目立つ恵は当然のごとく、クラスの女子たちの注目を集めた。転校生というだけでも注目を浴びるものだけれど、都会慣れしている知朗でさえも、恵の一種特別を感じさせるオーラには興味を引かれていた。しかし、その涼しい眼差しに知朗は柔らかくない何かを感じていた。闇を湛えたその目は以前どこかで見た覚えがあった。

 

 休み時間にはさっそく恵の机を女子達が囲み、知朗は少し迷惑に感じた。しかし、それも一時の事なのさ、僕もそうだったと自分に言い聞かせた。

 

 只、ひとつ気掛かりだったのは、クラスの男子全員が好意を寄せているであろう、永友ながともあいちゃんも彼を取り巻く中の一人だったことだ。





「アイツ調子のってんな」


 東寺とうじ義男よしおがそう言う気持ちもわからないでもない。

女子に囲まれても照れ隠しひとつしない恵に、男子全員が嫉妬している事だろう。


 次は体育、クラスでも中心的存在である知朗の得意科目だ。


「1m40cm!」「凄~い!!!」


 走り高跳びのバーをしなやかに、その細い肢体をくねらせ、まるで水の中を縦横に駆け抜ける魚の様に見事に掠めてゆく、そして軽々とバーを跳ね越える恵に、男子たちでさえも羨望の眼差しを送っていた。


 100m・800m・走り幅跳びと恵と知朗はいい勝負だったが、注目を浴びるのは何時も恵ばかりで、流石の知朗も良い気持ちはしなかった。転校生は特別に見られるものだけれど、しかし恵のそれは本物であると、誰しもが認めざるを得なくなっていた。





「ねぇ、鈴木君、教科書いいかな?」


 教科書が揃うまで隣の人が見せなきゃならないんだっけ……。知朗は頭の中では分っていながら、どうしても気持ちは素直になれないでいた。


「それだけ?」


 思わずそう言ってしまった知朗に恵は少し躊躇とまどいいをみせて「頼むよ」と言った。


 渋々差し出された教科書の端に恵の華奢な手が触れると、知朗は少し自分の方に引き寄せ恵を困惑させた。その時に見せた彼の目は、まるで同じ年齢の者とは思えない程の大人びた寂しさを感じさせた。それは、そう、お父さんの目だ。




 

 知朗の父親あきらは、会社を辞め妻の郷里である此処、鹿児島県伊佐市に移り住むまでは、大都市圏の会社に勤めていた。会社を辞め転居して、現在は地元の焼酎工場に勤めている。その一年ほど前から、両親の苦悩する姿を知朗は子供ながらに重々しく感じていた。その頃の父親の目に恵のそれは似ている様に思えた。


***


「だって嫌な奴なんだ!」

夕食時、先程から転校生|恵の悪口が止らない知朗を父親が諭した。


「正々堂々と戦って負けたのならいいじゃないか。勝ち負けなんて関係ない。お前が成長できたかどうかが、本当の勝負だとお父さんは思う」


 父親の言葉に知朗は納得できなかったが、教科書くらい見せてあげなきゃ。だって恵は教科書を持ってないんだから。そう思った。





 次の日、突然の席替えで知朗は恵に教科書を見せなくてもよくなった。


 今、恵の隣りに居るのは愛ちゃんだ。


 何だよ!? 恵ばかり贔屓にされてるじゃないか! 暫くして男子たちの間でそんな声が聞かれるようになる。


 クラスの空気が、知朗の知らない所で少しずつ変わりはじめていた。


 ある日、愛が知朗に話しかけた。愛はあまり男子と話さないタイプだったので、知朗はどうしたのかと不思議に思った。





「ねぇ、知朗君だから相談するんだけど、最近男子の様子おかしくない?」


 そう言われてみると、知朗にもなんとなくそんな気がしないでもない。


 確かに、恵が転校して来てから、クラスの男子は妙に纏まっている気がする。勿論、恵への反感という点においてだ。しかしそんな事を、男子である知朗が女子に言える筈も無く。だから逆に愛に訊ねてみた。


「いいや、愛ちゃん、何かおかしな事でもあったの?」


「実はここだけの話だけど、恵君の持ち物が無くなったり机の中が荒らされてた事があったんだって……」

愛は小声で、しかしよく聴こえる様に知朗の耳元に囁いた。


 知朗は少し嬉しかったが、愛から恵の名前が出た事には少しがっかりもした。





 きっと男子の誰かが、恵に嫉妬して嫌がらせをしているのだろう。愛ちゃんとこうして教室の隅で話しているのだって、相手が例え知朗だったとしても快く思わない奴も居る。現に知朗も他の男子の視線を感じていた。


 恵なら尚更なのだ。


「恵君は目立つからさ、誰か嫌がらせしているのかも?」そういうと、愛は「嫌だな、そういうの、以前はこんな事無かったのに」と、憂いを帯びた瞳をふせた。


 全部、恵の所為じゃないか。知朗はそう思ったが、そんな事を口走った日には女子から総スカンを食らうのは目に見えている。だから言葉にはしないでおく。


「僕も気を付けておくよ」知朗の言葉に、「お願い。何かわかったら教えてね」と、言った愛の言葉が、知朗には愛との距離が少し近付いた気がして、嬉しかった。そして、恵も偶には役に立つんだな。そう心の中で苦笑していた。




第二章


 放課後、いつも真っ先に帰る義男と仲のよい悪餓鬼達が、教室の隅で何かひそひそ話をしているのが知朗には気になった。


「理由があって名前書けなくてごめんね」「クラスのIより」っと。出来た。


「いい出来じゃん恵の吠え面が目に浮かぶぜ」義男のゲス顔に知朗はピンと来たが、義男もそれを察したのか、知朗に釘を刺した。


「お前も恵を懲らしめたいだろ?」「愛ちゃんの目の前で恥をかかせてやるんだ! だって俺たちバカにされてるんだからな!」





 義男は本当に嫌な奴だ。しかし、そうは言っても学校は寛大だから、先生も義男をキツクは叱ったりしないだろう。それに義男の気持ちはきっと、クラスの男子の総意に違いない。クラスの男子が嫌な思いをしたのも、その気持ちを恵にぶつけてしまうのも、全て恵自身の身から出た錆に違いない。そう、知朗は思った。みんなと適度な距離を保ち、無難に付き合う。そうやって、この一年、知朗は知らない土地で上手くやってきた。それを恵は壊したのだ、だから恵が虐められるのも仕方がない。そう自分に言い聞かせる知朗だったが、心のどこかに自分自身を許せない感情もあった。




***



「知朗! 転校生とは仲直りでたか?」

珍しく元気のない知朗に父親がちょっかいを出した。


 そんな事にはお構いなしの知朗は、「出来なかった、席離れたし」と、素っ気ない返事を返した。


 残念そうな父親は少しいじけた仕草をしたが「まぁ仕方が無いさ」と、知朗の頭を撫でたが、知朗はそれを嫌がった。


「だって恵にみんなと仲良くなる気が無いんだ、どうしようもないよ」


 父親もお手上げだとばかりに腕を組む。

「そりゃあ確かに難しいな、でも方法が無いでも無い――」





***


 次の日、学校の門をくぐると知朗は昨晩の父親の言葉を思い出していた。

「知朗は何時も元気だけど、朝、恵君に会ったら何時も以上に元気に挨拶をするんだ。そして出来るだけ話しかける」


 でも、そんな事くらいで恵の態度が変わるとは思えないよ……。それでも知朗は父親の言いつけどおり、何時も以上に元気な挨拶をした。


「恵君おはよう!!!」

教室中に鳴り響く声に、驚いたクラスのみんなが知朗に注目した。


 その半数は笑いを顔に浮かべている。


 驚いた恵も目を丸くしてはいたが「何時も元気だけど、どうしたの? 今朝は何か良い事でもあったの?」と、話しかけてきた。


 その口元は少し緩んでいる。


「別に? 何時もより元気なだけだよ!」


 そして恵が机の中に見慣れない手紙を見つけたのが見えた。





 手紙にはこう書いてある。


「クラスの女子です。訳あって名前書けないの、ごめんね。恵君とお友達になりたいので、放課後音楽室で待っててね。Iより」


 これは放課後音楽室に居る恵をクラスみんなで笑い者にする計画なのだ。知朗は愛ちゃんをダシに使う事に釈然としない思いがあった。


「仕方ないだろ! 仲のいい愛ちゃんのイニシャルだからきっと来るさ!」


 そんな義男の言葉に、知朗はこんな時、父親なら何というか考えていた。

「知朗は愛ちゃんが好きなんだろ?」「好きな子の友達が虐められたら知朗はどう思う?」


 でもクラスメイトに嫌われるのも嫌だよ。





***


「いいからいこうぜ!」

そう即す義男達に、一部の生徒は難色を示していた。


「本当に先生が来なさいって言ったの?」そう問う女子に、「恵はもう待ってる筈だぜ、何しろヤツの歓迎会だからな!」そう義男は嘯いた。





***


「何だい? 鈴木君用事って?」

その頃、知朗に音楽室から連れ出された恵は少し焦っている様子だった。やたらと音楽室を気にしている。



「あの手紙、義男達のイタズラだよ」

知朗は包み隠さず恵に義男達の計画を話した。


「でも、なんでそんな事を?」

困惑した恵の顔に苦悶の影が差している。


 男子が恵に嫉妬していると告げ、「恨まないでよ、みんな君が羨ましいんだ」そうフォローした。


「でも、じゃあ僕はどうすればいいんだい? そんな息苦しい学校は嫌だよ」そんな恵の言葉に、知朗は、「みんな、そんな悪い子達じゃないよ。ちょっとした誤解さ。いつかきっとわかってくれる。だってほら、現に僕が居るじゃないか!」と、言った。


「じゃあ知朗君、僕の友達になってくれるかい?」「いいよ、何して遊ぶ?」


「やった! じゃあ町を案内してよ。引っ越してきたばかりでよく知らないんだ!」


「よし! じゃあ、さっそく行こうぜ!」


 知朗が、そう言うと二人は町の方へと駆けて行った。



***


音楽室


「何よ! 誰も居ないじゃない!?」


「おかしいな、そんな筈ないのに……」

先程、威勢よく飛び込んだ音楽室で義男達は小さくなっていた。


 何でこんな事になるんだよ? まてよ、そういえば知朗の姿も見えないぞ……。






「お父さん、恵君と友達になったよ」

それを聞いた知朗の父親は大層喜んで「クラスの子達とも仲良く成れるといいな」と、言った。



 次の日の教室で、知朗は何時もと変らず元気に挨拶をするも、返事は殆ど返ってこなかった。恵を除いては。


 異変に気付いた知朗は愛に尋ねてみる。


 愛の返事は、「男子が知朗君の事、裏切り者って言ってるの」そして「女子も知朗君は男らしくないって、だからごめんね」だった。


 その日から恵と知朗はクラスの中で孤立した。知朗は義男や他の男子に誤解を解こうとしたが、耳を傾けてくれる者は居なかった。みんな争いごとに係わるのが嫌だったのだ。


 そしてクラスの中で浮けば浮く程、恵と知朗の友情は深まっていった。





「僕、運動は得意だけど、球技だけは苦手なんだ」そういう恵に、知朗は恵にも苦手な事ってあるんだ? 恵の意外な一面を知り、知朗《ともろうは更に彼が好きになった。


「じゃあ今度、サッカーしようよ。僕、小さい頃サッカーのクラブに入ってたんだ」


「え!? だから知朗君サッカー上手いんだね。じゃあさ、僕にサッカーを教えてよ!」その言葉が知朗はとても嬉しかった。


「いいよ! 今度の日曜、公園で遊ぼう!」





 父親に車を出してもらってのスポーツ観戦・ドライブ・堤防での釣り。夏休みに入り、二人は短い季節を目一杯に楽しんだ。木曽の滝や発電所遺構、大自然の中を、自転車で冒険し一緒に笑い、一緒に汗を流して真っ黒に日焼けするまで遊んだ。

 

「恵! 転ぶなよ! 魚に笑われるぞ!」


「知朗こそ、大物を逃がすなよ! 今晩はオカズ買わなくていいって母さんに言ってきたんだ!」


「恵! もっと頑張れ! 頑張らないと、めだかの塩焼きだけになっちゃうぞ~」 

 

 清らかなせせらぎでは魚を追っては捕まえた。日焼けしたコントラストの肌から、時折覗く白が眩しかった。知朗は恵の衣服の隙間から肌が覗くと、何故かどきりとして、それを恥ずかしくも思った。





 知朗は恵が好きだった。最初はあれ程嫌っていた相手だというのに、今では親友と言える程に好きになっていた。同じ都会の子だからではない。まさにお互い馬が合うという表現がぴったりとくる程、仲がよくなっていた。何より転校して来てから、何事にも無関心で、無表情だった恵に屈託のない笑顔が存在する事を知り、断然好きになっていた。ただ、ふとした瞬間に合った目線に、恵は目を逸らすのが気になっていた。  





第四章


 新学期が始まり、夏休み前の出来事など何事もなかった様に、二人は元気にクラスの皆と再会した。


 そんな折、知朗は些細な事で義男と口喧嘩になった。


「何だよ! 何でそんなにイジワルなんだよ!?」そう責める知朗に、「そっちこそ! こそこそと嘘を吐く裏切り者め!」と義男も反撃する。二人の激しい剣幕に誰も止めに入ることが出来ないでいた。


「あたし先生を呼んでくる!」見かねた愛が職員室へと駆けて行った。





 やがて掴み合いになった知朗と義男の間に、恵が止めようと割って入る。しかし小柄な恵では二人を制止する事は出来ない。


 止められれば止められる程、喧嘩はヒートアップするものだ。遂には、勢いあまって二人は恵を突き飛ばしてしまった。硬い床に跳ね飛んだ恵の体は、床を滑ると机の足に当って、ようやく停まった。


 そこへ血相を変えた人吉ひとよし先生が愛に連れられ、ようやく現れた。


「あなたたち何やってるの!!!」


 しかし、それでも恵は起き上がらなかった。






 教員室で立たされている知朗と義男のもとに三人の保護者も呼び出された。平謝りをする母親の姿よりも、知朗は恵の事が心配だった。


 恵の容態を心配する知朗に人吉ひとよし先生は「脳震盪のうしんとうを起こしただけよ」と言ったが、知朗は自分を責めた。


 ひと言、ちゃんと謝りたかった知朗は人吉先生に頼み、保健室の恵が寝ているベッドを訪れた。


「ごめん、どうかしてた」そう謝る知朗に、恵は顔を背け「君の所為じゃないよ、僕が弱いから駄目なんだ」と、だけ言った。





 恵の母親は、物静かで綺麗な人だった。家族で海外赴任先から帰ってきて、何らかの理由で恵と母親だけが伊佐市に引っ越してきたのだという。心配そうな表情の人吉先生と保健室の先生三人で、長いこと話し合っているのが知朗には気掛かりでならなかった。先生は脳震盪と打ち身だけと言っていたけれど、本当は他にも持病とか、気になる事があるのではないか。そんな、心配をしていた。それが、時期はずれに転校してきた理由にも関係あるのではないかと思えてならなかった。





「知朗お前、義男君に怪我させたのか!?」


 その日の晩酌時、さっそく知朗は父親から御目玉を喰らった。丁度、義男の父親の東寺とうじさんが訪ねて来ていたからであった。知朗から事の詳細を訊き、恵の怪我は大した事はなかった事、事故は弾みで起きた事、虐め等ではない。と、説明を受けると東寺さんは安心し、ほろ酔い気分で帰っていった。

 

 そして帰り際、知朗に詫びと、義男からの謝罪の言葉を残した。


「あん子(義男)はちっとばかし癖ん悪かけんどん、悪気はなかと。みょーな正義感ばあっかい素直にでけんとばい」





 東寺さんが言うには、義男は真っ直ぐだけれど、不器用だから、知朗が誰とでも上手く付き合おうとする態度に我慢が出来なかったのだろうという。恵の事にしても、皆に溶け込もうとしない恵の頑なな態度が許せなかったのではないか。


 義男の目から見れば、知朗と恵こそが、こそこそと悪巧みをする嫌な奴に映っていたのかもしれない。だとしたら、素直に腹を割って話せば、きっとわかってくれるに違いない、知朗はそう思えた。

 

 恵に関しても、彼の気持ちもわかる。それは知朗にも経験があるからだ。都会から転校してきて、いきなり訳も分からず注目され、比べられるのに戸惑っていたのは確かだった。

 

 僕はなんとなく馴染めたけど、恵には、何がしかの特別を感じる。それが皆との間に壁を作っている。そんな気がしていた。





第五章


 

「知朗、学校は楽しいか?」


 父親の突然の問いに、知朗は不意に疑問が心を過ぎった。


「お父さんは仕事楽しい?」


 息子の痛い所を着く率直な疑問に、享は少し照れながらも語り始めた。


「正直、辛い時もある。都会での仕事は、ルールを守り会社に貢献する事が大切と思っていた。でもここでは違う。ルールを守りながら、例えお客様に届かなくとも、誠意を尽くし続けなければならない事を、東寺さんから教わった。最初の頃は随分と厳しく酷い事を言われたと思っていたが、今となってみれば自分は型に嵌った人間だったんだと思い知ったよ」


 大人でもそういう事あるんだ。





「知朗、本当に辛かったら逃げてもいいんだぞ。お父さんは一度逃げだして、大切な事を学べた気がする。お前が辛い思いをしているのなら――」


「僕なら大丈夫だよ! この町でやっていけると思う」 

知朗の屈託のない笑顔に享も何か心のつかえが落ちた様に笑顔になった。




 

 知朗の父親は一流と呼ばれる企業で、大都市圏のエリアマネージャーを任されていた。長年勤めてきた会社だ。愛着がない筈はない。しかし、バブル経済崩壊後の長い不況の間に、社会も会社も少しずつ変化していた。就職氷河期を掻い潜りなんとか一流企業に入社して、厳しい市場にも慣れきた頃、エリアマネージャーの彼の下へ、営業所からの相談が相次ぐ様になった。この頃には社会全体が利益を上げることに躍起になっていた。従業員達は搾取され使い捨てにされる事に不安と不満を抱えていた。


 会社は不況の対抗策として利益の確保に貧欲となり、資産の運用に邁進していた。彼もまた、会社の一員である以上、会社に貢献するのは当然だと思っていた。 

 

 享も享なりに会社の為を思い、上司に現場の惨状を報告し指示を仰いだ。しかし、その答えは「現場で解決しろ。それが君の役目だろう、君の代わりは他に幾らでもいる」であった。




 

 それから暫くして、享は職を辞した。会社の歯車になるのに抵抗はない。それが会社に貢献し、いては社員たちの生活にも寄与する。会社は社会に貢献し、国全体に貢献する筈なのだから。しかし、そんな彼は会社から必要の無い人間であると宣言されてしまった。

 

 生活の事、子供達の事、夫婦の将来の事を考えれば心を殺し、上司の指示に従えばよいのだ。しかし彼には出来なかった。自信に満ちていた顔にはやがて疲れが浮かびはじめ、欝気味になっていった。その姿に耐えられなくなった妻がある時言った。

 

「時には、勇気ある撤退も必要よ。あなたと知朗が健康なら、人生はまだまだ終わりではないわ」


 妻の言葉に後押しされ、踏ん切りがつけた父親は会社を辞め妻の郷里鹿児島県伊佐市の親戚を頼って居を移した。そして、地元の酒造会社に勤めたのだった。

 

 伊佐市は、国の重要文化財郡山八幡神社を有し焼酎発祥の地と言われてる。知朗の父親は今、この地で、日々慣れない焼酎作りに携わっている。 

 




最終章

 

 喧嘩で恵が怪我をして以来、知朗には、クラスみんなの態度が少し和らいだ様に思えた。相変わらず、よそよそしさはあるものの、恵の態度も少しずつ以前より柔らかくなった気がする。それよりも知朗には、恵の知朗に対する態度が冷たく成ったと感じられる事の方が、気になって仕方なかった。毎日、日が暮れるまで遊んだ二人の間に溝が出来た様に感じ、寂しかった。そして、少しずつクラスに馴染んでゆく恵が、何故かしら知朗を遠ざけている様にも思えていた。




 

 やがて季節は巡り、六年生は卒業まであと数週間を残すだけの季節を迎えようとしている。二学期以降、毎日飽きるまで遊んだ少年にぽっかりと、心の穴が空いた。知朗の時は何事もなくすぎていった。


 もう一度仲良くしたい。そう言いたくても、言い出せないでいた知朗にある日、恵の方から声を掛けてきた。


「僕、またお父さんと一緒に暮らすんだ。一足先にお別れなんだ。だから、よかったら今度の日曜日、また町を自転車で巡らないか?」





 恵が旅立つ最後の日曜日、初めて遊んだ時の様に、二人は伊佐市の観光地に自転車で向かった。あの頃と違うのは、忠元公園の桜並木が満開の花を咲かせ、いつの間にか知朗の身長が十センチ近くも伸びて、恵の身長よりも差が出来ていた事だ。そして、あの頃よりも二人の会話は少なくなっていた。


 春の訪れを告げる爽やかな空気に、雪のように薄桃色が深々しんしんと舞い落ちる。


「綺麗だ」

「綺麗」


 雪の舞う絵画の背景とひとつになる恵はどこかしら大人びて見えて。なぜか別の世界へと消え入りそうに思え、知朗は思わず恵を捕まえ引き止めたい衝動にかられる気持ちに戸惑った。





 桜並木の中に佇み、ずっと何か考え込んでいた恵が、意を決した様に知朗に向かい話し始めた。

 

「ずっと言おうと思ってたんだ。今まで言い出せなくて、でも君にはどうしても打ち明けなきゃならないと思ったんだ」 


 恵は帰国子女だ。父親の仕事の関係で、外国で育った。最近、帰国して日本の学校へ通う事になった。最初は環境の変化に戸惑い、学校に馴染めずにもいた。育ってきた環境とはさまざまな事が違いすぎた。ルールや習慣なら徐々に慣れる。それが子供の得意な能力だから。しかしながら人の気質は変えられない。オープンな環境で育った恵はどうしても自分の意見を積極的に伝えたかった。しかし、それはクラスの皆は受け入れてくれなかった。やがて恵は、そんなクラスの環境に順応し、心を内に秘める事を学んだ。活発な性格を隠して、他人の顔色を窺う事で孤立した環境に適応しようとした。やがてその経験は、いじめと呼ばれていると教えられた。

 




「小さな頃、僕の住む家の近所には色んな子が住んでた。良い子も悪い子も意地悪な子も。黒人の子も白人の子も、僕もその中のひとりだった。でも、日本に来て皆、一緒なのに変ってるって言われた。違うのは僕にも勿論わかってる。だって、僕は僕しか居ないから、皆と同じでなくて当たり前じゃないか。だから――」


「僕はなんとも思ってないよ! 恵と虫取りしたり、魚取りしたり楽しかった! ずっとずっと一緒に遊んでいたかった。でも、僕は嘘をついてた。本当は最初、君を嫌な奴だと思ってたんだ。意地悪して悪かったと、ずっと謝りたかった」


 知朗は予想していた恵の告白を聞き、更に彼との絆を深めたいと思った。自分が恵を必要とする人間でありたいと、強く思っていた。





 恵は俯き、知朗から目線を逸らし話を続けた。


「嘘吐きは僕の方だよ。ごめん。今まで嘘付いてて。僕は僕らしくいられる様に、親や先生に頼んだんだ。その――僕、女の子なんだ。」


「別に自分を男の子と思っていた訳じゃない。ただ、意識していなかっただけ。でも、もう駄目なんだ。身体の変化が、子供の頃みたいに一緒には遊べないって訴えてる。そして君に女として扱われてしまうのを恐れてる――だから、さよなら。知朗、君と一時ひとときでも友達に成れて良かった」 


 あまりの衝撃に、何も考えられず。言葉のない知朗を残し、俯き、目尻に涙を浮かべ頬を紅く染めた恵はひとり、桜の花びら舞い散る公園を去っていった。その後姿を振り返る事も出来ず、知朗は立ち尽くす事しか出来なかった。




 

 週が明け、クラスでは卒業式を待たずして去っていった級友を思う者など居ないように思えた。

 

 まるで、恵なんて最初から居なかったみたいだ。

 

 訪れる短い準備期間のあと、不安と期待を胸にする中学の入学式が待っている。新しい校舎、新しい教室になっても、生まれた時から此処に住む子供たちにとっては顔見知りとの再会の場なのかもしれない。

 

 そこに、恵の姿はない。

 

 やがて中学生活にも慣れた頃、知朗が帰宅すると郵便受けに知朗宛ての、薄桃色の封筒を見つけた。差出人には、若居わかいめぐみとあった。

 

 中の便箋には、元気である事。友達もできて学校にも慣れた事。知朗への感謝の気持ちが短く綴られていた。そして友達たちと撮った写真が数枚同封されていた。

 

 そこには、写真の四角い空間の中に溶け込む少女が、真新しい学生服に身を包み、友人達の笑顔に囲まれて。少しはにかみながらもレンズに向け、精いっぱいの幸せを届けようと微笑んでいる。


 そして僕は、初夏の訪れを告げる六月の日差しの中で、突然現れ、永遠にこの世から消えてしまったアイツに思いを馳せるのだ。

 

 小学生最後の夏休み、僕の記憶の中にだけ存在する親友の姿を。

 



〈了〉


2018 まちぶん 伊佐市 参加作品

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