第24話 魔女と毒薬
エリスは走っている。長いスカートの端を手繰り、紅く染まる唇で息を切らす。古い石畳の街角を曲がり、港の見える広場に向けて。今日は年に一度のカーニバルの日、古い街の門が開きジプシー達が招かれる。年に数日の自由が訪れる日。
人ごみに溢れたジプシーのテントの海を、エリスはひらひらと舞う魚の様に駆け抜けると、やがてみすぼらしいテントの前で立ち止まった。「魔女だわ!」表から僅かに覗く薄暗い闇の中に、皺くちゃな老婆が一人浮かび上がっている。エリスの心が高鳴った。
テントを分けて進み入ると、老婆はエリスをみとめコクリとするとまた目を閉じた。薄暗いテントの中を照らすのは古びたオイルランプのみ。薄暗闇の中には観た事の無い華やかなジプシーの装飾で彩られ、天井から下げられた金属の細工がくるくるとゆっくり回っている。ランプの照らす光は老婆をより不気味に、飾られたガラス細工たちの煌きを幻想的に飾っていた。
エリスはその中の一つのポーションに心引かれる。その今にも壊れてしまいそうな華奢な瓶に何か力強いものを感じたのだ。エリスがポーションを手に取ると、いつの間にか老婆が傍に居て「これは非売品だよ、その光は夜空に輝く星の欠片、何でも願いをかなえるが何か一つ大切なモノを失う、お嬢ちゃんには強過ぎる。あんたにはこの健康と長寿のポーションがいい」と言って、青いポーションを手渡した。「これはサービス、あんたにあげる」そう言うと、またイスに座り居眠りを始めた。
物珍しいガラス細工を眺めていたエリスは見た事のない何者かの形を模した可愛いイヤリングを選ぶと、老婆に「これ」と言ったが、返事が無いのでポケットからなけなしの銀貨をテーブルに置きテントを後にした。通りから振り返るとテントの中の老婆はまだ眠っている。
エリスは僅かな時間と感じていたが、テント内は時間が止ってでもいたのだろうか? 辺りはもう夜遅く、街灯と松明の炎が広場をより幻想的に照らしていた。カーニバルの夜は大人たちと闇に潜む者達の時間だ、まだ子供のエリスは暖かい家のベットに潜り込み、闇の目から姿を隠し時間をやり過ごさなければならない。
広場を離れ家路につくエリスを闇が包み込む。小さなイヤリングをポケットに仕舞いこむと、エリスの小さな手に〝あの華奢なポーション〟があった。夜空の星の光に透かしてみると煌く光が幾重にも重なり合って、エリスに何かを訴えかけてくる。さぁ、お飲みなさいと……。
エリスはポーションのフタを外すと、一気に飲み干し夜空に輝く冷たい光たちへ願いをこめた。「お願い星たちよ、アランの心をあたしに頂戴!」
強い眩暈を感じたエリスは何処をどう帰ったのか、ふらふらと家にたどり着くと、ベットで深い眠りに落ちた。そしてジプシーの老婆が夢に現れて「何でも願いをかなえるが何か一つ大切なモノを失う」と繰り返した。
それからエリスは高い熱にうなされ三日三晩床に伏した。両親は医者と教会に頼ったが結局、原因はわからなかった。エリスは意識を取り戻しはしたが暫くは安静にしていた。その間にカーニバルは終りジプシーたちも怪しげなテントも街から跡形もなく消え失せていた。
***
広場へ続く坂道、久しぶりに学校へと向かうエリスに、階段の踊り場からアランが声を掛けた。彼女のマリーも一緒だ。
「もう元気になったのか? ジプシーに呪われてミイラになっちまったって噂されてるぜ!」
ひとつ年長のアランは何時もエリスに意地悪を言う。
「なんだ、まだクマがあるじゃないかママとベットで寝てなくてもいいのか?」
エリスの目の前までひらりと舞い下りて来たアランは物珍しい物でも見る様にエリスの顎に華奢な白い指で触れると「綺麗な目をしていたんだな、まるで煌く星の様だ」と煽てる様に言った。そして「からかうのはよしなよ、こんな小便臭い娘」というマリーと笑いながら裏路地へと消えてゆく。
アランは学校でも要注意人物だ、その美しい容姿とは裏腹に冷たい心で人々を弄び傷つける。何も知らない学生達はもとより、大人たちさえも手玉に取られる。彼にとって他人は、神に愛されし自分の為に与えられた
二人の姿を見送くるエリスは、人差し指と中指でそっと自分の顎を擦った。
学校では友人達がエリスを温かく迎えてくれた。その中にはエドガーもいた。エリスとエドガーは付き合っているが、まだ手も握った事がない間柄だった。エドガーの瞳をじっと見詰めるエリスに、頬を赤らめ目を逸らす真面目な彼をエリスは嫌いではなかったが、何か物足りなさを感じていた。
エドガーはエリスに「アランを見かけなかったかい?」と尋ねた。
「いいえ」と答えたエリスにエドガーは、アランがカーニバルでジプシーをからかい騒動を起したことを告げた。ジプシーはアランを呪ってやるぞ! と、罵り学校へも抗議にも来たのだと言う。
友人を心配げに振舞うエドガーにエリスは本当にそうなのだろうか? と思った。アランの彼女マリーは元々エドガーと付き合っていた。親友の彼女を奪うアランをエドガーは本当に心配しているのかしら? と、不思議に思えた。だからエリスはエドガーに嘘をついた。ふたりは今頃、路地裏の木賃宿でよろしくやっている頃だろうから。
まって! あたしこんな事を考える嫌な娘だったかしら? エリスは自分の心の変化が何者の力によるではないのかと戸惑いを感じていた。
学校からの帰り道、切り立った谷底の様な建物の壁に迫られる石畳の細い坂道で、エリスを見下ろすアランが声を掛けた。
「学校は楽しかったかい? お嬢ちゃん」
三階ほどの高さの飾り窓で頬杖をつくアランを見上げエリスが返事をする。
「えぇ、エドガーが心配していたわよ」
眠そうに伸びをするアランの目は常に視界にエリスを捉えている。
「奴は真面目過ぎる、退屈な奴だ」そして獲物を狙う獣の様に言った「なぁ、寄っていかないか?」
「マリーは?」「もう帰った」
エリスに近付き親しく会う様になったアランはやがて酒に溺れ始めた。学校を退学し、悪い仲間と付き合い始めると喧嘩の末に人を傷つけ役人に追われる様になった。
ほとぼりを覚まそうと旅に出るアランは、エリスを誘い街を離れようとした。エリスの部屋の下で窓から覗くエリスにアランが嘆願する。
「エリス、僕には君しか見えない。君と一緒でなくては、僕が生き延びる意味などないんだ!」
「マリーはどうするの?」
「マリーなんてどうでもいい。僕にはエリス! 君が、君だけが必要なんだ!」
魔女と毒薬 後編 metamorphose
ふたりは連れ立って旅へと出かけた。時にはエリスが男を誘い、それをアランが脅して金品を巻き上げたりしながら各地を転々としていた。エリスの瞳に見詰められると、男達は正体を失い夢見心地にフラフラと誘いに付いて来るのだ。
放浪の旅が長引くにつれ、アランの美しい顔からは生気が失せ、ニヒルを纏ったその容貌は、行く先々の中年女性を魅了するのか、意外と生活に困る事はなかった。
そして、ある領主の城下町へとたどり着く。広大な平地にそびえ建つ長大な石壁に守られた巨大な城は、国王も訪れそうな程立派なものだ。その城下町は複雑な道が網の目の様に張り巡らされ、蜘蛛の網のように人々を捕らえているのか活気を湛えている。
立派な街の教会でアランは一人の少女に声を掛けた。
「高価な御召し物に美しい髪、君は貴族のお嬢さまかい?」
「まさか違うわ、そんな貴方は旅のジプシーかしら? くたびれた靴に荒れた髪、顔には旅の疲れが表されているわ」
「ふっ、ご冗談を、あんな卑しい連中に僕が見えますか?」
少女は名をアンナという。土地の大商人の末娘で教会で学び、いづれは貴族に嫁ぐか、その愛人となる運命を定められし娘であった。
数日後、アランは街の古着屋で立派な靴と服装を揃えアンナの眼前に現れた。
「先日お話した通り、僕は遠い土地の子爵の末弟なのです。旅の用心にやつれた姿をしていたまで、お近づきの印にお茶など如何ですか? お姫様」
そしてアランに、質素だが美しく気品のある様相のエリスが、「旦那様、馬車の用意が出来ております」と囁いた。
その二人の立ち居振る舞いにアンナとその従者も思わず見惚れてしまう程だった。
やがてすっかり打ち解けたアンナにアランが誘いの言葉を掛ける。
「アンナ、僕の育った港町に来ないか? 世界中の珍しい物が集まる港街だよ。きっと君も気にいる筈さ」
目を輝かせ、すっかり乗り気のアンナだったが、「でもきっとお父様が許さないわ」と躊躇した。
「なら先に二人で旅立ち、街に着いたら子爵から手紙を出してもらえばいい。アンナを僕の妻に迎え入れたいとね。それなら、ご両親も安心して君を手放せるだろう。何しろ王国の貴族に迎えられるんだ、毎日のように王族や貴族達との舞踏会で、君の美貌が皆の心の癒しになるんだよ。いいだろう?」
そういうと、アランはアンナに傅き、その手の甲に親愛のキスをした。
街外れの間道、御者を馬車から降ろすと、エリスはその胸元に手を当て擦りながら金を渡し、御者は馬車から離れていった。何度もエリスを振り返りながら。
不思議に思い尋ねるアンナにアランは「家族の元へ帰ったのさ」とだけ答えた。そしてアンナを強引に押し倒す。それを横目に見ながらエリスは気にも留めず、馬の首を擦ってやる。
アランとの旅では何時もの事なのだ。女は何時でもアランに騙される。しかし、何時でもエリスの元に帰って来る。何時もそうなのだ。
やがてアンナの悲鳴も聞こえなくなり、すべてが終わったかに思えた時、裸足のまま馬車から飛び下りたアンナが、林の中へと逃げ去った。後を追ったアランは、アンナに追いつくと長い髪を捕まえて強引に引き倒し、その細い首を絞めた。
苦しみに目を剥き、顔を引きつらせて恐怖と苦痛の表情を表すアンナの美しい顔は、別人のものとなった。アンナの首に指をあて最後を確認したエリスは大きく開けられた瞼を閉じて、飛び出したままの舌を口に押し込み、「神よ哀れな魂を救いたまへ」と呟いた。ふたりでアンナを人目の付かない場所まで運ぶと、また供に旅を続けた。
旅の先々でアランはアンナの両親に手紙を書いた。
「路銀に困っている、お金を送って頂戴」と。アンナの両親は娘の無事を祈りアランの求めどおりの金額を各宿場町に為替を送り、それに手紙を添えて寄こした。手紙にはアンナの無事を祈る言葉が幾度も綴られていた。
アランとエリス、二人の旅もやがて終わりを告げる。故郷に近い城下町で、二人を待ち構えていた役人と兵士達に取り押さえられた。
哀れなアンナの死体が発見されて、従者からアランの故郷の話が伝えられていたからだった。
アンナの死を知った両親は犯人に多額の懸賞金を掛け、近隣の領主にも手配していた。こうして今、エリスは薄暗い牢獄の中に居る。
毎日の様に囚人達は拷問に連れ出されて、ある者は二度と帰らなかった。裁判は形式的なものに過ぎず、告発者の訴えに被疑者が反論できなければ、拷問され罪を認めさせられ刑が言い渡される。財産を持つ出自の良い家の者でもない限りは、口頭での反論しか実質的に許されない囚人達は有罪を認めるしかなかった。
しかし、不思議な事に好色でサディスティックな牢番達でさえも若く美しい娘であるエリスにだけには誰も手を掛けなかった。
それはエリスの眼を恐れていたのかもしれないし、魔女との交わり魔女の血を浴びる事を恐れていたからかもしれない。
そんなある晩、遅い時間にエリスは牢を連れ出された。痩せ細り意識朦朧としているエリスに牢番は支えなどしない。ふらふらと壁を伝い歩くエリスは、やがて小いさな部屋へと通された。
小さく狭い部屋には初老の騎士らしき男と老婆が待っていた。牢番が逃げる様に部屋を出てゆくと、男は「この忌々しい小娘が!」と、吐き捨てた。
碌に食事も与えられていないだろうと、老婆は柔らかいパンとスープを差し入れた。ガツガツと食事を平らげるエリスに男は吐き捨てる様に続ける。
「俺の気持ちがお前にわかるか!? お前達がボロ布の様に殺し捨てたアンナは俺の可愛い従姉妹だった。今すぐにでも、この手でキサマの目を抉り、八つ裂きにしてもあき足らん程、俺の胸は今、煮えくり返っている! 教えてやる、既にアランは拷問の末にこの俺が身体を一寸刻みに処刑してやったわ! 奴の泣き叫ぶ様を、お前にも見せてやりたかったぞ!」
そう言うと、エリスを憎しみに満ちた双眸で睨みつけた。
「怖いか? そうだろう? だがお前は運がいい、処刑の直前に王太后様がお亡くなりになられるとはな!」
熱がこもり力が増す男を遮り老婆が言う。
「恩赦だよ、これから暫くは国全体が喪に服する。血を流す事は一切まかりならない、例え罪人でもあってもね」
老婆は麻袋から薬瓶を取り出してみせた。
「だから助けてあげる、表から出たのでは命が幾らあっても足りないだろう。お前さんには賞金が掛けられているからねぇ。だから眠らせて、死体として運び出してあげるよ」
老婆は二つの華奢な瓶を焦点の合わないエリスの前に掲げ話を続けた。
「さぁ、お選び、この輝く瓶は苦いよ。あんたには青い瓶がお似合いさ」
放心状態のエリスの目に映った二つの瓶に、遠い記憶の底で何時の日にか見た記憶がよぎった気がした。エリスは反射的にキラキラと星の如くに煌く瓶を選んだ。そして星の薬瓶を一気に飲み干した。
やがて強い眩暈が駆け巡り、エリスはテーブルに突っ伏した。
「死んだか?」身を乗り出しエリスの様子を観察する男の問いに、老婆が片づけをしながら答えた。
「これはジプシーの強い薬、例え即死でなくとも三日三晩生死をさまよいながら死に至る」
「そうか、それならいい。どうせなら、血反吐を吐きながら自ら罪を後悔させる死ぬ様を見届けたかったがな」そう吐き捨てる男に「血は不味かろうて」と、老婆は窘めた。
「だから苦しみもだえ死ぬ、青い薬を勧めたが、まことに運の強い娘だ。ごらん、この死に顔を、まるで素敵な夢でも見ているかの様な、安らかな死に顔じゃないか」
男は老婆の言葉を聞き終わる前に、不機嫌そうに部屋を出て行った。
***
街外れの街道、木洩れ日の中をエリスの骸を載せた馬車がとぼとぼと走っている。
御者が不思議そうにエリスの顔を覗き込むと「この娘、本当に死んでいるのかい?」と、老婆に訊いた。
その問いに老婆は「あぁ、その様だね」と答えた。
御者は残念そうに呟やいた。「そうかいそれは勿体無い話やね、俺っちも一生に一度くれぇは、こんないい女を抱いてみたいもんだ」その言葉に老婆が釘を刺す。「変な気を起すんじゃないよ。この娘にはジプシーの呪が掛かってる。死体でも手を出せば只じゃ済まないよ」
「脅かすなよ、いくら俺っちでも死体を犯っちまおうなんてなぁ。おっかねぇばーさんだぜ。しかしなんだ、まるで良い夢でもみてるんじゃないかってぇーくらいの綺麗な顔してるじゃないか」馬車の揺れに体を任せ、舟を漕ぐ老婆は、「そうだねぇ。もしかするとこの子は夢の中に生きていたのかもしれないねぇ。そういう、あたしらだって誰かの夢の中に生きているだけなのかもしれないよ」そう言い、一度コクリとすると目を閉じ、眠りについた。
〈了〉
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