第18話 ロジカルシンキング8

 柳井田やないだ忠志ただしは昼の休憩を終え、眠い瞼を擦りながら自分の車から事務所へと戻った。


 事務所では制服警官が一人、事務員に会釈して立ち去ろうとするところだった。柳井田は初老の女性事務職員に訊いてみる。


「何かあったの?」


「あぁ、轢き逃げのチラシ」


 事務員がかざして見せたのは、まだあどけない少年の写真と、事件のあらましと連絡先が印刷されたチラシだった。膨大な数存在する修理工場や解体屋を一軒一軒まわっているのか、悪く言えば、捜査手段がなくなった警察がよくやる数撃てば当たる式のローラー作戦と言うヤツだなと、忠志は思った。



 

「可哀想にね。まだ小さいのに。親はいったい何してたのかねぇ」


「これくらいの齢になれば、行動力は一人前だからなぁ。しかし被害者がこれだけ小さいと、事故車両をしらみつぶしに当たったとしても、該当車両が見付かる確立は万に一つ、いや百万に一つって所だろう。まるで雲を掴むような話だよ。まるで宝くじさ、警察もご苦労なこった」


「どうせ当たるなら、アタシやぁ宝くじになら当たってみたいもんだねぇ」


「俺だってそうさ。その為にはまず、くじを買わないとはじまらないけどな」


「だって、その小銭が惜しいんじゃないさ」


「そりゃそうだ。警察も当たる見込みのないくじを買い続ける気分だろよ」


 柳井田の職場は解体工場だ。廃車になった自動車が毎日の様に運び込まれる。彼の仕事はリサイクル出来そうなパーツを廃車から取り外してリビルド品を販売する会社に売り、樹脂類は撤去して、車体を鉄材としてリサイクル業者に引き渡す。此処を通過してしまえばもう、轢き逃げ車両を特定する事は不可能に近いだろう。車種さえ特定されていない車両など止め様も無い。警察の仕事はそれこそ雲を掴む様なものなのだ。 





 柳井田は車両のエンジンから電装品を外してゆく。人気のある旧車は長く乗るマニアも多い。中古補修部品を欲しがる客は意外に多いのだ。今回の車両もそんな車種の一つだった。解体される直前の廃車置場から柳井田が引っ張ってきた。この目利きの良さが彼の才能だった。

 

 もう内装を剥がせば鉄くずとして売れる所まできていた。クレーンでエンジンを下ろせば彼の仕事は全て終わりだ。

 

 エンジンを下ろし終え、柳井田はエンジンルームにゴミが付着しているのを見付けた。雨で濡れた紙屑が乾燥して固着していた。さして几帳面でも無い彼だが、この時は何故かこのゴミが気になった。それはゴミに印刷されていた繊細な絵柄に何か魅力を感じたからかもしれない。手袋をした手で乱暴に剥ぎ落としゴミ箱に投げ入れようとした時、ゴミの中で何かが跳ねた気がした。柳井田が泥で汚れた紙の袋を開くと、中からは丁寧に包装された小さな箱が出てきた。袋の中には小さな手紙も入っていた。彼は皮手袋を付けたまま手紙を開けて読んだ。

 


大すきなママへ   

いつもおいしいごはんややさしくておこづかいありがとう。ママ大すきです。 

                                  歩

 


 柳井田は目を丸くし、まるで宝くじでも当たったかの如き驚きの表情で、事務所へと駆けた。


「お、おい! 宝くじ! じゃねぇ、さっきのチラシ!」



  


 不破孝明は直ちに過失運転致死傷罪及び救護・報告義務違反で逮捕起訴された。裁判で孝明は素直に罪を認めた。

 

 ただし、故意に轢き逃げした事だけは頑として認めなかった。時に孝明は弁護士の制止を無視してまで検察官に対し激しく反論をした。

 

「被害者にはまことに申し訳ないと思っています。思っていますが、現実に私は事故に気づいていかなかった。残念ながらそれを証明する術を私は持ち得ない。しかしそれが事実である事は私が一番わかっています。私自身が当事者であり、私にしか知り得ないからです!」 

 

 事故には気づかなかったとの彼の主張は認められた。その理由は現場に残された血溜まりだった。事故当夜、深夜から降りだした雨の前に、科学捜査班がライトを当てながら必死の捜査をしていた。その現場写真には、被害者が発見された場所よりも事故現場側にオイルにまみれた血溜まりが発見されていた。事故車両は一旦その場所に一定時間停車し、再び走り出してエンジンルームの隙間に挟まれていた被害者の遺体を落下させたと推測された。この証拠によって孝明は過失運転致死傷罪のみが問われ、懲役五年の実刑判決を受けた。





 

 初犯で社会的地位もある孝明に執行猶予が付かなかったのは、事故現場が横断歩道であった事、事故原因はライト点灯の確認を怠った彼の過失によるものと認定されたからであった。それは孝明自身も認めている。


「確かに。ライトを点灯していさえすれば、事故は起こらなかったのかも知れません。あの日、高い空に浮かぶ雲は鮮やかで眩しく、美しくさえ思えました。少なくともライトさえ点灯していれば、被害者はクルマを認識できたかもしれない。ライトの点灯を確認をして居れば――それが私の犯したミステイクだったのでしょう」 





 昼下がりの午後、判決が確定し拘置所から刑務所へと移送される護送車に孝明は乗っていた。カーテンの隙間から覗く何時もの見慣れた風景は、金網越しに異質なものに見えた。

 

 孝明の逮捕以来、芽衣子が姿を見せる事はなかった。例え、刑期を終え仕事に復帰できたとしても、彼女と触れ合う願いは叶えられないだろう。ならばせめて、最後に謝罪の言葉を掛けられなかったのが唯一の心残りだった。

 

 やがて護送車は"あの交差点"に差し掛かっていた。バス停には未だ夢から覚めやらぬ母親が、帰らぬ息子を待ち続けている姿があった。孝明の裁判では付添い人に連れられ遺族として傍聴席に座ってはいたが、彼女の心の中は、朝元気に出掛けて行った未だ帰らぬ歩との再開を心待ちにしていた。

 

 護送車は信号を抜けバス停前に差し掛かる。孝明の凝視した目には、彼女の口元は今も変らず笑っている様に思えた。護送車がバス停前を通り過ぎてゆく。『ザマヲミロ』彼の耳に女の囁きが聴こえた気がした。 

 

 

〈了〉

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