第17話 ロジカルシンキング7

 ある日、孝明は久しぶりに"あの"道を通った。何時もと変らぬ車窓からの風景は、彼に安心感を与えていた。暫く走ると、道端の白い立て看板が目に付いた。クルマを停め、立て看板を凝視した。其処にはカラープリントされた子供の写真と共に、轢き逃げの目撃情報提供を呼びかけるを文字が並んでいた。ラミネートパックされたポスターは雨の沁みで酷く汚れた。


「あの事故か」


 事故のあった日の時間帯、孝明は確かにこの道を利用していた。そして何かと接触したと感じた。しかし、孝明に事故の認識は無かった。クルマが何かを踏んでシャーシーに跳ねた程度の衝撃と思っていた。実際、クルマに傷らしきものは付いていなかったし、パーツも破損してはいなかった。芽衣子に逢った後、夜半から降り出した土砂降りの雨で、次の日に事故の痕跡など確認しようも無かった。

全てが雨に洗い流されていた。


 まて、俺は本当に事故を起こしたのか? 自分にさえ事故が起きた認識が無いというのに。だが、実際にこの場所で事故は起きている。警察が現場検証をし、被害者が居る。被害者の母親が居る。なら俺は……。いやまて、待つんだ。冷静になれ孝明。冷静に考えろ。思考実験をしてみるんだ。

 




 孝明は研究室で事故の状況を整理して時系列に書き出し、確定事項と予測を並べていった。


 事故のあった日、事故が起こったとされる時間帯に、確かに俺はあの場所を通過した。だから事故を起こした可能性は十分にある。

 

 次に、事故を起こしていた場合の証明をしてみよう。人身事故が起これば被害者が居る。被害者が居る以上事故は確実に起こっている。十歳に満たない子供なのだ、自殺は考えられないだろう。当然他殺も除外できる。しかし何故か子供は車道に出て事故は起こった。そして俺に事故を起こした自覚は無かった。これは自分の事だ。確実に言える。確かに俺に人を撥ねた自覚は無かった。しかし、何かと接触した事は認められた。

 

 では、俺の運転していた自動車と子供が接触したのは事実か? 何かと接触しショックを感じたのは確かだ。俺自身の記憶ではそうだ。ならば、接触した証拠は? 証明できるか? 見た目では出来なかった。それに次の日、大雨の中を走行したのだ。素人に証明できる可能性は極めて低いだろう。ならば、専門家なら可能か? 子供を撥ねて死なせたのが事実なら可能だろう。警察の鑑識課なら証明出来る筈だ。




 

 事故が起きたのは事実だが、俺が事故を起こしたのはあくまでも仮定に過ぎない。俺自身が事故を認識していないからだ。俺が事故を起こしたのであれば、俺がそれを認知しなければならない。では、誰が俺に事故を起こした事を知らせ、証明してみせる? それは警察の仕事だろう。


 次に、意味だ。警視庁の発表に拠れば平成二十九年度、日本国内での事故発生件数は四十七万二千百六十五件、うち死亡事故は三千六百三十件。死亡者数は三千六百九十四人。俺の住む街でも不幸にも事故は起きてしまった。犠牲者が出てしまった。毎年これだけの人間が犠牲になっている。

 

 しかし自動車が規制される事はけして無い。今や我々の社会を支える交通機関を規制し排除する事は困難であるし、生きている人間の生活を優先する冷たい方程式が作用しているからだろう。我々の日々の利便性や文化・文明の発展は彼ら犠牲者たちの悲しみの上に繁栄していると言う事だ。





 では俺が事故を起こしたかも知れないと名乗り出たと仮定しよう。するとどうなる? 俺は自覚していない轢き逃げの被疑者となる。本来、被疑者の犯罪は確定していない。証拠を集め検察が起訴相当と判断した段階でしかない。しかし世間は被疑者を犯人として扱う。争えば、結審まで何十年もの時間が費やされ、時として被疑者は刑罰以上のペナルティを被る。

 

 俺が乗っていたRV車は、新車の納車と同時に廃車にされ、スクラップになった筈だ。ならば事故の証明も俺の潔白の証明も不可能になる。反面、俺が名乗り出れば、例え俺が犯人ではなかったとしても、マスコミは俺を犯人として報道するだろう。世間の人々には犯人扱いされる。俺の人生は破滅する。

 

 もし、全ての問題を回避する方法があるとすればただ一つ。真犯人が逮捕される事だ。俺以外の人間が事故を起こし、逮捕されるより他ない。ならば今、俺のとるべき行動は何だ!?

 




 これは一種のジレンマだ。俺に箱の中身はわからない。箱の中に居る猫は生きているのか? 死んでいるのか? 開けてみなければ真実は観測出来ない。皆は死んでいると言っている。それを自分で確かめる為にはパンドラの箱を開けなければならない。しかし、自ら箱を開けたなら俺は死んでしまう。ならば俺がとるべき行動は何だ――俺がとるべき最適解は――何もしない――そうだ、これしかない。

 

 俺は何もしない。俺は何も知らなかった。事故があった事さえも。あの道を通った事さえハッキリとは覚えていない。あのルートの店舗はまばらだ。もし防犯カメラ映像が残っていたなら、当の昔に事故車両は特定されているだろう。事故から随分と日にちが経っているが、俺は事情聴取さえされていないではないか。警察には何の動きも無い。と言う事は俺は捜査線上に上がってさえ居ないと言う事ではないのか。

 

 もしも警察が俺を追い詰めた時には、その時には素直に応じれば良い。俺は何も知らなかったと主張すればいい。そして事故の証拠を集め証明するのは勿論、彼ら警察の仕事ではないか。


 事故は既に起きてしまっている。亡くなった子供には申し訳ないが、時間を巻きもどす事は出来ない。犠牲者は一人で十分だ。俺が事件解決の為に積極的に名乗り出たとしても犠牲者が一人増えるだけではないか。我々の社会は犠牲者の屍の上に成り立っている。俺が犠牲になれば未来の学術的発展は失われ社会的損失は大きい。ならば今、俺の採るべき態度は何もしない事なのだ。

 

 孝明は見開いていた目を閉じ、天井へ顔を向けてゆっくりと深呼吸すると、少しすっきりとした気持ちを小さな笑いに換えて漏らした。

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