第16話 ロジカルシンキング6
現在、不破孝明は帝都大学の准教授である。学校で学生に講義を行う傍ら、同じ学部の学部長である加納教授の下で研究を手伝っている。
講堂で、教鞭をとる孝明は学生達からも人気がある。理由は若く理知的かつ実直な性格が女子生徒のみならず、男子生徒からも尊敬と信頼を得ているからであろう。孝明自身は、恩師加納教授を見習っているにすぎないと謙遜してはいるが、実際、彼の中ではそれが真実であった。彼自身、加納教授に帝都大学で出会い理論物理学を学べた事で、今の自分が存在しているのだと
午後の眩しい日差しが差し込む講堂で、孝明はパネルを前に学生達へ講義を行っている。孝明の明瞭な声に耳を傾ける学生達は、若干女子が多い様に見える。
「今日は思考実験を体験し実践てみようと思う。思考実験に慣れ親しむ事で、学生生活なり卒業後に訪れるであろう、人生の諸問題解決に役立てて貰えると私も嬉しい。そこで今回は、君達もよく耳にするジレンマについて取り組みたい。ジレンマには様々ものがあるが、その中でも今回は最も認知度が高いと思われる、倫理学の論題トロッコ問題について、君達なりの答えを聞こう。その上で此処に居る我々の思考を深めて行こうというのが今回の目的だ。ではまず、内容の確認と前提から――」
――トロッコ問題とはイギリス人哲学者フィリッパ・ルース・フットの提唱した倫理学の思考実験である。
以下引用
前提として、以下のようなトラブル (a) が発生したものとする。
(a) 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。
そしてA氏が以下の状況に置かれているものとする。
(1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?
引用終わり
「本来は倫理学上の思考問題である事から、法的な責任は問われず、道徳的な見解だけが求められる。功利主義的には殺人が許容され、義務論的には何もしない事が正しいとされている。しかし、今回は思考実験を体験する目的である事から、現実的に何を選択しどう行動するするべきか。思考をめぐらせて欲しい」
孝明は自分の時計を確かめ、十秒ほどの時間が経過した時点で学生を指し質問をはじめた。
「では、君達の人生を大きく左右する選択を聞いてみよう。たったの十秒でなんて思うなよ。人生において身に降りかかる不幸とは往々にして突然訪れるものだ。そして、どれ程後悔しても時間は戻せない。では、まずは君から」
指された男子学生は慌て、まだ決めかねているのだろう煮え切らない曖昧な答えを出した。
「リアルな問題だとすると、知らなかったと答えます。そして、そうですね、一人を犠牲にする」
「すると君は嘘をつく訳だね?」
「そう、なりますね……」
「君は警察や新聞記者には事故を知らなかったと答え、社会的責任と非難をかわそうとする訳だ。別に君を責める訳ではない。ここに思考実験の意味がある。現実に同じ様な状況に置かれた時、自分ならどう対処するべきかを考えられる、論理的思考を予め身に付けておく。それが今回の目的だからだ」
「であるから、君の答えは現実に沿っていると言える。倫理学的には『何もしない』のが最善の答えとされている。当然、五人が犠牲となる。しかしこれはあくまでも学門的設定においての答えだ。現実には刑事責任が問われる。しかし、一人が犠牲になる方が罪は軽い。これは社会的重要度も考慮している。だから君は嘘をつかざるをえなかった。功利主義的答えを正当化する為にね。どちらにしろ君はA氏の立場に立った事が不幸だった訳だ。ひとりを犠牲にしようと五人が犠牲になろうと、君が事前にそれを認識していたと明かせば、社会的批判は免れないし、どちらにしても良心の呵責からは逃れられないのだから」
次は熱心に彼の講義を聴いている女子学生を指した。
「あたしは、止める為に飛び込みます」
「君の責任感の強さと優しさを示した答えではあるが、君の体重では多分トロッコは止まらないだろう。しかし、例え停まらず五人が犠牲になったとしても、君が罪に問われる事も非難される事もない。何しろ君は既に自殺してしまっているのだからね」
講堂にベルが鳴り響き講義は終了した。席を立ち、帰りはじめた生徒達を見送りながら、世の中には答えが存在しない問題は多い。此処に居る学生達に不幸が降りかかり問題と対峙した時、最適解を導き出せる人間に成長していて欲しいと孝明は願っていた。
孝明が片付けをしていると、ひとりの学生が問いかけた。
「先生ならどんな答えを出しましたか?」
何を期待しているのか、薄ら笑いを浮かべている男子学生に向き直り、孝明は少し考えてから
「そうだな、私なら一人を犠牲にして、警察には正直に答えるだろう。トロッコの前に体を投げ出しても良いが、それでは犠牲者がもう一人増えるだけだ。この言葉の真意は、自分の人生は自分で決断しなさい。と、言う事さ」
講義を終えた孝明は事務的な書き物を済ますと、誰も居ない実験室で来週からはじめる実験の準備をしていた。其処へ電話の呼び出し音が鳴り響いた。芽衣子からだった。
「えっ!? まだ、学校に居るの? 今日は実験が休みと父から聞いていたから一緒にディナーをどうかと思って。今ホテルにいるの、貴方の輝ける未来への前祝をしましょうよ!」
孝明は時計を確認した。もう六時をまわっている。講堂の影を見上げる遥か高空には冬の
「彼女からのお誘いだ。仕方ない、行くか」
孝明は疲労感に加え時間が遅い事を難儀に思ったが、加納教授のお嬢さんからの折角の誘いなのだ、迷惑などとは思わなかった。早く逢って彼女の喜ぶ顔を見たかった。
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